昼の月と夜の月(3/3)
「嬉しい結論だな」
荒魂様がかがみ込んで、私の唇に自分の唇を重ねる。といっても、抱擁された時と同様に、実際に体同士が接触したわけでなかったが。それでも、私の心の臓はドキンと跳ね上がる。
「口惜しいことこの上ない……」
荒魂様が私の口元の輪郭をなぞるように指を滑らせた。
「この唇の感触が分かるなら、死んでもいいのに」
「まあ、大げさな。神様が死ぬなんて!」
「神でも死ぬ時は死ぬんだぞ? あなたに会えないでいた頃は、焦がれ死にするかと思った」
「ですが、こうして生きていらっしゃるではありませんか」
私らしくもない軽口が飛び出してきて、思わず笑ってしまう。
「死んだらあなたに会えなくなってしまうから、必死に生き延びたんだ。……ほら、もう一人の夫が来たぞ」
荒魂様が顎でしゃくった方向を見ると、松明を持った残月様がこちらにやって来るところだった。
「まれびと! こんなところにいたのか!」
残月様は私の姿を見るなり、顔中に安堵の色を浮かべた。
「まだ日も出ていないのにいきなり外に飛び出していったから、心配したのだぞ。……ああ、荒魂が一緒だったのか。それなら一安心だな」
荒魂様に気づいた残月様の肩から力が抜ける。残月様にとって荒魂様は自分の分身のようなもの。信頼の置ける相手なのだろう。
「まれびとはただ、夜空が見たかっただけだ」
荒魂様が触れられないのも忘れて、私の肩に手を置こうとする。案の定、彼の手のひらは私の体を突き抜けてしまった。
「夜空?」
残月様がきょとんとした顔になる。
「それならもっといい方法がある。明日にでも一緒に行こう」
残月様が微笑みながら誘いの言葉をかけてくる。
そんな様子を見ている内に申し訳なさが込み上げてきた。残月様は館でのことを気にしていないようだけれど、私の中にはまだ彼にひどいことを言ってしまったという罪悪感が残っていたのだ。
「あの時の言葉は嘘です」
私は考えるより先にそう言った。
「愛しています」
媚びを売ろうとしたのではなく、本心からの言葉だった。
いや、もしかしたら今に限ったことではないのだろうか。私はずっと、自分の心に従って行動してきただけなのかもしれない。
残月様を愛していたから、彼に好かれるような言動を取ろうと思い立った。神域にいたいという気持ちももちろんあったけれど、その根底には夫への愛情があったのだろう。
「分かっている」
残月様が私の頭を撫でた。
「あの時のまれびとは怖い夢を見て混乱していただけだ。心が乱れれば、ありもしないことを言ってしまっても不思議はない」
残月様が私の発言に傷ついていないと分かり、ほっとする。やってしまったことは取り消せないけれど、残月様が何とも思っていないのならひとまずは安心だ。
「そんなことより残月。どうしても知りたいことがあるんだが」
隣で私たちのやり取りを聞いていた荒魂様が口を開いた。
「俺はまれびとの唇の感触が気になってならないんだ。だから、俺の代わりにあなたが彼女に口づけてどんなふうか教えてくれ」
「なんだ、急に」
残月様は目をパチクリとさせた。荒魂様は「急ではない」と不機嫌そうに言う。
「俺では確かめられないからあなたに頼んでいるんだ。それが嫌なら、俺の封印を完全に解いてくれ。そうすれば、実体が戻って自分で確かめられるから」
「できないことを承知で言うな」
残月様がばつが悪そうに言って、私の顎を持ち上げた。
「いいか、まれびと」
「えっ、は、はい」
いきなりのことに、何も考えずに反射的に返事をする。
すると、残月様が呼吸でもするように自然な仕草で私に口づけた。
「ふむ、なるほど……」
接吻自体は一瞬で終わった。残月様が私から離れていく。
一方の私は、自分の口をそっと指先で押さえた。
彼の唇がここに触れた時、心が躍るような感覚がした。まだ心の臓がドキドキと忙しそうに脈打っている。
荒魂様に口づけられた時も同じことを感じた。けれど実体がある分、今回は相手の存在を身近に感じることができて、より満たされた気がする。
体があるって素晴らしいことなのね……! 荒魂様も早く実体を取り戻せばいいのに。
「弾力があって温かく、柔らかい。少し荒れているような気もするが、手入れすればすぐに治るだろう。触り心地が繊細だから、あまり激しく口づけるとすぐに傷がついてしまいそうだな。手荒に扱うなよ、荒魂」
「当然だ」
荒魂様は憤慨したように言う。私のほうはといえば、自分の唇の感想を事細かに聞かされて、顔から火が出そうになっていた。まだ続けようとする残月様を「もういいですから!」と止める。
なんとも恥ずかしい一時だったけれど、残月様と夫婦らしいことができたのは良かったとしよう。あの口づけで、やっぱり私は残月様を愛しているんだと実感できたのだから。
「私、明日も名前探しに行くつもりです。もしよろしければ、お二人とも手伝ってくださいませんか?」
残月様と荒魂様の花嫁で居続けるためにも、消えてしまうわけにはいかない。どうしても私には名前が必要だ。二人は「もちろんだ」と声を揃えて言った。
「では、もう帰るか。あまり夜更かしすると明日が辛い」
「俺も今日からは館で寝泊まりさせてもらうぞ。あの八角墳はどうも寝心地が悪い」
こうして私は、二人の夫と共に帰路についた。




