昼の月と夜の月(2/3)
「一体どうしたんだ? 何をそんなに必死になっている?」
荒魂様は不思議そうに尋ねてくる。彼は私の話に、いまいち着いてこられないようだった。
「私は残月様に捨てられるのが怖いのです」
名前をつけてもらいたいと必死になるあまり、私はついうっかりと今まで心の中にしまっていた本音を告白していた。
すぐに迂闊だったと後悔したけれど、もう撤回するには遅すぎる。荒魂様は眉をひそめながら「捨てられる?」と私の言葉を繰り返した。
「今の私と残月様の間には、何の繋がりもありませんから」
何と答えればいいのだろうと思いながら荒魂様の金色の瞳を見ている内に、私は自然とそんなことを口にしていた。
「だから私は名前が欲しいのです。名前さえあれば、正式に婚礼の儀を執り行うことができますから。そうすれば、『妻』という役割が私をこの神域に……残月様の元に繋ぎ止めてくれるはず。そう思ったのです」
せき止めていた水が再び流れ出すように、スラスラと言葉が口から飛び出してくる。私はそのことにとても驚いた。
繋がりがほしいなんて、どうしてそんなことを思うようになったのかしら……?
不意に、立ちくらみのようなものを覚えた。この感覚は知っている。遠見だ。
私の頭の中で展開されたのは、寝床で見ていた夢の続きだ。お姉様に突き飛ばされた幼い私は、急斜面を転がり落ちそうになったものの、木の枝に服が引っかかってどうにか助かったのだ。
しかし、粗末な貫頭衣では私の体重を支えきれなかったらしく、布が破れ始めた。幼い私は焦りながらも、どうにか助かる方法はないかと辺りをきょろきょろと見回している。
木の枝につかまるという方法もあるだろうけれど、非力な少女がそんなことをしてもすぐに力尽きて斜面を転がっていくのが目に見えていた。
そんな絶体絶命の私が目をつけたのは、木の枝に巻きついていたツルだ。
私はツルの端をたぐり寄せると、それを縄のように自分の体にぐるぐると巻いた。その最中、ついに貫頭衣が完全に裂けてしまう。
このままでは落ちてしまうわ!
思わず目を伏せそうになったけれど、ツタのお陰で幼い私は命拾いした。ピンと張ったツル植物が私の転落を防いでくれたのだ。
どうにか助かった幼い私は一息つく暇もなく、命綱をつかむようにツタに両手でしがみついた。そして、歯を食いしばってツタを伝いながら必死に斜面を登っていく――。
「まれびと! しっかりしろ!」
すぐ傍で大声がして、ハッとなる。地面に倒れた私の傍らで、荒魂様が真っ青な顔になっている。
「どうした? 具合でも悪いのか? すまない。あなたに触れられれば、体を支えてあげることもできたんだが……」
「……いえ、平気です」
私はノロノロと立ち上がって、服についた土を手のひらで払った。
なぜこんな時に、あの夢の続きを見たのだろう。残月様の言うように、私が遠見の力を操れていないことに原因があるのかしら?
「まれびと、あなたは言ったな。俺も残月も、元を正せば同じ存在である、と」
物思いにふけりそうになったけれど、真剣な声で荒魂様に話しかけられて我に返る。
……今、荒魂様は私のことを「未咲」ではなくて「まれびと」と呼んだわね。
つまり、彼は私を「未咲」にしてくれる気はないということか。私は今でも名なしのままなんだわ。
「今からする話は、俺と残月が同じ存在であるという前提の上に成り立っている。だから、俺の言葉は残月の言葉でもあると思って聞いてほしい」
荒魂様の口調が真っ直ぐだったから、私の心に芽生えた暗い気持ちは思ったほども大きくは育たなかった。
胸の痛みに気を取られている暇があったら、荒魂様の話に真摯に耳を傾けるほうがいい。そう思ったのだ。
「残月はあなたを捨てたりしない。あなたが残月と離れ離れになるのを恐れているのと同じくらいには、残月もまれびととの別れに恐怖を覚えているからな」
「残月様が? けれど……」
「聞くんだ、まれびと」
荒魂様が人差し指を私の口の近くに立てる。
「だから本当は、残月は一瞬だってあなたと離れていたくない。けれど、あなたを意思のある一人の人間として見ているから、物のように……たとえば、いつも身につけている翡翠のかんざしのように、ずっと手元に置いておくことはしないんだ。……何が言いたいか分かるか?」
荒魂様は口を閉ざした。けれど、私が答えを返さないと、すぐに話を再開する。
「つまり、俺はあなたに『未咲』の名を与えてやることはできないと言っているんだ」
「……そうでしょうね」
神を相手にしているとは思えないほどに無愛想な声が出てしまった。ここまで長々と話してもらったのにこんなことを思うのは申し訳ないけれど、そんなの、彼が私を「まれびと」と呼んだ時点でとっくに察していたのだ。
「いいや。あなたは分かっていない」
荒魂様は苦笑した。責めるような口調ではないのが意外だ。やっぱり私には、彼が凶暴な一面を持っているというのがどうにもピンとこなかった。
「名を与えるという行為は、相手を所有する手段となり得る。少なくとも相手のどこか一部を自分のものにしてしまえるんだ。ここまではいいか?」
「はあ……」
自分の持ち物だから名前をつけたのではなく、名前をつけたから自分の持ち物になった、ということよね?
「では、この状態を名を与えられた側から見ればどうなると思う?」
「ええと……自分の一部が相手に所有されているのですよね? では、その人は何かが欠けた存在になってしまうのではないでしょうか?」
「そのとおりだ。もう俺の言いたいことが分かったか? 俺はまれびとの中から何かがほんのわずかでもなくなってしまうのが嫌なんだ。あなたには思うように生きてほしいから」
「……つまり、どういうことでしょうか?」
「よし、それならもっと分かりやすく言おう。残月に捨てられることを気にして、媚びなんか売らなくていい。嫌いなら嫌いと言って、頬でも張ってやるべきだ」
「嫌いだなんて!」
私はうろたえた。
荒魂様は、どうして話をほんの少し聞いただけなのに、私が残月様のご機嫌を取ろうと必死になっていることまで見抜いてしまったの?
けれど、私が残月様を嫌っているというのは見当違いもいいところだった。
「私は別に残月様を疎んじているわけではないのですよ。むしろ……」
「むしろ?」
荒魂様が先を促した。私は言葉に詰まってしまう。私が残月様に抱いている感情に名をつけたいとは前々から思っていたけれど、その答えはまだ出ていなかったのだ。
「大切なのは残月が何を考えているかではなく、あなたの気持ちだ」
荒魂様は私が答えを出すまで待つつもりらしかった。ゆっくりと私との距離を詰める。
「だから、あなたの心が訴えている正直な気持ちを聞かせてほしい。……安心してくれ。たとえあなたが俺や残月を嫌っても、俺たちはまれびとを愛している。あなたは俺と残月の妻。誰よりも愛しい、ずっと待ち続けていた花嫁なのだから……」
荒魂様が優しい眼差しでこちらを見つめ、そっと私を抱きしめた。もちろん、触れられないから形だけだけれど。
荒魂様の腕の中にいる内に、私は残月様への気持ちに答えを出さなければという焦りが消えていくのを感じた。焦らなくても、答えなんてすでに知っている。そんな気がしたのだ。
私は、たっぷりとした湯に肩まで浸かっているような温かく落ち着いた心地になっていた。残月様に触れられている時と同じ気持ちだ。
思えば、荒魂様が私を見つめるあの優しくて愛情に満ちた眼差しも、残月様を連想させるものだった。
……ああ、そうだったわね。残月様と荒魂様は別人ではない。元々は同じ方だったわ。
どうやらそのことを頭では分かっていても、心のほうではまだ理解できていなかったらしい。
けれど、こうして彼と触れ合っている内に私は気づいたのだ。昼の月も夜の月も同じ月。つまり、残月様も荒魂様も、どちらも私にとって大切な方なのだ、と。
「あなたは私にとってかけがえのない夫です」
私は荒魂様から少し離れ、彼の金色の瞳を覗き込みながら言った。これは不義密通ではない。なぜなら、この言葉は残月様に向けたものでもあるのだから。




