昼の月と夜の月(1/3)
どうしてあんなことを言ってしまったんだろう……。
星明かりを頼りに夜の神域を歩いている私の胸の中は、後悔でいっぱいだった。
残月様は、きっと私をお嫌いになったわ。ひどいことを言っただけではなく、突然館を飛び出したりして。今頃は、私のことを身勝手だと思っているに違いない。
――愛してなどいません!
自分自身を罰するように、先ほどの言葉が頭の中で繰り返し再生される。その声をどうにか止めたくて手のひらで耳を塞いだけれど、無駄だった。立ち止まって唇を噛み、その場にうずくまる。
その時になって初めて、私は自分がどこにいるのか気づいた。辺りにあるのは、土を盛って作った人工物の数々。神域の中の墳丘がある区画だ。
「こんなにたくさんの墳丘を見るのは初めて……」
思わず独り言が漏れる。
立波村にある墳丘は、円形と四角形を組み合わせた形のものが一つだけ。でも、ここには円形のものや四角形のものなど、様々な形の墳丘が建っているようだった。どうしてこんなに色々な種類があるのかしら?
「墳丘は、用途によって形が違うんだ」
唐突に声がして、私は飛び上がりそうになった。辺りを見回すと、八角形の墳丘の上に誰かが腰掛けているのが見える。
「あそこに見える円墳は倉庫。あまり使わないものが保管されている。それから、こちらは通路の役割を担っている墳丘だ。他の場所にある同じ形の墳丘と繋がっていて、品物のやり取りや人の行き来ができるんだ。まあ、そんなことは教えられなくても知っているか。あなたはここを通ってこの神域に……」
ふと、その人は言葉を切った。私が泣いているのに気づいたのか、うろたえたような声を出す。
「すまない……。俺が何かしてしまったか? 乱暴者とよく言われるから、気をつけてはいるのだが……」
その人が墳丘から飛び降り、私のほうにやって来る。至近距離まで近づいてくると、その顔の細部まではっきりと見えるようになった。
けれど、私は声で彼の正体にとっくに気づいていた。残月様だ。
ただし、今の残月様は昨日の夜に見た時のように、白目が黒く、瞳が金色の姿をしている。
服装や髪型も、館にいた時とは違っていた。やはり昨夜と同じで、大刀を帯びて、みずらも結っていない。領巾を身につけているのも前の晩と同様だが、今回は頭に被らずに、本来の用途である肩掛けとして体に巻きつけていた。
「あの、私……」
先ほどあんな別れ方をしてしまっただけに、何と言っていいのか分からない。言葉に詰まって、残月様を上目遣いで見つめた。
一方の残月様は、なぜかきょとんとした表情をしている。まるで、どうして私が気まずい思いをしているのか分からないとでもいうように。
あんな出来事は水に流してしまおうと言いたいのかしら? それとも……?
「残月様はおふたりいらっしゃるのですか?」
目の前の青年に、私は無意識の内にそう問いかけていた。
「あなたはもうひとりの残月様ですね?」
どうしてそんなふうに思ったのかは分からない。ただ、直感的に感じたことを言ってみただけだ。あえていうなら、私の体を流れる巫者の血が彼の正体を教えてくれたのである。
「ああ、そのとおりだ」
青年は、そんな当たり前のことを聞かれるのは意外だとでも言いたげな表情で頷いた。
「俺は残月の荒魂だ。見方を変えれば、残月が俺の和魂であるとも言えるが」
「荒魂……」
神には二面性がある。災いを呼ぶ攻撃的な面と、人々を守る平和的な面だ。
その攻撃的な部分を荒魂、平和的な部分を和魂という。
「俺の正体を知って怖くなったか?」
荒魂様が自嘲気味に笑った。
「俺は乱暴者だからな。そのせいで、かつては人々に疎ましがられたこともあったものだ」
「私は……そのようには思いません」
私は荒魂様の立ち姿を眺めながら言った。
荒ぶる神とのことだが、今の彼からは特に粗暴さは感じられない。それどころか、見た目だけで言えばどこか優美ですらある。
もしかすると、自分が荒魂であることを気にした結果だろうか。女性的な髪型や装身具も、相手を威圧しないようにという配慮なのかもしれない。
「荒魂と和魂という区別はあっても、元を辿れば同じ神様ですもの。だったら、どちらも敬うべきもののはずです。あなただけを特別に怖がるようなことはいたしませんよ」
「そうか……。あなたは大らかなんだな。神域の民と同じだ。そういうところも好きだ」
荒魂様が熱のこもった瞳で私を見る。何? その意味深長な眼差しは……。
と思ったものの、とりあえずは気にしないことにして、今度は別の質問をした。
「昨夜私の元を訪ねてきたのは荒魂様だったのですね。あなたは何というお名前なのですか? それに、どうして私に名を呼んでほしいと頼んだのでしょう?」
「俺の名前は、俺自身にも分からない」
荒魂様は残念そうに首を振った。私は目を見開く。
「それでは、亡名者ということでしょうか?」
だが、荒魂様は私がこれまで接してきた亡名者とは、随分と様子が違う。彼はきちんと理性を保っているし、普通の人と変わりなく見えるのだ。
「俺は名を忘れてしまったのではなく、奪われただけだ。亡名者とは違う」
「名前を奪われた……?」
「分かりやすく言えば、こういうことだ」
荒魂様はこちらに向かって腕を伸ばした。けれど、彼の手は私の体を突き抜けてしまう。
ああ、そうか。彼には実体がないんだった。
「俺は名を奪われて封印された。要するに、今の俺は不完全なんだ」
「あなたも残月様のように欠けた月なのですね」
私は独り言のように呟く。
「ひょっとして、私に名を呼んでほしいと言ったのはそのためですか? 亡名者が周りの人に自分の名を聞いて回るように、荒魂様もご自分の名前を取り戻そうとしていた……?」
「それもある。……だが、本当の動機は少し違うな。ただ愛する人に名を呼んでほしかっただけなんだ」
「愛する人……?」
荒魂様が先ほどと同じ情熱的な視線を寄越してきた。またしても私は困惑し、今度はそれだけではなく激しい動揺も感じてしまう。
まさか、荒魂様は私を愛しているというの?
もちろん、神が人を愛するのは自然なこと。何もおかしくはない。
けれど、荒魂様が私に向けている感情は、そういった親愛に近い愛情とは別物のように思えた。彼から感じられるのは恋慕。つまり、荒魂様は私に恋しているということだ。
「い、いけません! そのようなこと!」
私は思わず後ずさった。
「私は残月様の花嫁なのです! あの方を裏切るなんて……」
先ほどの館での出来事が蘇ってきて、私は口を閉ざした。あんなに勝手なことをしてしまったのに、まだ私は残月様の花嫁であると言えるのだろうか?
「どうした?」
荒魂様が心配そうな口調になる。気がつけば、私はまた泣き出していた。
荒魂様と会話している内に忘れかけていた胸の痛みが戻ってくる。私は残月様にとんでもないことを言ってしまった。罪悪感で息が苦しくなってくる。
「大丈夫か?」
荒魂様が指先で私の涙を拭おうとした。けれど、彼の体は私の顔を通り抜けてしまう。
「厄介な身の上だ」
荒魂様は吐き捨てるように言った。自分自身に腹を立てているのだろう。
「名を取り戻し、封印を解かなければ、愛しい相手の涙を拭いてやることもできない。……あなたは泣くほど俺が嫌いなのか?」
「……そうではありません」
私は服の袖で目元を拭った。顔を上げ、墳丘を絶望的な気持ちで見つめる。
「残月様は、私にもう一度ここを通れと言うかもしれません。ここを通って神域から出ていけ、と。もう村に帰れ、と……」
「残月があなたを手放す? そんなこと、あるわけがないだろう」
「私は残月様にひどいことをしてしまったのです。言ってはいけないことを言ってしまった。だから、あの方が私を嫌いになってしまってもおかしくはありません」
「そんなことはない。何があったかは知らないが、残月は未咲を嫌いになったりはしない。俺には分かる」
荒魂様は自信満々の口調だ。
どうしてそう言い切れるのかという疑問はさておき、荒魂様の発言に私は引っかかるものを覚える。昨夜と同じく、彼は私のことを「未咲」と呼んだのだ。
「どうしてあなたは私が『未咲』だと思うのですか?」
「さあ……どうしてだろう?」
荒魂様は困惑したように首を捻った。
「なぜ俺はあなたを『未咲』と呼ぶんだろうな? そもそも、『未咲』とは誰だ……?」
この反応、前にもどこかで見たことがあると思ったら、残月様とほとんど同じだった。二人とも、記憶に抜けているところがあるらしい。
「何も覚えていないなら……私を『未咲』にすればいいではありませんか」
突然そんな考えが湧いてきて、私は心にかかったモヤの一部が晴れていくのを感じた。
そう、私の気持ちを重くしていたのは残月様に暴言を吐いたことだけではない。名なしの苦しみが小さなトゲのように意識の片隅に食い込んで、離れなくなっていたのだ。
今の私の状況は絶望的だ。離縁はされかけているし、まだ名前も見つけられていない。
その悩みの一部でも取り払うことができれば、どれほど気が楽になるだろう。
私はこの素晴らしい思いつきを荒魂様に分かってもらおうと、言葉を重ねる。
「これから私は、あなたがつけてくれた『未咲』という名で生きます。そうすれば、私はもう名なしのまれびとではありませんもの。ひょっとしたら、残月様も私を許してくださるかも……。そして、もう遠くへ追いやってしまおうとは思わないかもしれません」
ついつい、そんな都合のいい妄想までしてしまう。
私は、「未咲」というのが自分の名前として、妙にしっくりくることに気づいた。どうしてかしら? 私と「未咲」との間には、何の関係もないはずなのに……。




