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名もなき供物の幸せな神隠し  作者: 三羽高明


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名なしの悲しみ(1/1)

 その日の夜。私は夢を見た。


 前回の夢と同じで、私は幼い姿をしていた。けれど、残月様は出てこず、代わりにいたのはお姉様だった。


「名なしは用なし! 名なしは用なし!」


 村の近くにある山の中で、幼いお姉様は、いつもどおり私をいじめていた。


「この世界の誰もあんたなんかに用はない! あんたはこの世界の誰からも認められない! それで、いつかはこの世からも消えちゃうんだわ!」


 きゃははは、とお姉様は甲高い声で笑う。一方の私は、茶褐色の目から涙が今にもこぼれそうになっていた。


 私はいなくなってしまうの? 名前がないせいで?


 しゃくり上げると、ついに瞳から(あふ)れ出た涙が頬を伝った。それを見たお姉様が、ますます意地悪な声で笑う。


「名前を……ください」


 名前さえあればここにいてもいいはずだ、と思った私は、必死になってお姉様に頼む。けれど、お姉様は私の頼みを聞いてくれる気はまったくないようだった。


「嫌よ!」


 邪険に言い放ち、お姉様が私の肩を強く突き飛ばした。私の後ろにはほとんど崖といってもいいような急斜面がある。


 そこを転がり落ちそうになる寸前で、私の貫頭衣が地面から飛び出した木の枝に引っかかった。


 目を回している私を、お姉様は面白くもなさそうに上から見ている。そして、もう飽きたとでも言いたげな顔で、どこかに行ってしまった。


 ビリッ。


 嫌な音がして、私の貫頭衣の裂け目が広がる。


 危ないわ! このままでは下に落ちてしまう!


 そう思ったところで、私は目が覚めた。


 すぐには夢と現実との区別がつかず、混乱しながら辺りを見回す。その拍子に、寝台の傍に誰かがいるのに気づいた。


「大丈夫か?」


 残月様だった。蒼白い瞳を気遣わしげに細めている。


「どうして……ここに……」


 まだ夢から覚めた衝撃が抜けきらないかすれた声で尋ねると、残月様は「近くを通りかかったら、お前がうなされている声が聞こえたのだ」と言った。


「恐ろしい夢を見ていたようだな。だが、そんなものはただの幻だ。気にすることはない」


 残月様が私の頭を撫でた。不安定な気持ちになっていた私は、その優しさにひどく心を揺さぶられる。


 気づいた時には、私は残月様の胸元に(すが)って泣いていた。


「名前をください……」


 私は無意識の内に懇願していた。


 私が長い年月をかけて忘れるように努め、やっと心の奥底にしまうことができたと思っていた名なしの苦しみが、夢によって鮮やかに蘇ってきた。その苦々しい感情は私の心を傷つけ、どこまでも(むしば)んでいく。


「私に名をください……!」


 夢で幼い私がお姉様に頼んだのと同じことを残月様に願い出る。


 やはり私は相当な愚か者のようだ。どうして今までこんな簡単なことを思いつかなかったのだろう? 残月様なら、私に相応しい名を知っているはずだ。だって、彼は神様なのだから。


 けれど、その予想はすぐさま裏切られることとなる。


「それはできない」


 残月様がゆっくりと首を横に振った。


「自分が自分でいたければ、自らの手で名をつけるしかない。他人から名を与えられると、その相手に支配されてしまうかもしれないからな」


 それは、お姉様よりもずっと理知的で優しい断り方だった。けれど、拒絶は拒絶だ。私は目の前が真っ暗になったような気がした。


「支配されたって構いません……。相手があなたなら」


 私は絶望に打ちひしがれながらも、懸命に残月様の助けを求めた。しかし、残月様はどうしてもうんとは言わない。


「いくら愛しい相手でも、それはよくないことだ」


 どうして? どうして残月様は私に手を差し伸べてくれないの? 私がこんなに苦しんでいるのに、なぜ簡単に見捨てられるの?


 結局のところ、神の花嫁なんて、その程度の存在ということ?


 そう思った途端に、急速に何もかもがどうでもよくなってしまった。破れかぶれになって叫ぶ。


「愛してなどいません!」


 その怒声は、夜の静けさを切り裂くように辺りにこだました。しんと静まり返った部屋で響く声はやたらと大きく聞こえて、私は瞬時に冷静さを取り戻す。


 ああ……何てことを言ってしまったの?


 捨てられる。神域から追い出される。私は村での暮らしに逆戻り。名なしの奴婢。もはや神の供物ですらない。そんな私を、村人は絶対に歓迎しないだろう。


 私はもう残月様の傍にいられない。


 そう思った途端に、どうしていいのか分からなくなってしまった。私は寝台から飛び降りると、残月様に何も言わずに寝室を飛び出した。



 ****



 豪奢だが、どこかおどろおどろしい雰囲気が漂う室内。鬼火の明かりが照らすその薄暗い部屋の最奥に、玉座が設置されている。


 その玉座に座る冠を被った男性の前に、一人の女性が跪いた。その男女の体はどちらも骨でできている。あごの骨をカタカタと鳴らしながら、女性が口を開いた。


「我が君。産土神(うぶすながみ)の残月の神域にて、掟破りを確認いたしました」


 冠の男性はその報告を聞いて不可解そうな顔になる。彼らの骨は、まるで生き物のように動いて、表情を形作ることもできるのだ。


「なぜわざわざその程度のことで報告を寄越した。普段どおりに処せばよかろう」


「それが、違反者は産土神の花嫁ですので」


「……なるほど。罪人といえど丁重に扱わねばならないというわけか。面倒な……」


 王は顎の下を指で撫でる。


「分かった。まずは使者を派遣せよ。そして、この地でもそれなりの待遇は保証すると請け合うのだ」


「承知いたしました。しかしながら、相手が神の妻となると、お迎えの準備にも時間がかかりますが……」


「とはいえ、いつまでも罪人を地上へ置いておくわけにもいくまい。罪を犯した者が罰を受けずにのうのうとしているのは、我々の沽券(こけん)に関わる」


「では、手が空いている者を総動員して支度を調えましょう。使者は明日にでも派遣いたします」


 一礼して、異形の女性は去っていった。部屋に一人になった冠の男性は、疲れた様子でぐったりと玉座の手すりにもたれかかる。


「隠り世の王になどなるものではなかったな。厄介な役ばかり回ってきおって……」


 愚痴をこぼす異形の王の顔を、鬼火が妖しく照らしていた。

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