神の花嫁(1/3)
目が慣れてくるまで少し時間がかかった。まだ動悸は静まらないけれど、いつまでもこんなところに立っているわけにもいかないので、震える足で先に進む。
今度の羨道はとても長かった。十歩、二十歩……もっと歩いて、やっと前方に光が見えてくる。星明かりだろうか。少しためらったけれど、意を決して外に踏み出した。
……ここが神域?
私が今まで住んでいた現し世と同じで、この場所も夜だった。そのため、周りの様子ははっきりと見えない。ただ、星明かりの下でも、周囲には多くの墳丘が並んでいるのが分かる。
立波村の近くにある墳丘は一つきり。こんなにたくさんの墳丘を見るのは初めてで、圧倒された私は、辺りをきょろきょろと見回した。
異変に気づいたのはその時だった。
「え……何、これ……」
私は自分の手のひらを凝視する。薄物の布のように、体を通して向こう側の様子が見えていた。
透け始めているのは手だけではない。指も腕も足も、段々と透明に近づいていっている。
まるで、私の存在がなくなりかけているかのように。
「何、何なの、これ!? い、いやぁ!」
神様に食べられる覚悟はしていたけれど、体が消えてしまうなんて事態は想定外だ。動揺のあまり頭が真っ白になる中、思い出したのはお姉様の言葉だった。
――名なしのあんたなんて、この世に存在していないも同然ってことよ。
「お姉様の言うとおりだった、ということ……?」
名前がないとこの世にいられない? つまり……私はこのまま消えてしまう?
そう思うといてもたってもいられなくなり、私は夜空に向かって大声で叫んだ。
「嫌よ! 消えたくない! 私はまだ生きていたい……!」
最期の言葉がこんなものになってしまうなんて……。
私はきつく目を瞑った。消えたくないとは思っていても、そのためには何をすればいいのかまるで思いつかなかったのだ。
そのままどのくらいたっただろか。私は自分の意識がまだあることを不思議に思っていた。体が消えたのに、魂はまだこちら側の世界に残っているのかしら?
消滅してしまった自分の体を見るのは怖かったけれど、私は勇気を出して目を開けた。そして、全身の力が抜けそうになる。
体に実体が戻っていた。もう向こう側は透けていない。私は大きく息を吐き出す。
「助かった……のかしら?」
口に出せばそのとおりになるかもしれない、と思いながら呟く。
リイィン……。
ふと、澄んだ鈴の音が聞こえた。近くの木陰から誰かが姿を現わす。
暗いのでよく分からないが、多分男性だろう。星明かりで、すらりとした長身が影絵になって浮かび上がっている。
その男性が木から枝を一本折った。
「残月の名において命じる。燃えろ」
手触りの良い布のように滑らかで柔らかな声が響く。すると、枝の先に真っ赤な火が灯った。
え、どうやったの!? 火打ち石を使ったようには見えなかったのに……。
そんな疑問は、炎に照らされた男性の姿を見た途端に、一瞬で消え失せた。
とても綺麗な方……。
年齢は二十歳くらいだろうか。色白で繊細な目鼻立ちをしており、瞳は青みがかった白。波打つ長い髪は銀色だ。後頭部で団子状に結い上げ、そこに葉っぱの飾りがついた翡翠のかんざしを挿している。
耳の下でも、髪を輪っかのように結んでいた。この「下げみずら」は、身分の高い者にだけ許される髪型だ。村での暮らしで染みついた奴婢のような振る舞いに従い、私はその場に跪いた。
「何をしている」
男性は不可解そうに尋ねる。私はかしこまって返事をした。
「どなた様かは存じ上げませんが、お迎えにいらしてくださったのでしょうか。私は立波村より参りました神の供物でございます」
お姉様なら、もっと立派な口上が思いつけたのに……。
無礼者と思われて、笞で打たれはしないだろうか。そう心配していると、男性は少し驚いたような声を出す。
「私が誰か分からないのか?」
怒りを買ってしまったかと思い、一瞬ヒヤリとした。けれど、彼の声から感じられるのは、怒りというよりは純粋な疑問だけだ。
「立て」
命じられるままに私は頭を上げ、立ち上がった。
「私は残月だ。……私もお前に名を聞いたほうがいいか?」
「私……ですか? ……供物と申します」
「それは名前ではないだろう」
男性……残月様は困惑したような顔になる。けれど、困ってしまったのは私も同じだ。
「ほかに名などありません。私は生まれた時からずっと、『供物』と呼ばれていましたから」
「まさか歴代の者たちも? ああ、どおりで……」
残月様は難しい顔で黙り込んでしまった。考え事の邪魔をするのはためらわれたけれど、せっかく人に会ったのだから、私も自分の務めを果たそうと彼に質問をする。
「この神域の主様に会うためには、どちらにお伺いすればよろしいでしょうか?」
「どこにも行かなくていい。もう会っている」
残月様は、自分の胸に手を当てた。
「私がこの神域を治める神だ」
「あ、あなたが?」
予想外の返事に、私は戸惑いを隠せない。
「え、ええと……。食べるならひと思いに。痛くないようにお願いいたします……!」
私は深々と頭を下げた。だが、聞こえてきたのは不思議そうな声だった。
「別に食べたりなどしない」
思わず顔を上げると、複雑そうな表情をする残月様の蒼白い瞳と目が合った。
「気づいているか? お前は今、重大な危機に直面している。……このままだと、あと十日で体が消えてしまうぞ」




