冷たくて甘い時間(1/1)
何人もの職人に名前を聞いている内に、随分と時間がたったようだ。いつの間にか、昼と夕方の真ん中の時間帯になっていた。
今日は春にしては暑い日で、野外で動き回っているだけで肌が汗ばんでくる。喉も少し渇いていた。
「休憩するか」
私が手の甲で額の汗を拭っていると、残月様がそう言った。
「丘に場所を用意した。歩く元気がなければ、私が抱いて運んでやってもいいぞ」
「いいえ、平気です」
さすがにそこまでは参っていない。残月様は少し残念そうに「そうか」と言った。
指定された場所へ行くと、五人くらいは余裕で入れそうな大きな日傘の下に、同じく長いござが敷いてあった。私がそこに座ると、待ってましたとばかりに侍女の小雪さんが登場する。
「さあ、どうぞ」
小雪さんが私と残月様の前に底の深い器を置いた。
中に入っているのは何かしら? 半透明でふわふわしていて、とろりとした黄色い液体がかかっている。その丸く盛られたふわふわのてっぺんには、黄色い花びらがちょこんと乗っていた。
器の縁からは煙のようなものが流れ出ている。それに触れると冷たい感触がした。もしかして冷気?
謎の品をじろじろと眺め回す私とは対照的に、残月様は小雪さんが持ってきた匙でそのふわふわしたものをすくうと、ためらいもせずに口に含んだ。これ、食べ物だったのね。
私も残月様を真似して一口、いただいてみることにする。
その途端、口の中に爽やかな冷たさが広がって、汗が引いていった。謎の食品の正体が分かった私は、思わず叫びそうになる。
「もしかして氷ですか!?」
「削り氷というんだ」
残月様が言った。
「名前のとおり、氷を削って上から蜜をかけた食べ物だな。本来は夏に食べるものだが、今日は暑い。例外を認めても構わないだろう」
「夏に氷を……」
なんて贅沢なのかしら! 残月様が言っていた「ちょっとした楽しみ」ってこれのことだったのね!
彼の気軽な口調からするに、削り氷は神域では特別な食べ物でも何でもないのだろう。ここに住む人たちは、霊力で自由にものを凍らせたりできるのだから当然かもしれないけれど。
でも、現し世出身の私にとっては、春の日の氷など夢のまた夢だった。
氷室といって、冬の間にできた氷を夏まで保存しておく施設の存在は知っていたけれど、私が住んでいた村にはそんなものはなかった。だから冬期以外に氷を使うのは、村の有力者でも不可能だったのだ。
私は神域の素晴らしさを堪能する思いで、シャリシャリと音を立てながら削り氷を食べていく。
氷自体に味はついていないけれど、それが上にかかった蜜の甘さを引き立てていた。たまに大きな氷の塊が混じっていて、食感が変わるのが楽しい。
これが暑い日に食べるものなら、削り氷の上に乗っているのは、恐らく菊の花びらだろう。菊の花には、暑さで体調が悪くなるのを防ぐ効果があるから。
「面白い食べ物ですね。まるで口の中に雪が降ってきたみたい」
私の口内は、一足先に冬が来たようにひんやりとしていた。試しにふう、と息を吹いてみると、吐息も冷たくなっている。雪女みたいだわ!
はしゃいでいたら、匙からこぼれた氷が手に落ちた。ひやりとした冷たさを感じたかと思うと、氷は私の体温で瞬く間に溶け始める。
「どうしましょう……」
何か拭くものはないかと辺りをきょろきょろしていると、残月様に腕を取られた。残月様は私の手に顔を近づけると、肌に直接口をつけて落ちた氷を食べてしまう。
「はしたなかったか?」
ちらりと目を上げて、残月様がいたずらっぽい表情で尋ねてきた。あまりに大胆な触れ合いに、私はどぎまぎしながら「いいえ」ととっさに首を振る。
「その……残月様のお口の中も冷たいですね」
動揺してとんちんかんな台詞を口走ってしまったけれど、「そうだな」と残月様は余裕の笑みだ。私の唇を人差し指ですっと撫でる。
「どちらの口内が冷たいか、比べてみるか?」
「え……どのようにしてですか?」
「ふふ……どうすると思う?」
残月様の蒼白い瞳は、氷の欠片のように煌めいていた。もしかしなくても、口と口を合わせるってこと? 想像したら恥ずかしくなり、思わずうつむく。残月様はおかしそうに削り氷の残りを食べ始めた。
甘くて冷たくて幸せな時間はあっという間に過ぎる。器の中身が空になる頃には私の喉の渇きもおさまって、疲れも取れていた。氷に蜜をかけただけの食べ物なのに、意外とお腹がいっぱいになっているのが不思議だ。
丘を吹き渡る風が日傘を揺らし、残月様が足にくくりつけている鈴を軽やかに鳴らす。私は遠くを見遣った。
絶好の洗濯日和に相応しく、干された白い服があちこちで風にたなびいている。畑では農民が大地を耕し、その傍で子守の少女が背負った赤ちゃんをあやしていた。
空を見上げると、朝方に見えていた月はすでに沈んでいた。それも当然か。もう日暮れまでいくらもないものね。
月を探している内に、私は昨夜の出来事を思い出していた。私の寝室に来た、いつもとは違う様子の残月様。彼が口にしていたのは、私が知らない人の名前だった。
「未咲とは誰なのですか?」
私は何気ない調子で尋ねる。残月様は一瞬呆けたあと、「未咲……」と呟いた。
その声には、複雑な感情がこもっていた。懐かしそうな、嬉しそうな、恋しそうな、それでいて、どこか悲しそうな……。きっと、「未咲」は残月様にとって大切な方に違いない。
そう思っただけに、残月様の返事は意外なものだった。
「誰……だろうな」
残月様は胸に手を置いた。
「私には、未咲が誰か分からない。だが、その名を聞くと、不思議と心が満たされる……」
「もしかして、昔の恋人ですか?」
「……そうなのだろうか? よく覚えていないな」
はぐらかしているのではなく、本当に記憶にないらしい。けれど、残月様は愛おしげな表情をしていた。記憶にはなくても、「未咲」が特別な相手なのは間違いないらしい。
そう思うと、なぜか私の胸は温かくなった。
どうしてこんな反応をしてしまうのかしら。普通、夫が妻以外の者を愛していると分かったら、嫉妬したり悲しんだりするものではないの?
私は不可解な気持ちになる。まるで、残月様が私を好きと言ったみたい、と感じてしまったからだ。私と「未咲」には、何の繋がりもないはずなのに……。
「もし恋人だとして、覚えていないということがあるのでしょうか?」
不思議に思いながら尋ねると、残月様は「私は欠けた月のように不完全だからな」と言った。
「完璧ではないのだ。あれを封印したことによって、色々なものが欠けてしまったのかもしれない。だが、欠けたものを取り戻そうにも、奴の名が思い出せない。……いや、思い出したとしても、封印を解いてはいけないのだ。そう誓ったはず。……だが、一体誰と?」
残月様が独り言のように小声で呟くものだから、私には彼の言葉の半分も聞き取れなかった。残月様は自分だけの世界に入り込んでいるような声色で続ける。
「時間と共に様々な記憶が抜け落ちていっている気がする。まるで、満ちることのない月のように……」
「ですが、欠けていても月は月でしょう?」
私は残月様の腕に、自分の手を置いた。すると、残月様は夢から覚めたような顔で私を見つめる。
「そう……だな」
残月様は慈愛のこもった表情で私を引き寄せ、抱きしめた。
「それに、色々と忘れてしまっても覚えていることもある。お前を愛しく思う気持ちもその一つだ」
「まるで長年片想いをしてきたような言い方ですね。私たちはつい数日前に会ったばかりなのに」
「本当にそうだろうか」
残月様が私の首元に顔を寄せる。
「三日月も満月もどちらも月。少し見た目が違うだけだ。見方を変えれば、根のところでは繋がっている。そうは思わないか?」
「つまり、忘れているだけで私たちは昔会ったことがあるかもしれない、と?」
残月様の話は難しくてよく理解できなかったけれど、私は自分なりに彼の言いたいことを解釈してそう尋ねた。
私が思い出していたのは、昨夜見た夢だった。そこでは、幼い私と残月様が無邪気に遊んでいた。
「ならば、私たちの出会いは再会だったというわけか……」
残月様が目を閉じた。記憶から抜け落ちかけている過去に想いを馳せているのだろうか。
でも、その顔に浮かんでいるのは懐かしさと呼ぶにはあまりにも苦々しいものだった。心配になった私は「残月様?」と声をかける。
「いや、平気だ」
残月様はそう言ったけれど、まだ表情は晴れない。
「ただ、昔を思い出すとここに痛みが走るのだ」
残月様が自分の胸にそっと手を当てる。
「何か悲しいことでもあったのですか?」
「そうかもしれないな。……だが、記憶など所詮、見せかけだけのものだ」
「見せかけ……」
意外な考え方に驚いた。残月様は、自分の過去に何があったのか知りたくはないのだろうか。
「私が重きを置いているのは、起きた出来事よりも、その出来事によって何を感じたかだ。そして、それよりも重視するのは、今自分が何を思っているかということだ」
過去を忘れつつある残月様なら、そういう結論に至ってもおかしくはないのかしら? と思っていると、残月様が私の頬を両手で包む。
「今の私にとって重要なのは、私がお前を愛おしく思っているということだけだ。それに、まれびとも私を好いてくれている。嬉しい限りだな」
申し訳ありません。私の好意は本心から出たものではないのです。残月様に捨てられないようにするためのお芝居なんですよ。
残月様があまりにも純真な目をしていたものだから、思わず正直にそう言いそうになった。出かかった言葉を慌てて飲み込む。
私が残月様と一緒にいる時に感じているのは、胸の奥が疼くような今まで体験したことのない感覚だ。
これは何なのだろう? と疑問に思わなくもないけれど、きっと、親切にしていただいて嬉しいと喜ぶ気持ちなのかもしれない。今まで誰かに大切に思われたり、愛されたりしたことがなかったのだから。
けれど心のどこかでは、この感情にもっとはっきりとした名前を与えられそうな気もしていた。
神域では名前のない生き物は消えてしまう。
その「生き物」というのは生物だけを指しているわけではないのかもしれない。たとえば、人間の心。
くるくると移り変わってめまぐるしく変化する心は、「生きている」と表現してもいいのではないだろうか。
心は生き物。そして、感情は心が生み出すものだ。だから、私が今抱いている想いに名前を与えられなければ、いつかこの気持ちも消えてしまうかもしれない。
けれど、そうなってほしくはなかった。
そのためにはどうすればいいのかといえば、残月様の傍にいて、その正体を見極めるのが一番だろう。
私が残月様の隣にいようと決めたのは、神域を自分の居場所にしたかったから。そして、誰かに愛されているという状況を手放したくなかったから。
そこにもう一つ目的が加わったわけだ。
この正体不明の感情に名前をつけること。つまり、また名前探しをするわけだ。
「そうですね。私も残月様を大切な夫だと思っていますよ」
私は静かな声で言った。
嘘を吐いているはずなのに、なぜか罪悪感は覚えない。まるで、今私が語ったことが真実であるかのように。
巧みな嘘は吐いた本人ですら信じてしまうもの。私って、嘘吐きの才能があったのかしら?
残月様と話し込んでいる内に、日が暮れてきた。真っ赤な太陽が空を紫とあかね色に染めながら山に沈んでいく。住民たちも、野外での作業を切り上げて帰り支度を始めていた。
「私たちも、もう戻りましょうか」
今日も名前は見つからなかったけれど、焦ることはない。まだ私が消えるまでの日数に余裕はあるのだから。
そう思いながら、私は残月様と一緒に丘を下った。




