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名もなき供物の幸せな神隠し  作者: 三羽高明


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残月の贈り物(2/2)

 私の意識が、どこか遠いところへ飛ばされていく。


 そこで私が見たのは、先ほどの亡名者だった。けれど、現在の彼よりもずっと幼い姿をしている。


(たける)! またいじめられたのかい!? お前のその名は、飾りじゃないはずだよ!』


 畑仕事の手を止めて、泣きじゃくる幼い亡名者を叱っているのは、彼とよく似た顔立ちの中年女性だった。


『だって……』


 亡名者はしゃくり上げながら反論しかけたものの、女性は『だってじゃないの!』と眉を吊り上げた。木の枝を使って、地面に『武』と書く。


『いいかい、これは強い者を現わす字なんだよ。そんな立派な名前があるんだから、もっと堂々としてな』


 不意に私は意識を取り戻した。誰かが「まれびと!」と私を呼んでいる。目を開くと、残月様の蒼白い瞳と視線が絡み合った。どうやら私を抱きかかえて、泥の中から救い出してくれたのは残月様らしい。


「大丈夫か、まれびと?」


 残月様が心配そうに尋ねてくる。けれど、私の口から飛び出したのは、先ほどの夢で見た名前だった。


「武!」

「……たける?」


 残月様が何のことか分からなさそうに呆然とする。私は残月様の腕の中から急いで()い出ると、放心状態であぜ道に座り込む亡名者のもとへ駆け寄った。


「あなたは『武』ですね?」


 私は亡名者に話しかける。傍に落ちていた石を手に取った。


 亡名者の母親らしき女性は、「字」という不思議な模様で彼の名前を表していた。記憶が鮮明な内に、私はその模様を再現しようとする。


「確か、こんなふうだったはず……」


 記憶を頼りに、私は石を使って地面に『式』と書いた。


 ……あら? 違ったかしら? あの女性が描いた字は、もっと線が多かった気がするわ。


 困り果てていると、亡名者が自分の指で地面に『武』と書いた。


「そうだ、『武』」


 亡名者が呟いた。その表情に、徐々に生気が戻り始める。


「武! 俺の名前は武だ!」


 亡名者は、輝きの戻った瞳で私を見つめた。


「あなたは命の恩人です! 武! 俺は武! もう二度と忘れるもんか!」


 亡名者は私の手をがっしりとつかんでぶんぶんと振り回したあと、足取りも軽やかに去っていく。残された私は唖然としていた。


 けれど、すぐにあることが気にかかって、まだ田んぼの中にいる残月様のほうを見る。


「どうしてこちらに?」

「お前への贈り物を持ってきたのだ」


 残月様も先ほどの出来事にすっかり戸惑っていたらしく、話しかけられると夢から覚めたような表情になった。


「そうしたら、まれびとが泥の中にはまり込んでいるのを見つけて……」


 残月様が自分の両手に視線を落として眉をひそめる。私は「どうなさいました?」と聞いた。


「……田に入った時に贈り物を落としてしまったらしい」


 残月様はその場にかがみ込むと、田んぼの泥の中を手探りで探し始めた。彼だけにそんなことをさせるのは申し訳なくて、私と穂積さんも手伝おうとする。


 しかし、残月様に「そんなことはしなくていい」と止められてしまった。


「これは私の落ち度だ。お前たちがその尻拭いをする必要はない」

「ですが、私への贈り物なのでしょう?」


 私は食い下がった。


「でしたら、私も無関係とは言い切れませんよ。……それから、先ほどは助けていただいてありがとうございました」


 私が礼を言うと、穂積さんが自分のかんざしに手をやりながら「霊力を使って探しましょうか」と提案した。


「それなら、わざわざ残月様のお手を煩わせることもないかと存じますが」

「やめておくほうがいいだろうな」


 残月様が周囲の様子を見て言った。


「すでに田はこのザマだ。霊力を使って辺りを掘り返したら、さらにひどいことになるぞ」


 美しく整えられていた田んぼは、亡名者となってしまった武さんが暴れたせいで、かなり乱れていた。稲は倒れ、泥はあぜ道にまで飛び、石が中に入り込んでいる。


 穂積さんはかんざしに触れていた手を下ろした。あとでこれを直さなければならないのか、と思っているようで、げんなりとした表情になっている。


 霊力の使用を諦めた穂積さんと私は、手作業で探し物をするべく、田んぼに入った。今度は残月様も止めない。


「まれびと、どうしてあの亡名者の名前が分かったんだ? 前からの知り合いか?」


 残月様が尋ねた。彼の白い頬は早くも泥で汚れ始めている。


「そうなのでしょうか……」


 私は泥を掻き分けながら首を傾げた。


「あの方のことを夢で見たのです」


 亡名者に触れられた時に自分の身に起きたことを、私は残月様に話した。


「それは遠見(とおみ)かもしれないな」


 話を聞き終わった残月様が、興味深そうな顔で言った。


「ここではない場所で起きた過去の出来事を、時間を越えて見る能力だ」


「予知夢の逆ですね。ですが、遠見は霊力がないと使えないのでは? 私に特別な力などありませんが……」


「もしかすると、眠っていた才能が目覚めたのかもな。神域に来た影響か……?」


 残月様はますます好奇心に満ちた表情になる。そこに、昨日の夢に出てきた幼い彼の顔が重なった。


 もしかして、昨夜私が見た光景は遠見によるものだったのだろうか?


「この遠見の力、名前探しに活かせないでしょうか?」


 ふと、そんなことを思いつく。


「私がこれから見つける予定の名前を見るとか……」

「遠見は未来視とは違うからなあ」


 残月様は難しい顔になる。


「あくまで、『起ったことを見る力』だ。だから、これからつける名前までは見られないと思う。……まあ、試すだけは試してみてもいいかもしれないが」


「分かりました。では、早速……」


 私は目を(つむ)ろうとしたけれど、残月様に「待て」と止められた。


「また泥の中に沈んでいったらどうする。試すなら、館に帰ってからのほうがいい。……そもそも、お前は自由に霊力を操れるのか? 先ほどの遠見は、意図して行ったようには見えなかったが」


 言われてみれば、亡名者の名前は、見ようと思って見たのではない。自然と遠見が発動したのだ。それをもう一度再現することができるかといえば、分からない、と答えるしかなかった。


「ありました!」


 穂積さんが嬉しそうな声を上げ、私はハッとなった。


「お探しの品は、こちらではありませんか?」


 穂積さんが高く掲げていたのは、小さな棒状の物体だった。ただ、泥にまみれているため、その正体までは分からない。


 だが、残月様の目当てのものだったのは間違いないようで、彼はほっとした表情で「ああ、それだ。ありがとう」と言った。


 私たちはあぜ道に上がる。穂積さんは田の修繕のために人を呼んでくるとかで、どこかへ行ってしまった。


 残月様が霊力で水を出して贈り物を綺麗にする。泥の中から現われたものを見て、私は息を呑んだ。


「翡翠のかんざし……」


 透き通った緑色に光る装飾品。先のほうは葉の形に成形されている。神域の住民が成人の儀でもらうと聞いた品と同じものだった。


「欲しがっていただろう?」


 残月様が優しく笑った。私は胸の前で指を組む。


「確かに、翡翠のかんざしを持っていないことに引け目は感じていましたが……。ねだったようで申し訳ないです」


 というのは建前で、私の胸はドキドキしていた。喜びで表情が緩まないように、必死で自制する。


「迷惑だったか?」


 残月様が眉を下げ、かんざしを腰帯から下げていた巾着の中にしまおうとする。私は思わず「あっ……」と言って手を伸ばした。


「いいえ……その……とても嬉しいです」


 気まずくなって手を引っ込めながら、私は勇気を出して認めた。


 供物のくせにこんな贅沢品を欲しがっている私を見たら、立波村の者たちなら眉根を寄せて「卑しい娘だ」と言うに決まっている。


 では、残月様ならどうかというと……。


「気に入ってくれたか。一番腕のよい職人に作製を依頼したかいがあったな」


 残月様が私の髪の結び目にかんざしを挿す。そして、新しい髪飾りをつけた妻の姿をじっくりと眺めてから、私を絹の布でふんわりとくるむように抱きしめた。


「これでいっそう私の花嫁らしくなったな。私も嬉しい。お前がこの神域の住民になったことが証明されたようで……」


 残月様が私の額に唇をつけた。そこから炎のような熱が伝わってくる。彼が霊力を使って何かしたのだろうか。


 それとも、ただ私の心が揺さぶられているだけ?


 残月様の腕の中から解放されるとすぐに、私は近くの水路の水鏡に自分の姿を映してみた。


 翡翠のかんざしは、まるでずっと前からそこで輝いていたように、私にぴったりと馴染んでいた。今度は遠慮せずに、私は口元を緩ませる。


「素敵……」


 人からものをもらった経験など、私にはほとんどない。それが装飾品となればなおさらだ。


 けれど、そんな過去を吹き飛ばすように、翡翠のかんざしは堂々と私の髪に澄んだ緑の影を落としていた。ひたひたと寄せてくる喜びが、私の胸を温める。


 飽きもせずに水鏡に映った翡翠のかんざしを眺めていると、後ろから残月様がやって来て、私の体をもう一度抱きしめた。


「欲しいものがあれば、好きなだけねだれ」


 残月様が囁く。


「かわいい妻の頼みだ。いくらでも聞いてやろう」


 私は神の妻。私がかんざしを欲しがったところで、誰も卑しいなどと言う者はいない。


 遅まきながら、私は自分が置かれている立場を少しだけ理解した気がした。


 神の花嫁になるとはこういうことなのだ。私はもう奴婢と同格の哀れな娘ではない。人として向けられる当然の敬意を……ひょっとしたらそれ以上の尊敬を受けることができる存在になったのである。


 一度人並みの扱いの味を覚えてしまった私は、もう村での生活には戻れないだろう。残月様の言うとおり、私の心はすでに神域の流儀に染まりつつあるようだった。


「似合いますか?」


 私は残月様の腕に抱かれながら尋ねる。彼は「もちろんだとも」と言った。


「ただ、泥を落とせばもっと映えるだろうな」


 言われてみれば、田んぼに入っていた私は泥まみれだ。上物の()領巾(ひれ)に汚れがべったりとついているのを見て、顔をしかめる。


 けれど、「これは何回も(むち)で打たれるだろう」と思ったのは、少し時間がたってからだった。前は、何かをやらかす度に真っ先に体罰を受けることを恐れていたのに。


 ここの住民は、私を罰するのに笞など使わないと理解し始めている証拠だろうか。


 こんなに早く奴婢根性が消えかけるなんて意外だ。身につけた者を神域の一員にしてしまう。これもかんざしが持つ力の一つなのかしら?


 そんな嬉しい変化に胸をときめかせながら、私は残月様と共に館へ続く道を歩いていった。

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