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名もなき供物の幸せな神隠し  作者: 三羽高明


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残月の贈り物(1/2)

 翌朝。私が朝食を食べ終え、みそぎと着替えを済ませてから名前探しのために館を出ようとすると、庭で残月様と出会った。


「おはよう、まれびと」

「おはようございます」


 私はぺこりとお辞儀する。「今日もお前は美しいな」と言って、残月様が私の髪に触れた。


 今朝も触れるのね。


 真っ先にそんなことを考えてしまう。


 というのも、私はまだ昨夜のことをどう考えていいのか判断がついていなかったのだ。分かっているのは、残月様には私の知らない一面があるのかもしれないということだけだ。


 もっとも、神様なのだから、人間には想像もできない顔を持っていてもおかしくはないけれど。


「残月様、少しよろしいでしょうか?」


 下働きの男性がやって来て、残月様に何事かを耳打ちする。いい知らせだったのか、残月様は口元を緩めた。


「もうできたのか」


 残月様は意味ありげな視線を私に寄越した。


「まれびと、お前にあとで渡すものがある。楽しみにしておけ」

「渡すもの……? 分かりました」


 一体何かしら? と思っていると、残月様は館の奥へと引っ込んでいった。どうやら、今日は私の名前探しに同行しないらしい。


 昨日のようにずっと横抱きにされた状態で移動するのは少し大げさな気もするけれど、一人だと、それはそれで少し物足りなく感じてしまう。


 そんなふうに思いながら、私も館をあとにした。



 ****



 外に出た私は、昨日と同じように見かけた人に手当たり次第に名前を聞いていく。


 けれど、どうにも身が入らない。気がつけば、昨夜の残月様のことばかり考えている。


 なぜ彼は、あんなにも必死に私に名を呼んでほしいと訴えてきたのだろう。


 そもそも、あれは残月様ということでいいのだろうか。あの時は残月様以外の何者でもないと思ったけれど、こうして時間がたった今は、その判断にも自信が持てなくなっている。


「今日はお一人ですか?」


 ぼんやりしていると、近くにいた農夫が話しかけてきた。前に名前を聞いたことがある人だ。ええと……穂積(ほづみ)さん、だったかしら。


「ええ」


 頷きつつも、私は空を見上げる。


 もう日は昇っていたけれど、空にはまだ月が出ていた。ふと、私の心に疑問が湧き出てくる。


「お昼に出ている月と夜に出ている月は、同じ月なのでしょうか」


 昨夜の残月様と今朝の残月様の姿を交互に思い返す。


「同じだとしたら、どうして夜の月は琥珀のような金色で、昼間の月は真珠(しらたま)のような白色なのでしょう。それに、どうして月は欠けたり満ちたりするのかしら。今空に出ているあの下弦の月と、十日ほど前に私が村で見た満月は同じ月なの?」


 取り留めもない疑問を次から次へと口にする私を、穂積さんはポカンとした表情で見ている。


 ああ、そんな顔をしないで。


 結局のところ、私が知りたい事柄は、たった一つしかないのだから。


 残月様はふたりいらっしゃるの?


「こら! 何をしているんだ!」


 穂積さんの怒声に、私は思わず身を竦める。


 供物の分際で思索にふけるなんて、贅沢だったかしら!? このままだと、(むち)で打たれてしまう……!


 怯えていたけれど、穂積さんは私を素通りして駆けていった。見れば、手入れをしたばかりの田んぼに、見知らぬ男性がずんずんと分け入っているではないか。


 良かった。私に怒っていたのではなかったのね……。


 そもそも、今の私は神の花嫁なのだ。一介の農民が、そんな私に声を荒げたり、笞打ちしたりできるわけがないではないか。


 頭では分かっていても、やはりまだ実感が伴っていないらしい。奴婢のようなこの性根はなかなか抜けるものではないようだ。


「早く出ていけ! 苗がダメになってしまうだろう!」


 穂積さんは、田んぼに入ってきた男を追い出そうと躍起(やっき)になっている。一方の男のほうは、焦点の合っていない目でぼんやりと明後日の方向を見ていた。


 こんなふうに憔悴(しょうすい)しきった人は、前にも見たことがある。名前を忘れて神域をさ迷う者……亡名者だ。


 呑気にそんなことを考えていると、穂積さんと亡名者の格闘が始まった。亡名者は先ほどまでぼんやりしていたとは思えないような剣幕で、穂積さんにつかみかかっている。


 このままだと穂積さんが怪我をしてしまうかもしれないわ!


 不安になった私は、穂積さんを助けようと後先考えずに田んぼの中に入っていった。稲を踏まないように気をつけつつも、泥を掻き分けて進んでいると、穂積さんが髪から翡翠のかんざしを抜く。


「穂積の名において命じる。奴を止めろ!」


 穂積さんがそう言った途端に、泥が生き物のようにせり上がってきて、亡名者の足をがっしりと田んぼの中に固定した。


 亡名者は泥の中から抜け出そうとしてジタバタともがいたものの、その場から動くことができなくなってしまう。


 私は口元に手を当てた。


「穂積さん……霊力を使えるのですか? 泥を操るような高度な能力を持っているのは、てっきり神である残月様だけなのかと……」


「私などでは残月様の足元にも及びませんよ。ですが、霊力の使用自体は、神域の住民なら誰でも可能なのです」


 穂積さんがかんざしを髪に挿し直しながら教えてくれた。


 神域の住民なら誰でも可能? ここに住んでいる方はすごいのね。巫者の一族なのに霊力もない私とは大違いだわ……。


 どことなく疎外感を覚えてしまったけれど、亡名者の抵抗が段々と激しくなってきたものだから、のんびりと落ち込んでいるわけにもいかなくなってしまった。


 どうやら穂積さんの力では長い間亡名者の動きを封じることは無理なようで、泥の(いまし)めが緩みだしたようだ。


「名前、名前……。俺の……名前!」


 泥の中から足を引きずるようにして出てきた亡名者が、近くにいた私の腕に触れた。


 その瞬間、肌に鳥肌が立つと同時に、息が詰まるような感覚がする。頭の芯を柔らかな布でぐるぐる巻きにされたように思考が鈍り、視界が不安定に揺れ動いた。


 この感じ、昨日の夜も味わったような……?


 そんなことを考えながら、私は泥の中に倒れ伏した。

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