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名もなき供物の幸せな神隠し  作者: 三羽高明


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もう一つのお月様(2/2)

「一体……どうなさったのかしら……?」


 いきなり残月様が消えてしまったことで、私はひどく動揺した。彼に実体がなかったことも不安を掻き立てる。頭の中に浮かんできたのは最悪の考えだった。


「まさか残月様は……亡名者になってしまったの……?」


 それなら、自分の名を呼んでほしがったのも納得がいく。私は寝台から飛び降りて、部屋を抜け出した。


「残月様、残月様ぁ!」


 彼がどこかに消えてしまった以上、もう手遅れかもしれないとは思いつつも、私は残月様の名前を呼びながらなりふり構わずに館の中を駆け回った。


 どうやら私の声は相当大きかったらしく、あちこちの建物に明かりが灯るのが見える。何か異常事態が起きたようだと察した下働きの者たちが、次々と窓や入り口から顔を出した。


 私はその中に残月様の姿がないか目を凝らして探す。


 でも、彼はどこにもいない。体中から血の気が引いていくのが分かる。


 どうしましょう。まさか本当に残月様は……。


「何事だ」


 不意に聞き慣れた声がして、私はハッとなる。振り向くと、そこにいたのは残月様だった。


「ざ、残月様!」


 安堵のあまり、私は何も考えずに残月様の胸に飛び込んだ。触れる! 触れるわ!


「残月様! 心配しましたよ! あれは一体何だったのですか!?」

「……あれ、とは?」


 私の背中に腕を回しながら、残月様がきょとんとした表情になる。私は、彼の瞳が金色からいつもの蒼白い色に戻っているのに気づいた。白目も清らかな白色だ。


 ――俺が俺であるための名を……!


 それに、今の残月様には、先ほどまで必死の形相で声を枯らしていた青年の面影はない。私が取り乱しているのを不思議そうに眺めているだけだ。


「つい今し方、私の寝室へいらしたでしょう? 様子がいつもと違ったので、なんだか気になって……」


 残月様があまりにも平然としているものだから、なんだか決まりが悪くなってきた。私は声を落として尋ねる。


「もしかしたら、残月様が亡名者になってしまったのかと思ったのです」

「私が?」


 残月様はよほど驚いたのか、一瞬、言葉に詰まったようだった。


「私は残月。自分の名前はきちんと覚えているが」

「そう……ですか……」


 ……そうよね。よく考えたら、残月様が亡名者のはずないじゃない。


 亡名者が名前を忘れてから消えてしまうまでには、十日間の猶予(ゆうよ)がある。夕食の席では自分の名前を覚えていた残月様が、夜中になった途端に消えてしまうなんてありえない。


 でも、焦っていた私はそんなことまで考えている余裕がなかった。結果的にバカみたいに動揺して、館中の人を起こしてしまったわけだ。なんてはた迷惑なのかしら!


「申し訳ありません。私、残月様の身に何かあったのではないかと思い、どうしたらいいのか分からなくなってしまって……」


「悪い夢でも見たのか?」


「夢……」


 もしかすると、あれは夢だったの? 確かに、そう表現するのがしっくり来るような奇妙な一時だったけれど……。


「何にせよ、私の身を案じてくれたのは感謝しよう」


 考え込んでいると、残月様が私の頭を優しく撫でた。


「だが、そんなに心配するな。私は何ともない」

「それならいいのですが……」


 私の一番の関心事は残月様の安否だったのだ。本人が何ともないと言うのなら、それを信じよう。


「さあ、もう行くか」


 残月様が私の手を握った。彼に連れられ、私は寝室へと戻っていく。


 残月様の手は温かい。今の彼には実体があるのだとあらためて実感して、私は心の底からほっとなった。


「残月様がご無事でよかったです。……そうですね。様子のおかしい残月様が私の寝室へ来たのは、きっと夢だったのでしょう」


 残月様の足元からは、リンリンとかすかな音がする。彼が身につけている鈴が鳴っているのだ。


 そういえば、先ほど部屋に来た残月様は、鈴の音どころか足音すら立てていなかった。そういった些細な点から考えても、やはりあれは夢だったと判断するのが妥当だろう。


 そう思っていたのに、残月様は聞き捨てならないことを言った。


「それなら、行ったとも言えるし、行かなかったとも言えるな」


 ……え? どういうこと?


「ところで、あれはお前に迷惑をかけなかったか?」

「……はい」


 あれ(・・)って、残月様のこと? 自分の話なのに、随分と他人事のように表現するのね。


 せっかくあの出来事は夢だったのだと結論が出かかっていたのに、私の心は再びざわめき始めた。やっぱり、あれは現実に起きたことだったの?


「ただ、名前を呼んでほしいと言われた時は、何事かと思いましたが」

「名前、か。……呼んでやったか?」

「……? はい。残月様、とお呼びしましたが……」

「まあ、確かにあれは私でもあるか」


 残月様はうんうんと頷いているが、私の困惑は深くなるばかりだ。もしかすると、あの時のことを残月様は何も覚えていないのではないか、とさえ思えてくる。


「今度はゆっくり休め」


 残月様に事情を説明してもらおうとしたけれど、いつの間にか寝室へ着いていたので、私は質問をする機会を逃してしまった。


 寝台の状態は先ほどと変わっておらず、乱れたままだ。私が敷き布団に横たわると、残月様が布団(ふすま)をかけてくれる。


 残月様は布団の上からぽんぽんと私の体を叩いて、寝室から出ていった。


 まだ頭が混乱していた私は、一気に気力を使い果たしたような気分になる。なんだか頭が妙に重くて、視界がぐらぐらと揺れている気がした。


 眠るつもりはなかったけれど、この不快な目眩にも似た感覚を追い払いたくて、目を閉じる。


 その瞬間、私の意識は遠いところへ飛ばされた。


『こちらですよ、残月様!』


 綺麗な服を着た幼い私が、河原ではしゃいだ声を上げている。せいぜい七、八歳くらいだろうか。


 その声に反応したのは、私と同い年くらいに見える残月様だった。


『ほら、見てください! 漁師が仕掛けた罠です!』


 私が指差した川の中では、ツル植物で編んだ網が水の流れに沿って揺れていた。


 その網に、魚が何匹かかかっている。


『ほう。よく見つけたな』


 残月様は尊大な口調で言った。けれど、その蒼白い瞳は子どもらしい好奇心に満ちあふれて輝いている。


『この罠を壊したら、村の連中はさぞかし困るだろうな』

『困るでしょうね』


 私が応じると、残月様はいたずらっ子のように、にやりと笑った。


『村人たちが困るところを、ぜひとも見てみたいものだ!』


 残月様は罠を固定していた石を取り外した。網が下流へ流れていき、自由の身になった魚が四方へ散っていく。


 その様子を見ながら、幼い私と残月様は、いつまでも無邪気な笑い声を上げていた――。


 時の彼方に飛ばされていた意識が、突然現在の私の体に戻ってきた。


「何、今のは……。夢?」


 寝台に寝そべったまま、私は目を大きく見開いて呟いた。心の臓がドキドキと脈打っている。


「でも、私にこんな記憶はないわ……」


 漁師が仕掛けた罠を壊すだなんて! そんなことをしたら、何回(むち)で打たれるか知れたものではない。


 幼子だからといって、村人は私に容赦をしたことなど一度もなかったのだから。


 それに、夢の私は随分といい服を着ていた。貴人(あてびと)がまとうような、上下の分かれた装束だ。


 私は神域に来るまで、そんな上等な衣装を身につけたことなど、一度もなかった。私が持っていた服といえば、いつだってボロボロの貫頭衣だけだったのである。


 それに、どうして私の夢に幼い残月様が出てくるの? 神様も人間のように成長するのかしら……という疑問は一旦置いておくとして、私と残月様が初めて会ったのは昨日のことだ。それも、場所は神域だったはずよ。


 しかも、夢の中の私たちは、どうも暇を持て余して遊んでいるように見えた。奴婢と同等の扱いだった私が遊ぶ? そんなことをする時間など、あった試しがない。


 あの夢はおかしなことだらけだ。私の中には存在しない記憶。そう表現するのがぴったりである。


 けれど、それならどうしてあんな夢を見たの? ただの空想にしては、やけに鮮明で生々しすぎた。まるで本当に起こったことみたいに。


 巫女が遠い将来の出来事を夢で予知するという話は聞いたことがある。けれど、それは霊力がなければできない行為のはずだ。


 私は確かに巫者の一族の生まれだけれど、何の力も持たない普通の人間である。予知夢を見たとはとても思えない。そもそも、幼い頃の夢なのだから、「予知」ではないはずだ。


 では、過去を見たのだろうか。そういう能力は珍しいけれど、前例がないわけではない。


 その場合、私と残月様は昔、どこかで会ったことがあるということになるけれど……。


 ……ダメだわ。何も思い出せない。


 夢の真相にたどり着けないまま、私はいつの間にか朝を迎えることになったのだった。

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