もう一つのお月様(1/2)
寝屋に着いた私は、絹の敷き布団が重ねられた寝台の上でうとうとしていた。
けれど、わずかな違和感を覚えて、意識が覚醒する。室内には私しかいないはずなのに、部屋の空気が動いた気がしたのだ。ひょっとして、訪問者だろうか?
でも、こんな夜更けに一体誰が訪ねてきたというの?
奇妙なのは、部屋の入り口にかかっている御簾が掻き上げられた音がしなかったことだ。
少し胸騒ぎがして、私は寝台からゆっくりと身を起こした。天蓋の隙間からそろりと顔を出し、室内の様子をうかがう。
やはり部屋の中に誰かいる。けれど、暗くてよく見えない。
「未咲、いるのか?」
これは……残月様の声だわ。
室内にいる人物の正体が分かり、私は警戒心を緩めた。
でも、「未咲」とは誰のこと? 私は「まれびと」なのに。残月様、お部屋を間違えたのかしら?
疑問に思っていると、風が吹いて窓にかかっていた御簾が動いた。そこから漏れた星明かりが室内の人物を照らす。
高い上背は間違いなく男性のものだが、彼はなぜか頭から女物であるはずの領巾を被っていた。
しかし、領巾の薄い布越しに浮かび上がる影絵は優美だけれど男性そのもの。というよりも、残月様の立ち姿にそっくりだった。まあ、本人なのだから当然だけれど。
ふと、残月様が私のほうを向いた。
目が合ったような気配がしたと思ったら、残月様が風のような速さでこちらに迫ってくる。驚いた私は思わず後ずさり、寝台の上に背中を着けた。
そこに残月様が覆い被さってきたものだから、図らずも彼に押し倒されたような格好になってしまう。残月様の銀の髪が帳のように寝台に流れ、私たち二人を外界から隔離した。
「未咲、会いたかった……!」
残月様はお腹の奥から絞り出すような声を出した。私は困惑を隠せない。
未咲とは誰? という疑問もあったけれど、残月様の姿がいつもと違ったからだ。
蒼白い瞳は金色に変わっており、瞳孔が細長く、白目の部分が黒くなっている。目元も、末摘花の汁で作った紅で彩られていた。
翡翠のかんざしはいつもどおりだけれど、普段は団子状にして頭の上で結っている髪はすっきりとした一つ結びになっていて、みずらも解かれて女性のような髪型だ。それに、癖のあった髪質も真っ直ぐに変わっている。
そして、腰には昼間は身につけていなかった大刀を佩いていた。全体的に女性的な雰囲気が強くなっていただけに、男性が持つ武器を帯びているのは、なんだかちぐはぐに感じられる。
服装や髪型を変えてもよく知っている人ならすぐに見分けられるように、そんな姿でも彼は残月様だという不思議な確信が私にはあったけれど、一応はその正体を尋ねてみることにした。
「あなたは……残月様、ですよね?」
「そうとも言えるし、違うとも言える」
残月様が囁くように言った。愛おしそうな表情。ただ話しかけられただけなのに、とても嬉しそうだ。
「また未咲の声が聞けるとはな……」
私の頬に触れるか触れないかの距離で、残月様が指を滑らせる。また「未咲」だ。ここにいるのは「まれびと」だと、彼にももう分かっているはずなのに。
それとも、私は「未咲」なのだろうか?
不意にそんな考えが浮かんでくる。私は名なしのはずだけれど、いつの間にか名がついていたということかしら? だから、残月様は私を「未咲」と呼ぶのだろうか?
頭の中が疑問でいっぱいになった私は、残月様に率直に問いかけた。
「『未咲』というのは、私の名ですか?」
「今は違うのか?」
残月様は目を丸くした。だが、驚いたのは私も同じだ。
「『今は』とは、どういう意味でしょう? 私に名はありませんよ。だから、あなたが『まれびと』と仮の名前を与えてくれたのではありませんか」
「名がない……。だから、これまでの花嫁も……」
残月様の顔が苦しそうに歪む。彼が私の肩に触れようとした。
その時、奇妙なことが起きた。残月様の手が、私の体を通り抜けてしまったのだ。
私の脳裏に蘇ったのは、昨夜の出来事だった。もしかして、また体が透けてきてしまったの!?
慌てた私は、思わず自分の頬に手を当てる。
……あれ、触れるわ。
手のひらに視線をやっても、向こう側の景色は見えなかった。私の体は透けていない。ということは……実体がないのは私ではなく、残月様のほうということ?
何が起きているのか分からず、私は説明を求めて残月様をじっと見つめる。だが、彼は忌々しそうに自分の体を睨んでいて、こちらの視線には気づかない。
「生殺しか。残月め、やってくれるじゃねえか……」
恨みがましそうに呟き、残月様がこちらを向いた。その表情の真剣さに、私は息を呑む。
「俺の名を呼んでくれ」
「名前……? あなたは残月様ですよね?」
「そちらの名ではない」
残月様は固く目を閉じ、自分の服の胸元をぎゅっと握りしめた。
「あの時みたいに、もう一度俺の名を呼んでほしいんだ。お前が俺にくれた名を。俺が俺であるための名を……!」
それは魂を震わすような悲痛な叫びだった。
何とかしてあげたい。
そんな思いに突き動かされ、私は残月様に手を伸ばした。
その瞬間、強い風が窓から吹き込む。吹き上げられた自分の髪が目に入りそうになって、私は束の間瞼を閉じた。
次に目を開けると、私の上にいた残月様は煙のように姿が消えていた。
「……残月様?」
室内の暗闇に向かって呼びかけても返事はない。天蓋を押し上げて確認すると、部屋は無人になっていた。




