名もなき供物は神の贄(1/1)
パチ、パチ、パチ……。
石で囲んだ炉の中で火の粉が爆ぜ、真っ青な朝空にふわふわと舞って消えていく。
「あとどれくらいで、いっぱいになりそう?」
水がめを頭に乗せた奴婢に、たきぎを抱えた別の奴婢が尋ねる。水がめを持った奴婢は、その中身を船形の巨大な木製の湯桶に注ぎながら答えた。
「あと十往復くらいよ」
「そんな! 明日香様はもう起きてるのよ。すぐにでもこの沐浴場に体を清めに来るわ!」
奴婢はたきぎを落としそうなほど慌てている。
「供物、焼き石のほうはどうなってるのよ?」
奴婢に話しかけられた私は、「まだです」と返事した。炉から、真っ赤に焼けた石を柄の長い匙で取り出し、上から水をかけて灰を落とす。そして、水の張られた大きな湯桶の中に沈めた。じゅっという音がする。
奴婢が湯桶の水に手を浸した。
「ぬるいわねえ」
「しっかりしてよ、供物!」
奴婢が私を叱る。
湯桶は寝そべった私の背丈よりも長く、そこには大量の水が溜められている。その水に焼けた石を放り込んで湯にするのは、途方もなく時間がかかる作業だった。
そのことは奴婢も分かっている。私を叱責したのは、仕事が思うように進まないことに対するただの腹いせだ。
そうと分かってはいたけれど、私は素直に「申し訳ありません」と謝った。
「ちょっと! まだ準備が終わってないの!?」
まるで私が叱られる瞬間を見計らったように、沐浴場に女性が一人やって来た。
白い絹の寝間着と、軽くクシを入れただけでまだ結われていない黒髪。飾り気のない姿だったが、その美しさは少しも損なわれていない。
大きな茶褐色の瞳と長いまつげ、小さく形の良い唇。白い肌は、まるで真珠のように滑らかだ。
奴婢たちが、「あ、明日香様……」と震え上がりながら、地面に這いつくばった。私もそれに倣う。
――あんたって、本当に明日香様とそっくりよねえ。さすが双子の妹だわ。
私はたびたび仕事仲間の奴婢からそう言われる。けれど、自分では一度もそんなふうに思ったことがなかった。輝くような美貌の姉に対して、私はどこまでもみすぼらしいから。
「まあ、なんて冷たいお湯なのかしら」
湯涌の中の水を手ですくって、お姉様が顔をしかめる。
「いくら春だからって、こんな水でみそぎをしたら風邪を引いてしまうじゃない」
お姉様が大きな瞳で私たちをキッと睨みつけた。この分だと、笞で打たれてしまうかもしれない。私は唇を噛んで目を伏せる。
「今日はあたしの成人の儀。つまり、あたしが正式に巫女になる日なのよ?」
お姉様が険しい表情で言った。
「それなのに、あたしが病気になって儀式を執り行えなかったらどうしてくれるの! 神の怒りを買ってしまうわ。この立波村が滅ぼされてもいいってわけ?」
「そ、そのようなことは……。ただ、供物が焼き石を用意するのに手間取って……」
「あんた、あたしの邪魔をして楽しいの?」
お姉様が私に鋭い視線を投げつける。私は「いいえ」と首を振った。
当然だろう。お姉様の邪魔をするということは、自分自身の邪魔をするということでもある。だって、私たちは双子。今日は私の成人の日でもあるのだから。
けれど、お姉様と違って、私は巫女にはならない。私は贄に……神域にいる神への供物にされるのだ。
「本当に分かってるの?」
お姉様は手ですくった湯涌の水を私にかける。冷たいものが肌に当たったかと思うと、私の顔や貫頭衣はびしょ濡れになっていた。
「良かったわね、綺麗になって。あんた、いつだって泥だらけでみっともないんだもの」
お姉様はクスクスと笑った。
「さあ、早く湯を用意してみそぎの支度をしなさい。それが終わったら、服に火のしをかけて、首飾りも綺麗に磨いておいてちょうだい」
私をいじめたことで気分が良くなったのか、お姉様が館に戻っていく。
奴婢は安心したような表情になると、別の場所で仕事を始めた。供物の近くにいるとまた誰かの不興を買ってしまう、といわんばかりの態度だ。
こんな扱いには慣れっこになっていた私は、笞で打たれなかったことに心底ほっとしながら、新しい石を炉に放り込んだ。
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私が住む立波村の伝統。それは、巫者の一族に女の双子が生まれた時は、長女が巫女、次女が神への供物になるというものだった。
祈祷により雨を降らせたり、失せ物の場所を言い当てたりと、巫者の一族は特別な能力があるが、巫女はその中でも別格だ。神を自分の体に降ろす力を持っているのである。
だから巫女は皆から敬われ、村の首長でさえも敬意を払うけれど、供物はそれとは正反対。奴婢に混じって水汲みをしたり、機を織ったり、草を刈ったりする。
そんな私に対して、仕事仲間の奴婢が同胞意識を持つことはない。供物は名を与えられず、犬ですら軽んじると言われるような存在だからだ。
巫女は有力者と共に共同体を運営し、供物は最下層民に混じって働く。
私には難しいことはよく分からないけれど、こうして神と関わりの深い両者が上下から人々を支えることによって、村は清浄な状態になり、調和も保たれるらしい。
私はお姉様と真逆の存在でいることが義務づけられている。その仕組みのせいで私はどこへ行っても鼻つまみ者だ。神への供物という重要な役割を担ってはいるけれど、だからこそ爪弾きにされているのだった。
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やっと仕事が一段落した頃には、すでに夕方だった。成人の儀は夜に行われる。私も急いで支度を始めた。神域は立波村の外にある。村を出るのはこれが初めてだったので、少し胸がドキドキしていた。
「供物、今日はこれを着なさい」
儀式の監督者から渡されたのは、手触りのいい絹の筒袖の服だった。私は「いいのですか!?」と声を上ずらせる。
私が持っている服は、今身につけているすり切れた麻の貫頭衣だけだ。それなのに、こんな上等な服を着られるなんて……!
私は思わず白い絹の服に頬ずりした。だが、顔が汚れていたせいで、生地が茶色く変色してしまう。私は慌てて汚れを手で払った。
着替えの前に、まずは身を清めないといけないようだ。私は沐浴場へ向かうことにした。
その道中、お姉様とすれ違う。
巫女の正装をしたお姉様は、薄暮の中でも光輝くような威厳を放っていた。
潰して板状にした髷に、肩からかけたタスキ。首元では私が磨いた玉飾りが揺れ、足首には、同じく玉を連ねた足輪をはめている。腰からは鈴のついた鈴鏡を下げていた。
「まあ。なあに、それ」
お姉様は私が抱えている服を目ざとく見つけた。「私の儀式用の装束です」と答えると、お姉様は眉を吊り上げる。
「あんたの服ですって? こんな上物、供物には不釣り合いよ」
そう言って、お姉様は私の腕からあっという間に装束をもぎ取ってしまった。そして、「あんた、何か勘違いしてるんじゃないの?」とあざ笑う。
「長老たちは、『供物は神の花嫁』とか言ってるけど、そんなわけないでしょう? どうせ神域に行った途端に、頭からバリバリと食べられて終わりよ。骨も残りゃしない。それとも、本当に神の妻になるつもりだったの?」
「え……あの……」
私がうろたえて反論できずにいると、お姉様はプッと吹き出した。
「供物のくせに生意気だこと! 名前すらないあんたが花嫁になんかなれるわけないでしょう?」
お姉様はゲラゲラと笑いながら、私の肩を小突いた。
「名前がないっていうことは、誰もあんたを呼べないってこと。呼べないものは認識もできない。認識できないものは、この世にないのと同じ。つまり、名なしのあんたなんて、この世に存在していないも同然ってことよ」
お姉様の話はとても難しくて、私の頭では満足に理解できなかった。けれど、何が言いたいのかは分かる。お姉様は私の存在を否定しているんだ。
何も言い返せないまま、私はすごすごと下がるしかなかった。私が儀式で着るはずだった服は、まだお姉様の腕の中だ。もう一生、私があの装束に袖を通すことはない。
服は取り上げられてしまったけれど、せめてみそぎくらいはしておこうと館の裏手にある沐浴場へ向かう。神は穢れを嫌うのだ。体を清めておかなければ、供物として相応しくないと見なされてしまうかもしれない。
私が石を入れて温かくした湯は、すっかり冷めて水になっていた。その水すら、湯桶の底のほうに少し溜っているだけだ。そのわずかな水に、私の悲惨な姿が映っている。
土ぼこりで汚れた顔と、毎日の野外労働で日に焼けた肌、あかぎれのできた指先。肩より少し長い髪はろくに手入をしたことがないせいでゴワゴワで、見るからに触り心地が悪そうだ。
……そうね。こんな私では、あの絹の服なんか似合いっこないわ。お姉様に取り上げられて、むしろ良かったのよ。
げんなりしながら沐浴場を出て、川へ行くことにした。湯涌にほとんど水が入っていないのなら、こんなところにいる意味はない。
というよりも、みそぎというのは本来は川でするものだ。けれど、この村ではいつの頃からか、湯桶に入れた湯で体を清めるようになっていたのである。
その時、私は湯桶の水の表面で、親指の爪ほどの小さな虫がジタバタと手足を動かしているのに気づいた。茶色い体で、背中に赤い筋のある蜘蛛だ。かわいそうに、溺れているらしい。
私は手で水をすくって蜘蛛を湯桶から出し、地面に降ろしてやった。
「仲間のところへお帰り」
私がそう呟くと、蜘蛛は一目散にどこかへ走っていく。
その姿を見ながら、私は胸が塞がれるような気持ちになった。
蜘蛛でさえ家族や仲間がいる。それなのに、私は一人ぼっち。お姉様に言われたことを思い出す。
――本当に神の妻になるつもりだったの?
確かに私は、心のどこかで期待していた。食べられて終わりの贄ではなく、神の妻として神域で大切にされることを。
けれど、それは叶わぬ夢なのだ。私は供物として奴婢のように生き、最後は神の胃の腑に収まって死ぬ。そういう運命なのだと受け入れるしかなかった。
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儀式は、村はずれにある墳丘で行われることになっていた。その墳丘は遠い昔に村人たちが作ったもので、円と四角形を組み合わせたような外観をしている。
墳丘までの夜道を、松明とかがり火の明かりを頼りにして、村人たちが進んでいく。村中から人が集まっており、辺りはざわざわとやかましい。中には正装した首長の姿もあった。
村人たちがこうして集まったのは儀式見たさもあるだろうけど、本当はそのあとの宴会が目当てなのかもしれない。
もっとも、私はそれに参加できないけれど。儀式が終わる頃には私は神域にいて、神の腹の中に収まっているのだ。そう思うとぞっとなった。
供物になることは生まれた時から決まっていたけれど、いざその時が来てみても、まだまだ覚悟は足りていなかった。
私は神の食事になるためだけに、十六年も生きてきたのだろうか。そう思うと虚しくなる。
一行は、墳丘のくびれ部分にある造りだしと呼ばれる舞台のような場所にたどり着いた。そこに作られた祭壇の前で、お姉様が祝詞を上げている。神に対して、本日成人したことや、これから供物を捧げることを告げているのだ。
それが終わると、今度は土橋を渡り、円筒形のはにわが並ぶ通路を歩いて、墳丘の下部へ移動した。置いてあった巨大な石を、力自慢の男たちが横にずらす。すると、その後ろから石を組んで作られた通路――羨道が現われた
縦幅と横幅がたっぷり取られたその羨道を、私は男たちと共に歩いていく。といっても、たったの五歩分くらいだけれど。
突き当たりにあるのは、玄室と名がついている広めの空間だ。ここも石造りである。
この玄室にも、入ってきたのとは反対側に岩が置いてある。男たちにそれを退けてもらうと、向こう側に真っ暗な通路が現われた。
いよいよだわ。
私はごくりと息を飲み込む。背後で岩が動かされる音がして振り向くと、いつの間にか男たちは外に出ていた。大岩によって、入ってきた羨道が閉ざされようとしている。
「せいぜい美味しく食べられなさいよ」
松明の明かりに照らされたお姉様が、別れの挨拶を口にする。
岩が元の位置に戻ると、辺りは完全な暗闇に包まれた。




