その7.可憐で脆弱で、愚か
【登場人物紹介】
藤 知日路[ふじ・ちひろ]:公立古港高等学校の二年生。伝統楽器研究部部長。
静波 乃愛[しずなみ・のあ]:同二年生。同部副部長。知日路の親友。
廿梠木 漆[とどろき・うるし]:転校生。二年生。伝楽部に入部。
有衛 爽雨[ありえ・そう]:同一年生。同部部員。知日路の中学からの後輩。
鍋形 凪々帆[なべがた・ななほ]:同一年生・同部部員。爽雨とはクラスメイト。
知日路と漆が演奏会に旅立った土曜日、凪々帆と爽雨は練習のために音楽室に来ていた。
といっても主に練習に打ち込んでいるのは爽雨の方で、凪々帆は時折弾き方の相談に乗ったり必要に応じて手を貸す程度であとはのんびりと居心地のよい屋外の植樹のために木陰になっている窓のそばで本を開いているだけだった。
「ねえ。今日は何読んでるの?」
小一時間くらいの基礎練習をこなした爽雨が凪々帆に話しかけた。
ちょうど読んでいた短編の切れが良かったというのもあり、ぱたんと本を閉じて凪々帆は爽雨の質問に答える。
「坂口安吾の『堕落論』です。いや~原文はなかなか読みづらいですが、いい文章でした。爽雨も読んでみます?」
「そういえば前にも言ってたっけ。でも『堕落論』て、確か人は堕ちるとこまで堕ちた方がいいとかそういうことが書いてあるんじゃなかった? なんかの漫画で見た気がする」
ああ、と凪々帆はため息をついた。確かにその部分だけがなぜか妙にピックアップされて、ネットなんかではだらしない生活を送る人が自分を肯定するニュアンスで使っているのを見かける。
というか、実際に読んでみるまでは凪々帆もどうせ大正から昭和にかけての時期の文豪の流行にのった、破滅的生活を美化するための文章なのだろうと思いこんでいた。
「実際には少し意味が違いましたね。私もニワカなのでこの解釈が正しいかどうかわかりませんが」
「そうなの? 聞かせて聞かせて」
爽雨が自分の読書に興味を示してくれたのは珍しいことだったので、不意をつかれて凪々帆は少しだけ戸惑った。周囲にあまり親しくない人がいるときなどはつっけんどんな態度をしがちな爽雨だが、こうして慣れた間柄(というか爽雨の中の判断基準で親しい認定されたらしい人)には無邪気で人懐こい面を見せてきたりする。
そんなところが、凪々帆は気に入っていた。
「堕落論にある『堕落』というのは、簡単に言えば自分の気持に正直に生きるということなんですよね」
「? だからそれが、飲む打つ買うを好き勝手やっていいっていう意味なんじゃないの?」
「それも含まれるかもしれませんが、この文章が読み手に想定しているのは”武士道”みたいな規範に絡め取られて自分自身を”こうあらねばならない”と決めつけている人のことです。そういう美意識という虚構から自分を解放したときに、自分自身を発見し救うことができるとまあ、そういうことですね」
実際には戦前戦後の戦争感とかいろいろあるけれどもそれは時代が違うということなので解釈は省いていいだろう、と凪々帆は考えた。
「…………よくわかんないけど、それって『真面目な人ほど不真面目な自分に向き合いなさい』っていう意味?」
「随分と極端ですが、それでおおむね合っていると思いますよ」
ふうん、と爽雨は言って持っていた弓を軽くクロスでぬぐった。少しつけすぎてしまっていたのか、引っ掛かりが強かったらしい。
凪々帆はその様子を横目に話を続ける。
「ただ、それだけじゃないのが『堕落論』のすごいところで」
「どういうこと?」
「『人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる』とも言っています。苦難に直面したとき、どうしても何か強い規範というか世間的な倫理というものにすがりたくなってしまうということですね。堕落するのも楽じゃない、と」
「ふうん。不真面目になるのにも才能がいるんだね」
「? なんです? 私の方を見ましたか?」
「見てないよ! ちょっと思っただけ」
真面目で規範を重視する人にこそ、不義理で欲望に忠実な自分の心に向かい合う強さが必要なのだ。
凪々帆はそう自分の中の結論に気づいたとき、ふと知日路のことを頭に思い浮かべていた。
*****
しん、と知日路の言葉が夜の空気の中に吸い込まれていく。
身じろぎもせず、衣擦れの音一つもしなかった。
「私ね、ずっと。ずっと前から漆のことが好きだった。……乃愛から漆のことが好きだって相談を受けて、全部わかっていたけど、それでも気持ちがどうしてもなくならなかった」
淡々と、独り言のような静かな口調だった。
最初の一言を始めてしまったら、次々に言葉が溢れ出てしまう。
「爽雨ちゃんにね、好きだって言われたこともあったの。嬉しくないわけじゃなかったのに、どうしても素直に受け止めることができなくて。優しくされるたびに、自分が悪いことをしているようなそんな気持ちになってたりした。よくないよね」
ちらり、ともう一度横目で隣の布団を見る。
知日路に背中を向けた姿勢のまま、漆は全く動かずに身体を丸めていた。
「本当はずっと誰にも言わないつもりだったの。本当よ。言ってはいけないことだとわかってたし。でも、言わなきゃいけないことだとも思ってた。言ってはいけないと思うほど、大きくなっていく感じがして怖かったから。……言って、どうなるわけじゃないのに」
目を閉じると、今までずっと長く胸につかえていたものがスッと落ちていく感じがした。
言ってしまった、という罪悪感や後悔よりもむしろああ、これで終わるんだという安堵感のような気持ちがこみ上げる。
長く、落ちないようにとしがみついてきた崖っぷちでふっと手を放してしまった感覚に似ていた。
「ごめんね、漆。黙って聞いてくれてありがとう。…………………おやすみ」
知日路は目を閉じた。
きっとこれで、もう次に目を開く時には朝になっている。
いつも通りの、これまでと同じ朝が来るんだ、と。
思ったときだった。
「…………それを聞いて、どうすればいいの?」
くぐもった、小さな小さな声だった。
知日路ははっとして目を開き、声のした方に首を向けると変わらず背中を向けたままの漆の姿があった。
「漆?」
「聞いて、私はどうしたらいいのよ。だって、だって……」
ぐっと、言葉が止まる。知日路は辛抱強くその続きを待った。苦しそうな呼吸の隙間を縫って、次のセリフが聞こえてくる。
「…………もう、どうしようもないのに。わた、私は乃愛がいたからこれまで過ごせていて。知日路は、乃愛にとってすごく大事な友達で……」
ドキ、と胸が大きく鳴った。
これは、違う。
知日路は違和感のある漆の言葉に上半身を起こす。
「漆、あなた」
「どうしたらいいの? わからない。どうしよう、どうしよう?」
戸惑うような、怒っているような、悲しんでいるような。いや、そして喜んでいるような。
それらの複雑な感情を含んだ漆の言葉に返事をすることなく、そっと知日路は自分の布団から抜け出し手探りで隣への短い距離を移動し、手を伸ばした。
「漆……こっちを、向いて」
軽く肩に触れるとするりと漆が仰向けになった。暗闇に慣れた目にその表情が映る。
漆の顔のすぐ横に手をつくと、知日路はゆっくりと自分の顔を下げていく。待ち切れないように長い髪の毛が先にスーッと漆の頬に落ちて、それをかき分けるように唇を重ねた。
初めてのことに着地点をわずかにずらしてしまい、一度身体を浮かせてから丁寧に漆の顔のラインに触れ、親指でそっと唇の位置を確かめてからもう一度しっかりとキスをした。
しっとりとした唇を離してそっと手のひらを漆の頬に触れさせると、目尻に温かい感触があった。一度身体を起こして漆の布団の足元近くに正座をする。
「泣かないで。漆」
「泣いてないわ」
軽くクス、と鼻を鳴らす音がした。漆が目線を微妙に知日路からそらしたまま、肘をついて頭だけを持ち上げる。
数秒だけ待って、知日路は着ていた上着を少し乱暴に脱ぎ捨てる。
「そうね。泣く理由なんて、ないものね」
泣く資格なんてないのだ。私たちには。
不義理な恋とヒロイックに酔うことができたなら、こんな苦しさは感じることなどないのだ。大好きよ、私もよ、と明るく朗らかに抱きしめ合ってキスをすることもできたかもしれない。
だけどそうしてはいけないのだ。
私達は、このキスも、お互いの身体に触れて快感を求め合うという行為にも。
暗闇の中でお互いの服をもどかしく脱がし合うと、そのままどさっと倒れ込むように身体をぴったりと重ねた。
「乃愛とは、こういうこともうした?」
「ううん。いい感じになったことはあったけど、結局まだ」
「まだ、なんだ」
意地悪に聞き出そうとする知日路に漆が下から身体を伸ばすようにして唇を塞ぐ。話そうとするのを追いかけるように口をずらしていくことで、お互いの口内に舌が入り込む。
「漆、痛かったら言ってね」
「ゆっくりね」
すっと、胸元に唇を落として肌をなぞるように下ろしていく。知日路よりも大きめの漆の胸は横になっていてもきれいなラインを描いていた。
「ん……」
じわじわと顔の位置を下ろしていく途中で腰のあたりに置いていた知日路の手を漆がつかんだ。
すがるように、指先をつかまれて指の間に相手の指を絡めさせる。
落ちていく。
手を組んだまま、知日路はぎこちなく漆の太ももの内側に触れた。
*****
部屋の入口にかかっていた古い壁掛け時計は8時を指していた。
入口近くには2つの畳んだ布団と分けられたシーツ、使ったコップ類がまとめて置かれている。
「今から出れば余裕で事務所に着けそうね」
姿見の前で漆はセーラー服のリボンを結んでいた。
隣では髪の毛に櫛を通しながらスマホのスケジュール帳を確認する知日路がいる。
「あんまり早く着きすぎてもいけないから時間管理が難しいな。まあでも、早すぎたら近くをブラブラ散歩していてもいいけど」
予定では午前中に今回の取次をしてくれた古港高校の同窓会事務所の方に挨拶に行って、それから昼頃の新幹線に乗って夕方前には戻るということになっていた。
「大丈夫よ。あっちと違ってこちらは何本も電車が来るの。そんなに慌てなくても到着できるものよ。遅刻したら『電車が遅れてまして』とか言い訳もできるしね」
「ダメよ、そんなルーズなのは」
むくれたように口を尖らせた知日路にふふ、と漆は笑顔を向けた。どこか照れたような、優しい笑顔だった。
「漆はいいの? せっかくこっちに来たんだし、前の学校の友達とかに挨拶は?」
「それこそダメよ。今回の旅行はあくまでも古港高校の伝楽部代表として来てるんだから、私の用事はまた私の時間ですればいいわ」
「そういうところは真面目なのね」
「私は基本的には真面目な性格なの! 知らなかったの?」
穏やかに笑い合う。昨日までと同じようで、もっとお互いを近くに感じることができる不思議な感覚。
「でも、もうこの旅行も終わりか」
「実際に出てみると短いものよね。準備してるときが一番楽しいってホントよね」
身支度を終えた二人は水回りを軽く清掃して、それから部屋の最終的なチェックをして荷物を入口近くに運んで靴を履き替えた。
「それじゃ、いい?」
「うん」
部屋の鍵を知日路が開きかけたとき、不意に後ろから漆が抱きついた。
ぐっと、首にしがみつくような力のこもった抱きしめ方だった。
「知日路」
「漆、ダメよ。もう時間なの」
「まだ大丈夫よ、もう少しだけ」
知日路が首に巻かれた漆の腕に軽く触れると、その戒めは解けた。知日路は振り向いて漆を見上げると、泣きそうな顔をしていた。
その頬にそっと触れると、ゆっくりとキスをした。
「はい、時間切れ」
「意地悪ね」
もう一度ぎゅうっと抱きしめ合って、それから二人は出口の扉を開いた。




