その6.学生会館の零時
【登場人物紹介】
藤 知日路[ふじ・ちひろ]:公立古港高等学校の二年生。伝統楽器研究部部長。
静波 乃愛[しずなみ・のあ]:同二年生。同部副部長。知日路の親友。
廿梠木 漆[とどろき・うるし]:転校生。二年生。伝楽部に入部。
有衛 爽雨[ありえ・そう]:同一年生。同部部員。知日路の中学からの後輩。
鍋形 凪々帆[なべがた・ななほ]:同一年生・同部部員。爽雨とはクラスメイト。
【前回までのあらすじ】
廃部寸前の古港高等学校、伝統楽器研究部に所属する5人の女子生徒たち。
部の再興のためバンドネオンという楽器を中心にした演奏会を計画する。
OGに招待されて二人で都内の演奏会に向かうことになった知日路と漆だった。
演奏会「キンテート・タンゴ~遠い空の零時」は本当に素晴らしいものだった。
知日路たちを招待したのはその演奏会の主役としてバンドネオンを演奏する織多 恵莉花という女性で、アンコールを含めて2時間を超える演奏会の全てを音で支配していた。
演奏会のスタートが午後6時からだったのでその後の懇親会の時間はどうしても遅めになってしまう。
それもあって最初から二人は無理に日帰りをするよりは、とホールから比較的近い場所にある「県人会学生会館」に宿を予約していた。
こういう機会がなければ知らなかったのだが、都内にはそうした地元の学生が使える施設があるので外国人観光客などの影響で宿の予約が厳しい現在であっても格安で確実に一泊ができるということだった。
「本当に懐かしいわ。あの部室にあったバンドネオンね、私も高校時代に使っていたのよ」
と、織多さんは制服で立食パーティーに参加する二人に言った。
「あの頃、一緒に演奏していた仲間はもうほとんど音楽は辞めちゃったみたいだけどね。でも、私にとってはいつまでも大切な思い出なの」
気のせいかほんの少し涙ぐみながら、織多さんは知日路の着ていたセーラー服のリボンを軽く引っ張る。
「今日の演奏、本当に参考になりました。私達、先輩もいないし全て手探りだったので。今日の演奏の動画もいただけましたし、帰ったらみんなで見ます。いい演奏になるようにがんばります」
知日路が熱っぽく言うと、満足そうに織多さんは笑った。
「そちらの子は、ピアノを担当するだよね」
「はい。タンゴは始めてなので今日の演奏を見返してまだまだ練習が必要だなって思いました」
さすがの漆も緊張をしているようでピンと姿勢を正して言う。そんなに硬くならないで、と肩を叩いて織多さんはじっと漆の顔を覗き込んだ。
「えっ? 私、何か……?」
「ううん。あなた、私が高校生だったときのペア相手に少しだけ似てるなって思って。……って、もう17、8年前のことだけどね」
そこで何か言いかけたように口元が動いたが、二人にはそれが何を意味するかはわからなかった。
そんなことをしているところに、背後から織多さんを呼ぶ声が聞こえた。
「残念。スポンサーさんが来たからもう行かなきゃ。今日は来てくれてありがとう。ゆっくり食事をしていってね」
「こちらこそ! 貴重な経験でした」
握手をして立ち去るところで、あ、そうだと織多さんは振り返る。
「やり残しをして、後悔をしないようにね」
「? どういう意味ですか?」
「ううん。先輩卒業生としての、私の経験談。実際にその時期にいると気づかないものなんだけど、終わってみてから『ああ、あの時にしかできないことってあったな』って思い出すことがあるから」
「織多さんは…………どういうことをやり残したんですか?」
知日路の質問に織多さんは一瞬寂しそうな表情を見せた。
「言えなかったことがあったの。いつでも言えるって思っていて、言わなかったこと」
そこでもう一度背後から呼ばれて、織多さんは後ろ向きで手を振りながら二人の前を立ち去っていった。
残された二人はふう、と同時に緊張からのため息をつきながらも、なぜだか心の中にほんのりとさみしいような物悲しいような気分を感じていた。
そして知日路は、織多さんの演奏の奥行きになっている感情の流れの一端もそこにあるんだろうなと思った。
*****
かなり古い建物だから高級ホテルみたいな内装は期待しないでね、と事前に小阪先生から説明されていただけあって、学生会館の宿泊部屋はレトロ風というか今どきではなかなか見られないような設備をしていた。
「すっご……。ある意味、ここに泊まれるって貴重じゃない?」
「そうね。でもかなりきちんと清掃はされてるみたい。一泊だけだし、これでも贅沢よ」
室内は六畳くらいの和室で、畳の間と窓の間にはさらに二畳くらいの広縁がついている。お風呂は室内のユニットバスを使うようで、水回りはリフォームされているのか建物の古さに対してかなりきれいだった。料金は学割を使えばチェーン系のビジネスホテルの半額くらいなのでコスパとしては十分すぎるくらいである。
「明日もそんなにのんびりしていられないから、早めに支度をして寝ないとね」
「そうね。じゃ、どっちが先にお風呂に入るか決めましょ」
宮殿のような豪華な内装のリゾートホテルも素敵だが、こういった素朴な宿泊施設というのもまた違った味わいがある。布団を自分で敷いたりお茶をいれたりするというのはどこかわくわくするというか、普段の学校生活にはない非日常感があるからだ。
「冷蔵庫は使えるみたいだし、さっき買ってきた飲み物とか入れちゃうわね」
「あっ! そうだ。明日どこかでみんなにお土産を買わないといけないよね」
「新幹線に乗るんだし、駅構内にはたくさんお店があるんじゃないの?」
「駅で買うと、ちょっと手抜きっぽく思われないかしら」
「あー。乃愛とか、スイーツ系にはうるさそうだもんね」
二人だけの空間で会話をしていたところで、ふと漆が乃愛の名前を出した。
そこでぴた、と知日路は作業をしていた手を止める。
「そうね……。じゃあ、これから連絡をしてリクエストがあるか聞いておく?」
「もう結構時間は遅いけれども、まああいつのことなら起きてるでしょ。返事がなかったら適当に買えばいいわ。『寝てたあんたが悪い』ーって」
そう言って手早く自分のスマホを手に漆がメッセージを打ち込んだ。
そこを気にする筋合いは自分にはないのだ、と知日路は十分にわかっているつもりだった。
だけども二人でいるとき、もっと言えば二人での会話が楽しく盛り上がりかけたときに不意に乃愛の名前を漆から出されるのはどうしてもつらかった。つらい、というかそのたびに心がぐらっと斜めに傾くような気がするのだ。
できるだけ平静を装い、それほど広くない部屋のテーブルや茶器を脇によせて押入れから布団を取り出す。
決して広くはない六畳のスペースでは2つ布団を並べて敷くとかなり密着した距離感になってしまう。それでも知日路が気持ち離すようにすると、メッセージを送り終えた漆が窓際の布団をぐっと中心に向かって引っ張った。
「こっちに寄せていい? あんまり障子に近いと寝相で穴を空けそうで怖いの」
「あ、うん。そうよね」
畳の間と広縁の板の間の間には障子扉がつけられていた。知日路は自分の荷物を入口側の襖に置いていたので、自然にそちら側が自分の布団になった。
また会話をしていて乃愛からのメッセージが来たらと思い、知日路は先にお風呂に入ることにした。学校ではどこか気を張っているというか、同級生や後輩の前でだらしないところを見せたくないのかきちんとしている漆が、今はかなりくつろいでいるのか自分の布団の上にうつぶせになってスマホをいじっている。
こうして見ると漆もちゃんと女子高生なのね、と心の中で微笑ましく思いながら知日路はバスルームに向かった。
*****
目を閉じていると耳元にシャワーの水音がする。
知日路は先に寝る支度を済ませ、そのまま漆がバスルームに消えると同時に自分の布団の中で横になっていた。
室内の照明を暗くすると、先程浸っていた素晴らしい演奏が頭の中に蘇ってくる。見たことのない南米の風景を描いた音楽。途切れ途切れに聞こえる水音はまるでその滝の音であるかのようにも思えて、知日路は自然と手元に架空のバンドネオンを想像して指を動かした。
流れていく大河、そこに暮らす人々の思い。
こんなふうに悩んでいる自分はなんて小さな存在なんだろうと、そんな気分にもなる。
だけどもその小ささがゆえに、悩みを自分できれいに流すことができずにいる。
「いつか、時間が解決してくれることなのかな……」
水音が止まり、軽く床が軋むような音がしてシャワーカーテンが開いたのがわかった。壁一枚を隔てた向こうには漆がいて、とても無防備な姿をしている。
知日路は自分の布団の中でスマホからダウンロードしていた練習中の曲を小さめに流した。「ブエノスアイレスの零時」。雨だれを打つような冒頭のピアノが美しい曲だ。作曲者のアストル・ピアソラがナイトクラブで演奏を終えたあとに見た夜の街の、これから何かが起こりそうな不穏さや期待感が表現されている。
このまま眠ってしまおうか、と思った。
眠って、気がついたら朝になっていたらきっと今までどおりの毎日が続いていく。
何事もなかったかのような、昨日の続き。
知日路がうとうととしかけたところで、カチャ、とバスルームの扉が開く音がした。
「あれ? 真っ暗? 知日路、寝ちゃったの?」
漆が室内に入ってきた気配がした。真っ暗ではさすがに奥側の布団や自分の荷物のところにはたどり着けないと思ったのか、部屋のテレビ台の近くにあった間接照明のスイッチを入れた。読書灯くらいの明るさだったが、部屋がほんのりとした橙色に染まる。
知日路が何も言わないでいるとそっと移動した漆が自分の荷物を片付けるゴソゴソ、とした音が聞こえてきて、やがて部屋の中央にすり足で近寄ってきたのがわかった。
「知日路? じゃ、電気消すわね」
「ん………」
漆がそう言って自分でつけた間接照明を再び落とした時、隣に置かれていたデジタルの時計はちょうど零時をさしたところだった。
どれくらい経ったのだろうか、しんと静まり返った時間が過ぎた。
時折かすかに衣擦れの音がして隣にいる漆が寝返りをうっているのがわかる。
知日路は布団から顔を出し、仰向けになって部屋の天井を見上げた。
「漆、寝ちゃった?」
返事はなかった。横目で見ると身体を少し丸めるようにして窓側を向いているらしかった。
「あのね、漆。私ね」
掠れたような小さな小さな声だった。知日路は仰向けのまま目を閉じて、それから再び口を開いた。
「私、漆のこと好きだったの」




