第8話「舞う、一夏の想いで」
三味線の撥音が、静かに場内を震わせた。
舞台の幕があがる瞬間、僕は舞台袖で深く息を吸った。
扇を握る手は汗ばんでいた。
視界の端で、座長や座員たちがじっとこちらを見ている。
心臓は、うるさいほど打っていた。
けれど、不思議と足はすくまなかった。
(逃げない……今度こそ)
舞台の中央で、恭介の代役を務めるはずの演目が始まる。
囃子の音が高まり、笛の旋律が流れる。
袖から送り出された瞬間、観客のざわめきが耳に届いた。
それが、僕の背を押した。
扇を開き、足を一歩踏み出す。
白粉を塗った顔の下で、唇が自然と動いた。
神楽で覚えた身体の記憶が、細胞の奥から蘇ってくる。
裾さばき、手のひらの返し。
幼いころ何度も繰り返した型が、まるで呼吸のように体を導く。
舞台に立つ僕は、もう“神谷圭人”ではなかった。
ただ一人の「舞手」として、光の中に立っていた。
――視線を前に投げた瞬間。
客席の中で、瑠璃と目が合った。
目が合った、そう思った。
いや、違う。
彼女の視線は僕を射抜き、舞を支えていた。
その瞬間、胸の奥で何かが解けた。
舞うことは怖くない。
舞うことは、誰かに届けるためのものだ。
(瑠璃に――届いてほしい)
扇を大きく振り、旋回する。
観客の拍手が波のように押し寄せた。
最後の一歩を踏み出し、扇を畳む。
舞台に静寂が落ちた。
一拍のあと、場内が大きく揺れた。
割れるような拍手と歓声。
僕は深く一礼した。
その視線の先で、瑠璃が微笑んでいた。
泣きそうで、それでも強く笑っていた。
舞台袖に戻った僕を、座員たちが迎えた。
「よくやった」「見事だった」と口々に声をかけられる。
ただ僕は、その言葉のすべてよりも――
袖の影に立つ瑠璃が、小さく言ったひと言を待っていた。
「……ありがとう」
涙を堪えながら、それでもまっすぐに。
その声は、拍手のざわめきを越えて僕に届いた。
僕は扇を握りしめ、うなずいた。
一夏の想い出は、いま確かに舞台の上で形になった。




