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夏空 ……一夏の想いで。  作者: Ilysiasnorm


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8/11

第8話「舞う、一夏の想いで」

三味線の撥音が、静かに場内を震わせた。

 舞台の幕があがる瞬間、僕は舞台袖で深く息を吸った。

 扇を握る手は汗ばんでいた。

 視界の端で、座長や座員たちがじっとこちらを見ている。


 心臓は、うるさいほど打っていた。

 けれど、不思議と足はすくまなかった。


(逃げない……今度こそ)


 舞台の中央で、恭介の代役を務めるはずの演目が始まる。

 囃子の音が高まり、笛の旋律が流れる。

 袖から送り出された瞬間、観客のざわめきが耳に届いた。

 それが、僕の背を押した。


 扇を開き、足を一歩踏み出す。

 白粉を塗った顔の下で、唇が自然と動いた。

 神楽で覚えた身体の記憶が、細胞の奥から蘇ってくる。


 裾さばき、手のひらの返し。

 幼いころ何度も繰り返した型が、まるで呼吸のように体を導く。


 舞台に立つ僕は、もう“神谷圭人”ではなかった。

 ただ一人の「舞手」として、光の中に立っていた。


 ――視線を前に投げた瞬間。


 客席の中で、瑠璃と目が合った。


 目が合った、そう思った。

 いや、違う。

 彼女の視線は僕を射抜き、舞を支えていた。


 その瞬間、胸の奥で何かが解けた。

 舞うことは怖くない。

 舞うことは、誰かに届けるためのものだ。


(瑠璃に――届いてほしい)


 扇を大きく振り、旋回する。

 観客の拍手が波のように押し寄せた。

 最後の一歩を踏み出し、扇を畳む。

 舞台に静寂が落ちた。


 一拍のあと、場内が大きく揺れた。

 割れるような拍手と歓声。


 僕は深く一礼した。

 その視線の先で、瑠璃が微笑んでいた。

 泣きそうで、それでも強く笑っていた。


 舞台袖に戻った僕を、座員たちが迎えた。

 「よくやった」「見事だった」と口々に声をかけられる。

 ただ僕は、その言葉のすべてよりも――


 袖の影に立つ瑠璃が、小さく言ったひと言を待っていた。


「……ありがとう」


 涙を堪えながら、それでもまっすぐに。

 その声は、拍手のざわめきを越えて僕に届いた。


 僕は扇を握りしめ、うなずいた。


 一夏の想い出は、いま確かに舞台の上で形になった。


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