第6話「夏の風、残された時間」
翌朝、縁側の板がまだひんやりと冷たい時間。
僕は湯呑みを手に、庭先をぼんやりと眺めていた。
風鈴が小さく鳴り、昨夜の花火の残像がふと目の奥に浮かぶ。
瑠璃が笑った横顔――その明かりに照らされた瞳を、何度も思い出しては、胸がくすぐったくなる。
奥の座敷から、仲居たちの話し声が聞こえた。
「昨日は賑やかだったねえ」「花火のときなんて、子どもたちが大はしゃぎで」
そんな言葉が、夏の余韻と混ざって耳に届く。
湯呑みの縁に口をつけたとき――
「……じゃあ、移動は三週間後ってことで」
廊下の向こう、座長の低い声が響いた。
次の公演地へ向かう日程を、一座の仲間に告げているらしい。
三週間後――まだ少し先のようで、指の間から零れる砂のようにあっけない。
その数字が、妙に胸の奥で重くなった。
夕暮れ、旅館の縁側に座っていると、廊下の方から瑠璃が現れた。
浴衣姿のときとは違い、今日は仲居服で、後ろでまとめた髪から数本の髪が頬にかかっている。
手には盆を持ち、ちょうど配膳を終えてきたところらしい。
「おつかれさま」
何気なく声をかけると、瑠璃は小さく笑って隣に腰を下ろした。
「圭人くんこそ。昼間ずっと配達してたでしょ?」
「まあね。……昨日は楽しかった?」
「うん。屋台の金魚すくい、下手すぎて笑われたけど」
僕もつられて笑う。
あの夜のざわめきは、もうどこか遠くに溶けたみたいだった。
ふいに、瑠璃がこちらを見た。
「圭人くんも……舞ってたんでしょ? 神楽」
「……昔ね」
軽くそう答えたけれど、心の奥で何かがちくりとした。
それ以上、彼女は深くは聞かず、立ち上がって「じゃあ、またあとで」と廊下の向こうへ消えた。
夜。
配達帰りに神社の前を通ると、境内から太鼓の音が響いてきた。
石段を上がると、子どもたちが神楽の稽古をしていた。
灯りに照らされた白装束が舞い、鈴の音が夜気に溶ける。
その一挙一動が、遠い記憶を引き寄せる――舞台の灯り、汗ばむ手のひら、観客の静けさ。
視線を横にずらすと、境内の端に瑠璃が立っていた。
腕を組み、じっと舞台を見つめている。
こちらに気づくと、彼女は小さく微笑んだ。
僕も頷き返す――それだけで、言葉はなかった。
やがて、別方向へと歩き出す。互いに背中を向けたまま。
部屋に戻ると、机の引き出しを開けた。
奥から、布に包まれた昔の舞の道具――色あせた扇と、白い布。
手に取ると、指先に記憶が蘇る。
息をのむような静寂の中で舞った夜の感覚。
その重さが、今もまだ、僕の中に残っている。
「……このままじゃ、後悔するかもな」
思わず、独り言が零れた。
障子の向こうで夜風が揺れ、夏の虫の声が静かに続いていた。
その音は、胸の奥に芽生えた小さな決意を、確かに後押ししていた。