表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/6

第6話「夏の風、残された時間」

翌朝、縁側の板がまだひんやりと冷たい時間。

 僕は湯呑みを手に、庭先をぼんやりと眺めていた。

 風鈴が小さく鳴り、昨夜の花火の残像がふと目の奥に浮かぶ。

 瑠璃が笑った横顔――その明かりに照らされた瞳を、何度も思い出しては、胸がくすぐったくなる。


 奥の座敷から、仲居たちの話し声が聞こえた。

「昨日は賑やかだったねえ」「花火のときなんて、子どもたちが大はしゃぎで」

 そんな言葉が、夏の余韻と混ざって耳に届く。


 湯呑みの縁に口をつけたとき――


「……じゃあ、移動は三週間後ってことで」


 廊下の向こう、座長の低い声が響いた。

 次の公演地へ向かう日程を、一座の仲間に告げているらしい。

 三週間後――まだ少し先のようで、指の間から零れる砂のようにあっけない。

 その数字が、妙に胸の奥で重くなった。


 夕暮れ、旅館の縁側に座っていると、廊下の方から瑠璃が現れた。

 浴衣姿のときとは違い、今日は仲居服で、後ろでまとめた髪から数本の髪が頬にかかっている。

 手には盆を持ち、ちょうど配膳を終えてきたところらしい。


「おつかれさま」

 何気なく声をかけると、瑠璃は小さく笑って隣に腰を下ろした。

「圭人くんこそ。昼間ずっと配達してたでしょ?」

「まあね。……昨日は楽しかった?」

「うん。屋台の金魚すくい、下手すぎて笑われたけど」

 僕もつられて笑う。

 あの夜のざわめきは、もうどこか遠くに溶けたみたいだった。


 ふいに、瑠璃がこちらを見た。

「圭人くんも……舞ってたんでしょ? 神楽」

「……昔ね」

 軽くそう答えたけれど、心の奥で何かがちくりとした。

 それ以上、彼女は深くは聞かず、立ち上がって「じゃあ、またあとで」と廊下の向こうへ消えた。


 夜。

 配達帰りに神社の前を通ると、境内から太鼓の音が響いてきた。

 石段を上がると、子どもたちが神楽の稽古をしていた。

 灯りに照らされた白装束が舞い、鈴の音が夜気に溶ける。

 その一挙一動が、遠い記憶を引き寄せる――舞台の灯り、汗ばむ手のひら、観客の静けさ。


 視線を横にずらすと、境内の端に瑠璃が立っていた。

 腕を組み、じっと舞台を見つめている。

 こちらに気づくと、彼女は小さく微笑んだ。

 僕も頷き返す――それだけで、言葉はなかった。

 やがて、別方向へと歩き出す。互いに背中を向けたまま。


 部屋に戻ると、机の引き出しを開けた。

 奥から、布に包まれた昔の舞の道具――色あせた扇と、白い布。

 手に取ると、指先に記憶が蘇る。

 息をのむような静寂の中で舞った夜の感覚。

 その重さが、今もまだ、僕の中に残っている。


「……このままじゃ、後悔するかもな」


 思わず、独り言が零れた。

 障子の向こうで夜風が揺れ、夏の虫の声が静かに続いていた。

 その音は、胸の奥に芽生えた小さな決意を、確かに後押ししていた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ