第5話「夏祭り、ふたりの約束」
夏祭りの前日、清水屋の座敷にて。
「……明日、公演はお休みなんだよな」
僕は、何気ない風を装ってつぶやいた。
けれど隣で帳簿を広げていた女将は、気づいていたのか、気づいていないのか、小さくうなずいただけだった。
彼女は今日も忙しく動いている。
舞台の稽古を終えたあとも、一座の仲間や清水屋の人たちと丁寧に挨拶を交わし、夜には旅館の仲居仕事まで手伝っていた。
(……誘えるわけないよな、こんなタイミングで)
僕は声を飲み込み、そのまま口をつぐんだ。
そして、夏祭り当日の夜。
町の通りには屋台が立ち並び、色とりどりの提灯が道を照らしていた。
笛の音、子どもたちの笑い声。
空気に溶け込むような匂いと、熱気。
僕は、浴衣姿の家族連れの間を、ひとり歩いていた。
周囲の賑わいに溶け込めないまま、何かを探すように目を泳がせながら。
(やっぱり、誘っておけばよかった)
心の中で何度も繰り返していた。
けれど、その“もしも”を繰り返すには、少し遅すぎた。
ふと、前方の人波の向こうに、見覚えのある影が見えた。
風見さん……いや、瑠璃だった。
控えめな紺の浴衣に、淡い色の帯。
髪を結い上げ、舞台とは違う“日常”の中にいる彼女の姿が、まぶしかった。
隣には、一座の女の子たちと、若い役者の男性たち。
その輪の中で、彼女がふっと笑った。
僕は、思わず足を止めた。
(……楽しそうだな)
胸が、ざらりと音を立てたような気がした。
踵を返して、僕は通りの脇道に歩き出した。
混雑した祭りの喧騒から、そっと逃げるように。
「……圭人くん!」
振り返った先には、瑠璃がいた。
小さく息を弾ませ、少しだけ頬を紅く染めている。
「やっぱり、圭人君だった……ずっと、似てるなって思ってて」
「……え?」
「さっき、見かけたんだ。でもすぐ後ろ向いちゃったから、見間違いかなって思って……でも、やっぱり君だった」
「うん、僕も……」
言葉が、うまく出なかった。
それでも、瑠璃は笑ってくれた。
「よかったら、一緒に歩かない?」
僕は、何も言えずにただうなずいた。
ふたりで歩く夜市。
金魚すくい、焼きとうもろこし、型抜き。
どこかで見たような景色が、今夜は少し違って見えた。
「わたあめ、食べる?」
「……ちょっとだけ」
何気ない会話が、ふたりの間の空気をやわらかくしていく。
気がつけば、さっきまでの胸のざわめきは、どこか遠くに溶けていた。
やがて、神社の境内へと足が向いた。
鳥居をくぐったその先では、神楽の奉納が行われていた。
舞台の中央、松明に照らされながら、白装束の舞手が静かに舞う。
その舞には、何の飾り気もない。
ただ、神に捧げるためだけの、祈りに近い所作があった。
僕は、立ち止まり、静かにその舞を見つめた。
隣に立つ瑠璃もまた、言葉なくその舞に目を注いでいた。
(……僕も、昔はここに立ってた)
舞うことが好きだった。
けれど、いつしか怖くなっていた。
人の目も、失敗することも、自分の中の“想い”も。
だから、舞うことをやめた……いや、逃げたのかもしれない……
花火の音が、遠くから聞こえはじめた。
「行こうか」
何かを察した様に瑠璃がそう言った。
ふたりで河原へと向かい、堤の上に並んで腰を下ろす。
夜空に、大輪の花が咲いた。
「……あの舞、昔の圭人くんみたいだった」
瑠璃がぽつりと呟いた。
「どうして、そう思ったの?」
「なんとなく。でも、感じた。あの舞に、君が重なって見えた」
僕は、小さく息を飲む。
どうして彼女は、そんな風に僕の中を見透かすようなことを言えるんだろう。
「……僕、また舞ってみたいって、思ったんだ。
誰かのために。誰かの心に届くなら、って」
「……その“誰か”って」
瑠璃の視線が、そっとこちらを向いた。
僕は、答えなかった。けれど、答えはたぶん、彼女にも届いていた。
花火の音が、大きく空を割った。
「来年も……この町で舞ってるかな、私」
「……来年も、会えたらいいね」
「うん。じゃあ、来年の花火も、約束だね」
花火の灯りに照らされた彼女の横顔は、
少しだけ寂しそうで、けれど確かに、笑っていた。
その夜、僕の胸には、消えない音が残った。
それは花火の音じゃない。
舞台の拍手でもない。
……誰かを想う音だった。