第4話「舞台の幕があがる」
客席に身を沈めた瞬間、僕の心臓は、どこか高鳴っていた。
場内はまだ薄暗く、客席には湯上がりらしい浴衣姿の観客もちらほら。 小さな子どもから年配の人まで、みんな思い思いに開演を待っている。 舞台前の幕には、白地に紫の唐草模様が染め抜かれ、「風の座」と記されていた。
(今日の演目は……『梅川忠兵衛』)
受付で渡された小さなプログラムに、そう書いてあった。 悲恋物語として有名な近松門左衛門の作品。だが、その筋書きよりも、僕の意識はただ……彼女に向いていた。
客席の灯りがふっと落ち、太棹三味線の音色が静かに鳴り始める。
幕が、ゆっくりとあがった。
最初の登場は、男役の忠兵衛。 だけど、僕の目はその奥に現れる“梅川”を待っていた。
やがて、扇を広げて花道から登場したのは――風見瑠璃。
白粉に映える紅の口元、繊細な動きで裾を捌き、静かに歩を進めるその姿は、もう僕の知っている「風見さん」ではなかった。
(……本当に、別人だ)
舞台の上で、彼女は“梅川”として生きていた。 微笑み、悲しみ、恋に悩み、そして運命に身を投じていく。 その声も所作も、観る者の胸に染み入るようだった。
時折、彼女がふと前を向くたびに、視線がぶつかるような錯覚を覚えた。
――いや、あれは目が合ったのではない。彼女の“目”が、誰かの心に届いているのだ。 そんな気がして、僕はただ黙って見つめていた。
終幕、紅を差し直すこともないまま、舞台上の“梅川”は去っていく。 それは死ではない、けれど、それ以上に切なく、美しかった。
鳴り止まない拍手。
僕も自然と手を叩いていた。身体が、心が、動いていた。
やがて幕が降り、場内が再び静寂を取り戻す。
席を立ち、ロビーを通り抜けて外に出ると、もう空は夕闇の気配を帯びていた。
石畳の路地を歩いていると、不意に背後から足音がした。 振り返ると、舞台衣装のままの彼女がそこに立っていた。
「舞台…すごく良かった……」
僕がそう言うより先に、彼女は静かに笑った。 けれど、何も言わない。
視線だけが交差した。 言葉よりも、深く、確かに。
その瞬間、胸の奥に灯っていた火が、また少し強くなった気がした。
彼女は軽く会釈すると、そのまま脇道へと消えていった。 舞台の“幕”の向こうから、再び現実の“風見瑠璃”へと戻っていくように。
僕は立ち尽くしたまま、空を仰いだ。
夜の帳が、そっと町を包み始めていた。
(あの声を、あの姿を、忘れたくない)
ふと、舞台の余韻の中に…… すれ違う一座の裏方さん達が話していたことを思い出す。
「来週の公演の中休みの日に街の夏祭りがあるらしいよ。花火も上がるんだって」
その言葉が、心に残った。
(花火大会の日に、彼女は舞台に立たない……)
それだけで、何かが動き出す予感がした。