雫8粒 後日談
昇降口で生徒たちの挨拶が聞こえる。当然僕に向けられるものは無い。
いつもの様に上履きを履き替えると、後ろからポンっと触れられた気がした。
「おはよ!」
明るいトーンの声が聞こえる。
振り返ると整った長い黒髪を靡かせた月島が、片手を上げて立っていた。
その笑顔は、朝の空気に似合うほど清々しかった。
◇◇◇
——放課後。
僕と月島は一昨日の公園に来ていた。
月島から放課後に話がしたいと言われて、この公園に呼ばれた。
てっきり学校から一緒に行くものだと思っていたけれど、帰りのホームルームが終わると“あとでね”と言って月島は足早に帰ってしまった。
そうして一人でベンチに座っていると月島は徒歩で来たのか、ひょっこり顔を覗かせた。
「それで?」
昨日のその後の話だろうか。そんな事を考えていると月島が口を開いた。
「昨日ね。久しぶりに皆んなでご飯食べたの。」
少し照れたような、それでいて嬉しそうな声が聞こえる。
「二人とも私に気を遣ってるのか、すごく仲良くしようとしてて、でもなんだかそれが可笑しくて。嬉しくて。」
その声音は、まるで春先の陽だまりのようにするりと僕の胸に染み込んでくる。
「今朝も一緒にご飯を食べて、一緒に家を出たの。お父さん無理して、今日は早く帰るって言ってて、帰ったら本当にお父さんいたの。」
そよぐ風と月島の落ち着いた声が心地よかった。
「家族が変わった気がした。」
月島はそう言いうと、少し間を置いて“ううん”と首を横に振った。
「変わろうと頑張ってくれている。だから私も二人に胸を張ってもらえるような娘になれるように頑張らないと。」
月島は両手を胸の前で合わせて、瞳を閉じた。
「きっとね、私は、泣くのが得意だった……。だから誰かに慰めて貰うのを当てにしていたのかもしれない。」
そんな事はない。いつだって月島は……。
「でも本音でぶつかる大切さを、宮坂君が教えてくれた。」
そう言うと茜色の空を見上げた。
「だから、全部。全部宮坂君のおかげ。」
「僕は何も……。月島が本気で向き合ったからだよ。」
「そんな事ない。私は宮坂君がいたから変われたって思いたいの。」
だから……と言って月島は僕の顔を真っ直ぐに見つめた。
「ありがとう。宮坂君。」
夕日の影で照らされたその笑顔は、僕がこれまで見たきたどの笑顔よりも純粋で美しかった。
その時ポケットの中で、何かがふわりと温もりを帯びた気がして、そっと取り出してみる。
澄想ノ瓶が淡く、柔らかな光を放ち、いつの間にか綺麗な紫色の液体で半分ほど満たされていた。
金色の細かな粒子が浮かび、瓶の中でゆったりと流れ、時折きらめくように光を反射する。まるで星屑が閉じ込められているかのような、美しい光景だった。
「すごく綺麗……。」
月島がぽつりと呟いて、見惚れるように瓶を見ていた。
これが感謝の雫。
これはきっと月島の心だ。
不思議な事に“感謝の雫”を集められた事で喜びを感じなかった。月島が笑顔でいる。その事がただ、何よりも嬉しかったのだ。
「あ!そういえば。」
思い出したように月島は手を叩いた。
「あの後から“声”が聞こえなくなったの。」
「そうなの?」
目を見開く僕に、彼女は首を傾げた。
「なんでだろ。スッキリしたからかな?」
——妖異は弱味につけ込む。
エリムから教えてもらった習性だ。弱味が無ければ、妖異はいなくなるのかもしれないな。
なんにしても、僕の中にあった引っ掛かりは全て取れた気がした。
その後はしばらく月島と公園にいた。
時折、心地の良い風が、僕たちの間を駆け抜けていった。
「……じゃ、そろそろ帰ろうかな。」
月島はそう言うと立ち上がった。
「家まで送るよ。」
「ううん。大丈夫。」
月島はゆっくり首を振った。
そりゃそうか。僕といる所を誰かに見られて、変な噂でもされたら嫌だろうしな。
そんな事を考えていると、月島は真っ直ぐ指差した。座っているベンチのちょうど正面の先にある道路に停車している、黒いセダン型の車を。
「だって、お父さんいるから。」
「え?!」
僕はおそらく生きてきた中で最速で首を向けた思う。
視線の先にはウィンドウ越しにこちらをジッと凝視している月島の父親がいた。
怖え……。というか先に言ってよ。
「すっごい見てるね。」
月島はそう言うとクスクスと笑った。
「また明日ね!」
振り返って手を振る月島。
夕日に照らされた彼女はどこか軽くなったような肩を揺らして、車に向かって駆けて行った。
僕たちは惰性の中で家族と暮らしている。それは当たり前で、むしろそうではない方が珍しいのかもしれない。
けれど、きっとそれはどうしようもない程に脆くて、誰かの考えが違えば簡単に崩れてしまう関係。
だから月島は家族でいる為の努力をしているのかもしれない。大好きな両親といる為に。
僕はそんな前向きな月島をずっと支えたいと思った。
◇◇◇
僕は再び石段を登っていた。
『のう、ハル。どうしても行くのか?』
「当然だろ。」
エリムは心配そうに声を潜める。
『あの男は苦手だからのう。』
「お前が会うわけじゃないだろ。」
身をキュッと縮こませて、心の中で丸くなっている気がする。
そんな会話をしていると鳥居と社殿が姿を見せた。
古びた木の柱と梁が落ち着いた風格を漂わせ、緑がかった屋根が年月を物語っている。
相変わらずの神聖な雰囲気だ。
周囲を見渡してみると、社務所付近を竹箒で掃いている神薙の姿を見つけて、歩み寄ると神薙もこちらに気づいた。
「何の用だ?守り人。」
いつも通りの値踏みするような澄まし顔を向けた。
「雫が半分くらい溜まったからな。焚べにきたんだよ。」
神薙は掃除の手を止めて目を見開いた。
「この数日で……か?」
「そうだけど……。」
何か変なのだろうか。
すると神薙はこっちだ、と言うと箒を社務所に立てかけて案内した。
守り人の役目は感謝の想いが結晶化した雫を“冥灯”という古くから灯る炎に焚べる事。
そうする事でこの地域特有の負の感情が溜まりやすい“場”を照らすそうだ。
それはつまり蔓延る妖異を鎮めさせる事に繋がるらしい。
そして、守り人の証である澄想ノ瓶。
守り人に任命された時に澄想ノ瓶には一滴の雫が溜まっていた。
おそらく、老婆を助けた時のお礼が雫となったのだろう。
しかし任命された時は、雫がもっと溜まってから来るように、神薙から言われていた。
「もっと時間が掛かるものだと思っていたが、見誤っていたようだ。」
拝殿に入り、背面側に設けられた通路の襖を開けながら、神薙は言った。
そういうものなのだろうか。
拝殿の中は古びた木の香りと静謐な空気が満ちていた。六畳ほどの小さな空間には艶やかに磨き込まれた板の間が広がり、中央正面には簡素な祭壇と刀が設けられている。
そこを隔てている襖を開けると少し広がった広間に出る。周りは窓も明かりもない。室内なのに床一面に砂利が敷き詰められていて、四隅には石灯籠が設けられている異様な空間になっていた。
そしてその中心。ちょうど真ん中に祠とその中央に青白く灯る炎が祀られている。その炎だけが室内を薄く照らしていた。
「あれが?」
——かつてこの地に妖異が蔓延っていたそうだ。その地は幾度も火に包まれ、死者が絶えずにいた。そんな時、神の使いと名乗る巫女が現れ、祈りと共に一つの焔を灯したとされる。
「そう——冥灯だ。」
神薙は迷いなく砂利の中を進むと、僕も後に続いた。
足元から砂利を踏む二つの音だけが聞こえる。
祠の前に着くと、冥灯の前に立った。
「思ったよりも小さいな……。」
もっと派手で威圧感のあるものを想像していたけど、違った。
青白く輝くそれは、細々としているのに妙に存在感があって、触れたら全てが終わるような気配を纏っている。
それでも、目の前にあるのはロウソクほどの大きさしかない——そのギャップに息を呑んだ。
「今はかなり小さくなっている。故に多くの雫が必要だ。」
「それって……。」
「そうだ。」
任命された時に神薙は言っていた。先代の守り人は宮坂照彦、僕の祖父だと。だから僕は守り人になる事を了承したのだ。
しかし祖父は長い事、病床にあり、その一ヶ月前に亡くなった。冥灯が弱まっている気配を不審に思った神薙は南の地で別の厄介事にあたっていた所を、急遽この東の地に来て、僕と出会い事態を知ったそうだ。
「そこの凹みに澄想ノ瓶の蓋を開けて置け。」
冥灯を祀っている台座の手前に瓶を立てられるような丸い凹みがある。
僕は言われるがまま、小瓶を置いた。
「少し離れろ。」
神薙が腕を伸ばして僕を後退させる。
——すると。
雫が瓶の中からふわりと抜け出し、淡い光の尾を引きながら祠の周りを旋回する。
空気がぴんと張り詰め、肌にひやりとした感触がまとわりついた。
次の瞬間、雫は祠の正面から冥灯へ一直線に吸い込まれる。
接した刹那、青白い炎がひときわ揺らぎ、金色の粒子が爆ぜるように広がった。
その輝きが周囲の闇を押し返し、粒子はやがて形を成して映像のように人物を映し出した。
そこには、深々と腰を曲げる老婆と、夕日に照らされた月島の笑顔が、幻想的な雰囲気と共に映し出された。
「すげえ……。」
『綺麗だの……。』
ほんの一瞬の出来事。周囲はいつもの静けさを取り戻すと、瓶の中は空っぽになっていた。
気のせいか、少し冥灯が大きくなった気がする。
やる事を終えた僕らは拝殿を後にした。
聞くところによると、ここの作りは元々、祠を囲うように小さな本殿があったそうだが、いつの時代かに本殿を取り壊して、拝殿で周りを覆うように造り替えたらしい。
理由は冥灯を隠す為だそうだ。
「あの老婆は……。」
冥灯の間を出る前に神薙は顎に手を添えながら何か考え事をしているそうだった。
◇◇◇
僕と神薙は鳥居を前にしていた。
「また溜まったら来るといい。次は俺がいなくても、一人で焚べられるな?」
だから爺ちゃんはよく神社に来ていたのか。
「もしかしてさ、雫の量って感謝の想いで変わるのかな?」
「かもしれないな。あの映像は雫に宿った記憶だ。俺は何度も見てきたが、あの量がたった二人の想いなのは始めてた。」
ならそれだけ月島に寄り添ってあげられたって事か。
僕はどこか心の奥が温かくなる思いだった。
「一つ聞いていいか?」
神薙は真っ直ぐに僕を見た。
「あの娘はどうなった?」
すでに夜になりかけの空と虫の声が聞こえた。
「久しぶりに家族でご飯を食べれたって笑ってたよ。」
「そうか。」
僕は目を伏せる
「良い話じゃないかもしれないけど、そう悪い話でもないだろ。」
「そうだな。」
神薙はフッと笑う。
僕は神薙と冥灯を背に石段を下り始めた。
きっとまだまだ月島のように悩みと妖異を抱えた人はいるに違いない。
全てでなくても、せめて僕の手が届く範囲はこの手を差し伸べたいと思った。




