感謝は、簡単じゃない
「そんな偽善に──助けてほしくない!」
その叫びは、割れたガラス片が床に散らばるみたいに、廃ビルの空気を鋭く裂いた。
月島あずさは、迷いもなく窓際へ駆け出す。
あと数秒──。
外へ飛び出せば、十数メートル下のアスファルトが容赦なく迎え入れるだろう。
助かる見込みなんて、ほぼゼロ。
「月島!」
僕は反射的に手を伸ばす。
……けれど、足は床に縫いつけられたまま動かない。
脳裏に、あの夜から居座っている女の声が響く。
──あの女子は真剣に相談していたのではないのか?
あの時の何気ない一言が、鎖みたいに足首を締め上げる。
目の前で、人が死にかけている。
それなのに、僕の体は言うことを聞かない。
胸の奥で何かが沈み、喉は固く締め上げられたみたいに声を拒んだ。
──動け。せめて、声だけでも。
必死に命じても、出てくるのは軽く乾いた息音だけ。
どんな言葉を並べても、今の僕じゃきっと届かない──空っぽな響きになる。
月島の足が、窓枠を越えた。
夕風が髪をほどき、茜色の光が頬をかすめる。
街の灯りが遠くに滲み、まるで向こう側の世界に足を踏み入れたみたいだ。
僕は視線を落とし、力なく手を下ろした。
──誰だよ。感謝を集めるなんて、簡単だって言ったやつは。
◇◇◇
──数日前の夜、僕は、宮坂陽彦は死にかけた。
きっかけは、ただの夜の散歩だった。
春から高校二年。
大好きだった祖父が亡くなって一か月、僕は毎晩のように街を歩くのが習慣になっていた。
夜の空気は静かで、何も考えずにいられる。
……そんな時間が、今の僕にとって唯一の“居場所”だった。
でも──その夜は違った。
路地裏で倒れていた“赤い髪の女”。
助けようと足を止めた瞬間、暗闇から“角のある男”が現れた。
二人は異形同士の殺し合いの最中だったのだ。
こんな光景、普通の人間は一生知らずに終わるだろう。
証拠も残らないし、翌日にはその痕跡すら風に消える。
それは、この世界の“裏”にだけ許された戦いだった。
僕は逃げる間もなく巻き込まれ、気づけば右腕を失っていた。
息を奪うような痛みと、絶望的な力の差。
地面に転がったまま、何もできず──視界が赤く染まっていく。
——その時。
赤髪の女が、僕のすぐそばにしゃがみ込んだ。
「選べ。死ぬか……私と、ひとつになるか」
その声が耳に落ちた瞬間、真紅の光が全身を包み込んだ。
焼き切れるほどの熱とともに、何かが僕の中へ流れ込む。
──“彼女”は僕に取り憑いた。
失ったものの代わりに得たのは、生きるという実感だった。
そんなわけで、僕は異形の女──妖女と一つになったのだ。