IQ70
玄関のチャイムの音で目を覚ました。
どうやら作業中に寝落ちてしまったらしい、机の上にはぬるくなった未開封のエナジードリンクが倒れていた。時刻を確認すると午前二時。......午前二時? そんな時間に訪ねてくるような人物に心当たりなどあるわけもなく、不信感を抱えながらも忍び足で玄関へ向かう。
ピンポン、ともう一度控えめに鳴り響いたその音は、真夏の深夜とは不釣り合いでどこか不気味に思えた。意を決してゆっくりとドアを開ける。もちろんチェーンは外さないまま。
「どちらさ、ま......え?」
そこには何時間か前にも顔を合わせた親友が制服のまま俯いていた。自分より頭半分ほど背の高いそいつの肩は震えていて、急いでドアチェーンを外して中へ招き入れた。一人暮らしで良かった、なんていやに冷静な言葉だけが頭にこだました。
「えっと、......とりあえず入って。飲み物持ってくるからその辺座ってて」
うん、だなんて消えそうな声が聞こえて、これはかなりまずいんじゃないかと柄にもなく焦り始めていた。
二人掛けのソファに身を沈めた彼は、そのまましばらく何も言わなかった。手を膝の上で握り、口を開いては閉じてを繰り返して、何かに耐えるように丸めた背はわずかに震えて見えた。隣に座る自分にも震えがうつりそうで、思わず首を振る。
「......ごめん、こんな、深夜に」
ようやく声が聞けたと思えば、掠れて疲れ果てたようにそう呟いた。
「それはいいけどさ、......どうしたの?」
何があった、なんて続ければ彼は一度目を瞑りこちらに向き直った。
「お、おれ、......人、殺したんだ」
ここにきて初めて目が合った彼の顔は右頬が赤く染まっていて、ああ、これが返り血ってやつなのかな、なんてそんなことを思った。違う違う、こいつは今、なんて言ったんだ。
「......は? 殺し、たって......、え?」
人を、殺した。目の前の親友が? いやいや、どう考えても非現実的だろ。誰を? どこで? どうやって? 聞きたいことは山ほどあるはずなのに、自分の体は彼を見つめているだけだった。
「......おれ、学校で、いじめられてて、それで、さっきあいつに呼び出されて、それ、で」
「公園、で殴られ、て、それでおれ、おれ、落ちてた瓶で......あいつ全然、動かなくなって」
落ち着いてきたのかこちらを見つめ返しながら彼は経緯を話した。どちらのものかもわからない汗がぽとりとソファに染みる。
「......死体は、死体は今どこにあるんだ」
やっと返事ができたと思ったら、自分の口から出たのは情けなく裏返った声だった。
ざく、ざく、乾いた土を踏む音がする。左手には旅行でしか使ったことのないトランクを引きずり、右手は羽織ったパーカーを握りしめていた。隣で半歩後ろをついてくる彼もまた、同じように紺色のトランクを引いていた。
あれから彼は公園で殺した同級生の死体を、酔った同僚を担ぐようにして運んだらしかった。彼の家に着くと、玄関には四肢が投げだされ変わり果てたクラスメイトが当たり前のように死んでいた。瞳孔は開き、口は半開きで、左側頭部だけが赤黒く不自然にへこんでいて。これが人間の死か、とどこかぼーっとした頭でただ死んだ同級生を見下ろしていた。
「......なぁおれ、本当はさ」
「うん」
「本当は、......殺してよかったとか、思ってて」
「......うん」
「だって、だってもう、これからはいじめられる心配もなくなるし」
「うん」
「これで、これで......よかったって、どうしても思っちゃうよ」
「......」
「お前は、さ......おれがこいつ殺したって知って、どうする?」
「どうする、って」
「そりゃ普通、警察に言ったりとかするじゃん」
お前は、まだおれと友達でいてくれる? 自嘲気味に口角をあげた彼を、どんな感情で見つめ返したのかなんて覚えていない。
彼の家から三十分程歩き、誰も立ち入らないような山奥へと辿り着いた。彼の家で死体をトランクに詰めてから彼も自分もずっと無言で、生ぬるい風だけが頬を撫でていた。
「ほんとに、いいのかよ」
「何が?」
「だって、殺したのはおれなんだから、今ならまだ......」
「......今更だろ。それよりもう明るくなってくるぞ、急がないと」
「ああ、......ごめん」
彼の腕を掴み、さらに山奥へと向かう。時間がない。小さく舌打ちを残して反対の手でまたトランクを引きずった。緩めに巻き付いた腕時計を見れば、時刻はもう三時だった。
五分ほど歩いて、少し拓けている場所にトランクを置く。
そこからは簡単だった。深く穴を掘って、淡々と肉を投げていった。いつから共犯者になんかなったんだ、なんて思考が一瞬脳内を駆けていったけれど、きっと最初から自分は平気で死体遺棄のできる人間だったんだ。
「......これで、最後だ」
「そうだな」
べちゃっ、音を立てて土に消えていくピクリとも動かないそれを見て、この塊も数時間前までは意思疎通ができていたんだな、と場違いに思った。
「なぁ、......これでおれら、本当に犯罪者だな」
「......そうだな」
ありがとう、なんてこぼした彼はもう震えてなんていなくて、トランクに伸ばした手を静かに見つめていた。
日が昇っていく。一日が始まる。人殺しと共犯者の一日が、どこかの善人と同じように始まっていく。
親友の感謝がどんな意味だったかなんて、自分にはもうわからなかった。