9.ふたりの出会い
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この世界の聖獣は、狼によく似ていた。
ただし、聖堂の壁画や天井画に描かれた姿は、共に描かれている人や眷属たちに比べると、見上げるほど大きい。
白銀色に輝く被毛。そして凛々しい顔と金色の虹彩。長くて立派な足。
そして赤や黒、茶色といった色とりどりの被毛をした眷属の狼たちを引き連れて立つ聖獣は、常に夫婦だ。
番になったなら、二度と離れずお互いを想い続けるという。そんなところも眷属である狼とよく似ていた。
だからこそ、人々にもそうあるように運命の相手を示す恋の種を授けたのだ。
実際にその尊い姿を見たことはなくとも、国の施策で勉強を教わりに通うようになってからは、聖堂に描かれた聖獣様の姿なら、リリカもよく知っていた。
その立派な御姿を思い出し、確かにルキウスのこの尻尾は(大きさはともかく)そのものだと納得した。
父親からの訂正には素直に頷いたリリカに、ルキウスとしては少しだけ恨めしいような切ないような気持ちになったが、気を取り直して話を続けることにする。
「聖獣様は、我が国では大神とも呼ばれているんだ。その眷属が狼だよ」
「そうなんですね。ではルキウス様も、聖獣様の眷属なんですね」
すぐに同意を得られると思ったらしい自信満々のリリカは笑顔でそう言ったのだが、ルキウスとマグ、ふたり揃って微妙な表情をして黙り込んでしまった。
「あー、その。先程、私は自分の名前を名乗ったけれど、多分その名前についてリリカもご家族も、なにも思いつかなかった、でいいんだよね。他国のことだから、詳しくなくても当たり前なんだけど」
「……はい?」
今度はリリカの家族が黙り込む番だった。
微妙な空気が流れる。
首を傾げるリリカに、すっかり冷めてしまった茶をひと口飲んだマグが、あっさりとそれを告げた。
「ノース家は、ルマティカの王を決める裁定権を持つ四つの家門のひとつでございます」
「えぇっ、お貴族様なんですか、ルキウス様!」
「貴族ではない!」
慌てて顔の前で手を振って否定するルキウスに、しかしマグが引導を渡した。
しれっとした表情のまま、情報を付け足す。
「ルマティカには貴族制度はありませんよ。ただ、現国王はルキウス様のお父様ですが」
「もっと酷いじゃないですか。おとうさんが王様だなんて! ルキウス様は王子様ってことじゃないですか!!」
真っ青な顔になったリリカが叫ぶ。
「もっと酷いだなんて! 酷いこと言わないでよ、リリカ」
リリカの顔色に負けないほど絶望色に顔を染めたルキウスが叫び返した。
顔を付き合わせて、主張し合う。
「異国の王子様とパン屋の娘が恋の種の相手になるなんて! そんなの許されないでしょう?!」
「なんで? 私の父が現国王なのは間違いないけれど、私は王子って訳じゃあないし、私の運命の相手はリリカだし、リリカの運命の相手はルキウス・ノース。私だよ」
「そんなの、おかしいです! だって私は広場で声を掛けられるまで、あなたなんか知らなかった! 知らない人が運命の相手だなんてっ」
「さっきも言ったけれど、私はちゃんと君たちと、前に会った事がある。それに、私はタイからリリカの幸せを託された」
「!!」
「あの会場で。消えてしまう前に、間違いなく、彼は私の方を向いてそれを告げてた」
言葉は聞こえなかった。
けれど、あの表情。彼の強い瞳が、それをルキウスに告げていた。
そうしてその瞳に向かって、ルキウス自身が誓ったのだ。
「そして私は、『かならず幸せにしてみせる』と応えた」
見開かれたままのリリカの瞳。
濃い緑色の虹彩に、ルキウスだけが映っているのに。
心の真ん中には、彼がいる。
リリカは、タイが消える寸前、ルキウスを見ていたことに気が付いていなかった。
目の前で起きた奇跡が、あっという間に終わってしまったことに、呆然としていたから。
「……でも。会った事はあっても、知り合いという訳ではなかったですよね。ルキウス様には、そんなタイとの約束を、もう、死んでしまったタイとの約束なんて守る必要、ないじゃありませんか」
その名前を口にしただけでリリカの瞳が涙でうるんだ。
そんな顔をするくらいなら、愛しい人が死んでしまったことなんか口にしなければいいのに。
ルキウスの為に自分で口にしてしまうなんて。
自分で口に出して、それで傷ついているリリカは優しすぎて。切なくなった。
「私は、タイとの約束を違えるつもりはないよ」
「でもっ」
「リリカは勘違いしている。忘れているというんじゃなくって、気が付きようもないのは分かっているけれどね。私は、ずっと前に会った際のリリカとタイに、感銘を受けたんだ。それほどの出会いだったんだよ、私にとってはね」
「え?」
落ち着いて欲しくて。リリカに向かって微笑みかけた。
けれど、もしかしたら胡散臭さが倍増しただけかもしれない。
その証拠に、横に座っているマグがごほんとわざとらしく咳払いしている。失敗しただろうか。
座り直すように手で椅子を指し示すと、リリカは居心地悪そうにしていたけれど、助けを求めて視線を向けた両親から頷き返されて、諦めたように座り直した。
リリカやご両親の緊張が伝わってくる。けれど本当は、誰よりもルキウスが一番緊張していた。
「話を戻そうか。リリカ。君とタイに私が出会ったのは8年ほど前になる。私が初めてこの国に来て、バケモノ扱いされたことに始まるんだ」
「8年前?」
ルキウスの話を受けて懸命に記憶を探るリリカの、真剣な表情。ぐっと唇を真一文字に引き締め、茶色の瞳がくるくると右や左下へと移動している。
愛らしく変化を続けるリリカの表情、そのひとつひとつに、心がくすぐったいような温かさが広がっていく。
「ねぇ、リリカ。キミ、朝早い王都の広場で、たくさんのいろんな動物たちが集まっている所に行き当たったことがあるでしょう?」
「……どうして、それを?」
そこまで言って、リリカは何かに気が付いたようだった。
じっとルキウスの頭の上、耳を見つめる。
「あの時の、白銀色の、大きな犬!」
「銀狼だ」
「そうでした。白銀色の、狼でしたね」
すみません、と肩を落としてちいさくなるリリカが可愛らしすぎて、入り過ぎていた力が抜ける。
だから、まだちょっと緊張は残っていたけれど、ルキウスは躊躇することなくそれを言葉にできた。
「たくさんの動物たちの真ん中にいたその銀狼が、私だからだよ」