5.恋の種
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その日は、朝から体調が悪いせいなのか、強くぐずった弟を宥める為に、いつもの時間にいつもの窓辺にいられなかった。
子供部屋の小さな窓から、彼が走って仕事に向かう後ろ姿を見つけられただけだった。
食べ物を作る家で、病人が出ると商売にならない。
何故なら、病がうつると敬遠されるからだ。
だから、できるだけ早く軽度のうちに治さなくちゃいけなくて。
その日から、五日も、私は弟の看病に付きっきりになった。
「もう大丈夫じゃない?」三日後には完全に熱も下がっていたから、そう母に言ったけれど、「他の兄弟にうつったらどうすんだい。お飯の食い上げだよ」と取り合って貰えなかった。
そうしてやっと、朝の挨拶ができると思ったのに。
その日の朝、タイに会うことはできなかった。
小麦粉の納品にも来なかった。
そわそわと、知らない顔の製粉工場の人に話しかけた。
「いつもの納品の人と、違うんですね?」
疲れた顔をしたその人は、少し眉を顰めて
「この辺りの納品担当だった奴は、死んだんだ」とそう言った。
その前に担当してた父親も焦燥しててね、とかなんとか。
その人はいろいろ話を続けていたけど、ほとんど覚えていない。
ガクガクする足を何とか動かして、母の下へと歩いていった。
「どうした? 小麦粉の納品に、不備でもあったかい?」
ガチャガチャと、その日に使った道具を洗い清めている母の後ろ姿に、確かめた。
「タイ、死んじゃったの?」
肩が跳ねた気がするけど、ただ大きなボールを洗うのが大変だっただけかもしれない。
「あぁ。そうだよ。葬式は、一昨日だった」
「なんで?!」
「なんでって。事故だって聞いてるよ。工場で、積み荷が崩れたんだって。下敷きになって、助けられた時には、息をしていなかったそうだよ」
淡々と告げられたタイの最後。
「なんで? わたし、お葬式にも呼ばれなかった」
「なんで? お前たちは幼馴染みといっても今となってはただお隣ってだけだろ。幼い頃はともかく、ここ数年、どこに一緒に行ったりもなかったじゃないか」
それは、そうだ。
タイも私も、兄弟の一番上で、下の子の面倒も見なくちゃいけないし、家の仕事の手伝いだってやらなくちゃいけない。
だってもう、13歳なのだから。
10歳を超えたら働く。それが普通で、当然のことだ。
「だって……だって、幼馴染みで。前は、ずっと一緒に遊んでて。毎朝、と。納品の時と。毎日ちゃんと顔を合わせて挨拶してて……」
彼とのつながりを探して、言葉を連ねてみても、母を納得させられるものは何も言えなかった。
母は大げさにため息を吐いた後、食器洗いに戻っていった。
「なんにせよ、恋の種の日の前で良かったじゃないか。あの子はいい子だったけど、お前の運命の相手じゃなかった。それだけさね」
そう言って、じゃぶじゃぶと殊更おおげさに音を立てて、洗い物を続けた。
私は、その言葉に、心の中の、何かが打ち砕かれて、動けなかった。
そうだ。私達の間には、何もない。
あの日の約束だって、タイはその一生涯、ちゃんと守ってくれてたってことだ。
嘘じゃない。破られた訳じゃあない。
ただ、もう約束が、終わってしまった。それだけだ。
ただ、毎朝毎日、視線を交わし、挨拶していたという思い出があるだけ。
それでも私は、いつか彼の手を取るんだと思っていた。
恋の種の日には、お互いの姿を、お互いの肩に見つけて。
ちょっとテレて。笑いあって。
そうして、ずっと一緒にいるんだと。
信じてた。
信じてたのに。
そんな事があっても、毎日やらなくちゃいけないことは、あって。
弟妹達の世話も。パン屋の手伝いも。
朝食は、前の日の売れ残りのパンと野菜のスープ。
店の前を掃いて。
計算を覚えて、店番もするようになった。
夕飯だけは、少しの肉を焼いたり、シチューを作ったりして皆で食べる。
食べ終わったら、後片付けを妹としている間に、弟たちに風呂の準備をさせる監督もした。
風邪を引かないように、髪もきちんと乾かさせたり。
やらなくちゃいけないことは幾らでもあった。
「リリカちゃんは働き者のいい子だねぇ」
そうお客さんに声を掛けられることも増えた。
声を掛けられると、父も母も嬉しそうにお礼を言っていた。
「ホント、助かってるのよ。恋の種の日には是非とも玉の輿に乗って欲しいもんだわ」
軽い誉め言葉に、軽口で答えているだけだと分かっていても、その場で聞いているのが辛くて、褒めてくれた人へただ黙って頭を下げた。
「親と違って謙虚なのもいいねぇ」
違いない! そう笑ってお開きになるのも、いつものことだった。
けれど。
違うのだ。私は別に謙虚な訳でも、働き者な訳でもない。
ただ、やらなくちゃいけないことに集中している間は、そこにタイの姿を探さないで済む。
それだけだった。
それだけなのに。
毎日毎日、あくせく次から次へとやらなくちゃいけない事はあって。
毎日毎日、大した思い入れもなくやっている仕事でも、頭の中の記憶は増えていく。
くだらないことが、頭の中に降り積もっていく。
そうして。大切な何か、タイとの記憶が、またひとつ薄れていく。
そんな二年だった。
いま。
半透明で、私が知ってるよりちょっと小さかったけど、爪の間に粉が入り込んだゴツゴツとしたその手のひらが、私の頬をそっと撫でていく。
『しあわせに、なるんだぞ』
耳にではなく、身体の奥にさざめくように聞こえてきたその声を最後に、その身体は空気に溶けて消えた。
「え? あ。うそ……」
慌てて掴もうとした手は、とっくにどこにもなくて。
首を振って、後ろを振り返り振り返り、愛しい人の、姿を探す。
見つからない。見つけられない焦燥に、胸が軋んだ。
「初めまして」
さっき、私の肩を強引に掴んで振り向かせた声の持ち主が、笑顔でそこに立っていた。
「俺の、運命の相手さん?」
いつの間にか、全然知らない半透明の人が、私の肩の上には、浮いている。
心臓が、どくんと大きく跳ねて。
運命を変える音を立てた。