11.リリカの冒険
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パン屋を営むリリカの家は、まだ暗い内から両親は懸命に働いていた。
だから、弟が産まれる前のリリカは、いつも朝をひとりで迎えていた。
目を覚ますと、ベッド脇に用意されていた前日の売れ残りのパンと冷めたお茶で、ひとり朝食を済ます。
その日も、いつものように固くなっているパンを指でちいさく解し、口の中でふやかしながら食べ終えると、皿とコップを土間まで運ぶ。
「あれ、水瓶のお水が少なくて、手が……届かないぃ」
父が作ってくれた踏み台に乗っても、柄杓の中に水が掬えないほど中の水は少なかった。
「どうしようかな。器にお水掛けておかないとダメって言われてるし。それに顔も洗いたいし」
食べ物を扱っている仕事場には近づかないように言い含められているので、どうすればいいのか聞きに行くのも躊躇われた。
「うーんと。着替えて、広場にいって、お水を貰ってこよう」
広場に行けば共同の水場である井戸がある。
水桶が上から3つ段々になっていて、下に行くほど桶は広くて大きい。上から飲み水、顔や体を洗ったり食器を洗ったりする為の水、野菜の泥を落したり洗濯に使ったりする水と、順に流れ落ちていくようになっていた。
そこへ行って、二段目のお水を汲んで来るだけなら、リリカにもできそうだ。
大きな水瓶をいっぱいにするほどの水を運んでくることは、まだ幼いリリカに出来るとは思えなかったけれど、顔を洗う時に使うちいさなタライを持っていって、そこに入れた水を運んでくることくらいはできる気がした。
何度かボタンを掛け違えて時間は掛かったけれど、ちゃんと着替えもできた。つっかけじゃなくて、足の甲に紐を巻く靴も履いた。
「よし!」
水を持ってきて父と母から褒めて貰う自分を想像して、リリカは胸がどきどきわくわくした。
空っぽのタライを抱えて、家を出る。
スキップすらしながら、リリカはよく知っている広場へ急いだ。
空は既に明るくなり始めていた。見上げた空は、オレンジ色と薄紫色の広がっていた。
その美しい空を、見たことのない綺麗な鳥が空を踊るように飛び交い、高らかに美しい歌声を上げている。
「うわぁ。青い鳥とか、翠の鳥とかいる。初めてみた。赤い鳥もいる。大きい」
たくさんの鳥の鳴き声が重なり合う。鳥たちの声だけではない。美しい楽器の音も聴こえる。それらがまるで聖堂で聴く合唱のように、美しく響き合い、喜びの歌を歌い上げていた。
美しいその歌に導かれるように、リリカは鳥たちの後を追い掛けた。
曲がり角を何度も通って、空を飛ぶ鳥たちを見上げながらひたすら走る。
そうして、そこに、彼がいたのだ。
色とりどりの鳥たちだけでなく、犬や猫、鼠にイタチ、その他にも、たくさんの動物たちに傅かれるようにして立つ、威風堂々とした彼。
楽器の奏でる音だと思ったその美しい音は、彼の声だった。
視線も、足も、呼吸すらできなくなるほど、リリカのすべてが、彼に向かって集中した。
その彼から、まっすぐな強い視線を返されて、リリカの手から、タライが滑り落ちた。
大きな音がして、彼らの歌が止まった。
突然の静寂に、リリカの耳と、心が痛くなる。
こわかった。
こわいほど、きれいで。
足が震える。
「リリカ! こっちだ」
手を掴まれ、後ろに庇われた。
「俺が足止めする。逃げるんだ、リリカ」
「タイ! どうして」
「お前がひとりで家を出ていくから。気になって」
会話している最中も、リリカを庇って両手を広げているタイの身体は、けれどもちいさく震えていた。
「だめ。逃げるなら、タイも一緒じゃないと行かない」
ダダを捏ねて捏ねまくって。絶対に離れないと目の前にあるタイの腕にしがみついた。
「っ。行くぞ。大丈夫だ、俺が守ってやる」
ふたりで手を取り合い、とにかく走って逃げ出した。
強くて怖い視線から逃げる事しか考えず、ただひたすらふたりで走って。
何度も角を曲がって、走って走った。
転んだ。
「もう……むりぃ。走れないよぅ」
起き上がることすらせず泣き言をいうリリカを、タイは文句も言わずに背負ってくれた。
「ごめんね、ごめん。タイ」
本当は、タイにはリリカを置いて逃げて欲しかった。
大して体の大きさの変わらないリリカを背負うのは大変だ。
それでも絶対に、タイはリリカを背負って逃げる事を諦めなかった。
「気にすんな。目を閉じてろ。大丈夫だ。リリカは俺が守る」
息を荒げてリリカを背負って走るタイの肩に、目を閉じて懸命にしがみついた。
そんなタイが、「もう無理だ」と転ぶように膝をついて、リリカを下ろすと地面に寝ころんだ。
リリカもすぐ横で両手をついて荒くなった息を整えようと目を閉じた。
ふたり共、目を開けることすらできずに無言の時間が続いた。
その時、リリカは自分がタライを持っていないことに気が付いた。
自分がひとりで水を汲みに行けるなんて考えたばっかりに、タイまで巻き込んでしまった。悔やんでも悔やみきれない。
だいぶ遠くまで逃げてきたとは思うけれど、あの白い大きな犬に今も睨まれているようで身体がぶるりと震えた。
どれくらい経った頃だろう。ようやく息も整ってきたところだった。
突然、人のざわめきがふたりの耳に入ってくるようになって、目を開ける。
「おやまぁ、そこで寝っ転がってるのは、リリカとタイじゃないか。どうしたんだ。こんなところで寝転んでしまっては駄目だよ。親御さん達はどこにいるんだ。そのタライに、水でも汲みに来て疲れてしまったのかい?」
矢継ぎ早に、見知った声に問い掛けられて目を白黒させた。
「タライ? あ」
リリカのすぐ横に、落して来たはずのタライが置いてあった。
「大丈夫かい、あぁ、怪我をしている訳ではなさそうだね。こんな早朝に、どうしたんだ」
司祭さまに手を貸して貰って立ち上がる。
辺りを見回せば、そこは聖堂の目の前だった。
すぐ横には、リリカの最初の目的地、水場のある広場がある。
空を見上げれば、まだ空には朝焼けのオレンジ色が残っていた。
「お水を汲みに家を出たの……そしたら、お空に綺麗な鳥がいっぱい飛んでいて。追い掛けていったら、そこに、猫と鼠と……大きな白い、犬がいて……それで、逃げてきて」
思い出せることを、ひとつひとつ上げていく。
けれど、言葉にした軽さにリカは違和感だらけで落ち着かなくなった。横にいるタイが黙ったままなのも気になって、更に落ち着かない。
なにか言ってくれればいいのにと思いながら、服で何度も掌の汗をぬぐった。
「あはは。朝早くからおつかいを頼まれて、寝ぼけて夢でも見たのかい。さぁさぁ、水を汲む手伝いをしてあげよう。まだ子供が出歩くには早い。風邪を引かないうちにお帰り」