10.銀狼の夜
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初めて迎えいれられた異国の王城で、面と向かって言われた「バケモノ」という言葉にショックを受け、ひとり客室で眠れぬ体をベッドの中でもてあましていた夜。
長旅で疲れた身体が眠気を訴え、うとうととしてくる度に、あの侍女の言葉や最初の出迎えの際の視線を思い出してしまって眠ることができなかった。
心に、何度も冷めたい水を掛けられているようだった。
諦めて、ベッドを抜け出し窓辺へ近づく。
鍵が掛けられているかと思ったバルコニーへ出れる窓は、しかしあっさりと開くことができた。
窓の下に広がる庭園には、まだ灯りが点されていた。要所要所に衛兵が立っている。きっと夜通しこの王城の平和を守っているのだろう。
「本当に、頭の上に耳も無ければ、尻尾もないんだなぁ」
話には聞いていたし、本でも読んで知識としては持っていた。
けれど、実際に目にしてみると違和感がすごい。
「たぶんきっと、今の僕が感じてる違和感と同じようなものを、あの侍女さんも感じたんだろうな。うーん、でもなぁ」
ルマティカでは他国の人間の姿形について教えられているが、この国ではそういった教育はしていないのだろうか。
遍く大陸全土を包み込んでいる聖獣の加護。それがあるのは、聖獣の血を引くルマティカの民がいるからだ。
これは厳然たる事実でしかない。
『聖獣の加護など眉唾だ』
かつて、2年に一度のルマティカ王の訪国を厭いルマティカとの国交を断った国は、あっという間に人が住むには厳しい環境に陥った。
民草の流出は止められず、国交断絶を支持した貴族たちすら亡命しようと足掻いたが、近隣諸国は国が加護を喪うことを恐れて一切の援助を断った。
聖獣の加護を喪う恐ろしさを目の当たりにした彼の国は、ルマティカとの国交の断絶を宣言し、聖獣の加護に対する不敬な発言をした旧王族たちを廃すると、ルマティカへの恭順を示した。
ルマティカ側はそれを拒絶することもせず鷹揚に受け入れた。
そうして、5年振りに王の訪問を受け入れた彼の国では、涸れた水源に水が湧き、大地が芽吹いたと記録されている。
だから、この大陸で聖獣の加護について軽く考えているものなどいるはずもないとルキウスは考えていたのだが。
王城で働いているならば、それなりに教育を受けているはずの侍女の態度があれでは、教育の不足ではないかと気になった。
丸い月が浮かぶ夜空を見上げる。
星が浮かぶ角度は微妙に違う気もするが、それでも同じ夜の空がそこには広がっていた。
「同じ世界で生きてるのだから。お互いを理解し合って、受け入れ合えたらいいのに」
この旅に誘われた時の、興奮はきっとそれだ。
ルキウスには、世界は広いものだという知識は持っていても実感は持っていない。
目で見て匂いや植生を知り、そこに住む人々と交流すればきっと文字の上で知っているだけとは違う、実感としての世界の広さが知れるはず。
──会いに、いきたい。
広がった世界で待つ見知らぬ誰かが待っている気がして、ルキウスは夜の月へと手を伸ばした。
視界の先で、きらきらときらめく白銀色の光が生まれていく。
吸い込まれるように、見つめていると、何故だか自分の視界が広くなった気がした。
いや、視界は低くなっていた。確実に。
けれど何故か前後左右上も下も。すべてにあるモノを把握できる。
驚いて、一歩足を踏み出した。
身体が軽い。軽すぎて、客室のある2階のバルコニーから飛び出してしまった。
なんで、と声を上げようとして、そういう意味で声が出せなくなっている事に気が付いた。
「オォーーーン」
ルキウスの咽喉からは高らかな遠吠えが発せられていた。
空を駆けるように、夜空を舞い、ひと息に王城を取り囲む高い塀を飛び越える。
見上げるように高い樹々も、王城を巡らす高い城壁も、見慣れない青い屋根も。
どこまでも軽く、風より早く駆ける足。
高らかに「自分はここにいる」と上げる声は、遠吠えに。
この思いはどこまで届くのだろう。
馬車の窓からは見ることが叶わなかった異国の王都の街並みが、眼前に、眼下に広がる。
ひと足着地して、再び前へと駆けるだけで、目の前の景色が飛んでいく。
どんどん変わる景色。見えないものなど何もない気がしてくる。
見える筈のない、家の中の団欒も。この都で暮らす人々の笑顔も笑う声も。
嘆き悲しむ声すらも。全部。
たくさんの何か。素敵で楽しくて苦くて悲しくて。言葉にならない尊いもので、ルキウスの中がいっぱいになっていく。
天翔ける聖獣そのもののように夜の街を駆け、この地に生まれた喜びを怒りを哀しみを楽しさをルキウスは高らかに歌い上げた。
気が付けば呼び掛けに応えた沢山の野生の生き物たちが集い従い、ルキウスと会えた喜びを歌っていた。




