西の塔のサロンにて
「ま、こんな日もあるわね」
乗合馬車に揺られながら、ジジはつぶやく。
「ええ、むしろあの局面でさっさと自分だけ引き上げるようなジジだったら、少し軽蔑しますわ」
「でもあとで御父上には怒られますよぉ、ご愁傷様です」
「怒られるだろうけど、父上様もきっと褒めてくださるわね」
「私もそう思いますよ」
あの後、ウォルトに急ぎ乗船口を見てきてもらったが、やはり既に船は離岸していた。
そうなったらもう、成すすべはないのである。
しかし、おいそれと城には帰れない。
厳しい家臣の中には、ジゼルのお忍び趣味を良く思わず、表立って下品だ、王族に相応しくない、と言うものさえいるのだ。
そのため一行はある場所へ向かっている。
「西の塔のサロン」、ジゼル専用の別邸である。
10歳になった年に父におねだりした代物で、残念ながらそれは西にもなく、塔でもなく、サロンでもない。ついでに言えばこの場所のことはごく一部の人間しか知らない。
魔法石の鉱脈を守る森、城壁で囲まれたその森の深部には大きな工房村があり、魔法石工作はここで一手に請け負い、その技術は門外不出となっている。
その村のさらに奥、小さな泉のほとりに、小さな洋館「西の塔のサロン」はある。
小さな、と言っても同時に4.5人住むくらいの部屋数はあり、地下室まで備えている立派なものだ。
森を囲む城壁近くで馬車を降り、人の目に付かぬようしばらく城壁に沿って歩く。
城壁に備えられた古びた小さな鉄の扉を持っていた鍵で開けると、木々の中に小さな小道が続いている。ジゼルはこの道を通ってしばしばお忍びに出るが、サリー、ウォルトにとってはずいぶん久しぶりであった。いつもは街のどこかで待ち合わせて行動するのだ。
小道の先のその洋館は、生成りの壁に飴色の屋根瓦を乗せ、木製の窓枠周りを蔦が這い装飾した、闇にうっすらと浮かび上がる素朴だが美しい屋敷だった。
「さあ、着いたわよ。楽にしてね」
「ありがとうございます、姫様。…ずいぶん見ないうちに、進化しましたね…」
「そうでしょ?なかなか快適よ」
「見る人が見たら本当に怒られるだけじゃすまないですよ」
「なによ、あの豪華客船だって似たようなものでしょ」
灯りをともしウォルト、サリーがダイニングテーブルに座ると、ジゼルはお茶を淹れる準備をする。
キッチンの天板にある水滴マークにやかんを置くと、やかんの中に水が満ちる。それを炎マークの上に置けば、そこがコンロのように熱を持ち、湯を沸かし始める。
熱に耐えるため、天板は特殊な鉱石で出来ている。
それぞれのマークの中には魔法石が埋め込まれており、魔法を使った調理を行える。
「少し来てなかったから、軽く掃除が必要ね」
壁に取り付けられた小さな鳥小屋を開けると、中から羽毛の束がふわりと飛び出し、素早く回転しながら床や戸棚を掃除し始める。館中の灯りも魔法石の発光によるもので、新鮮な空気が常に循環している。
この館は、ジゼルによる魔法工作の実験場であり、開発室である。
10歳のころに作ってもらったのは普通の洋館だったが、そこからジゼルが工房村の若手、フィンを巻き込んで魔改造を始めた。
アスタリス王国では魔法を己の益のために発展させることを良しとせず、自分の生活を楽にする目的で使用するなどもっての外であった。
「魔法の力に慢心してはならぬ、魔法の力に頼り切りでは国が堕落する」がその理論である。
ジゼルは家臣から厳しく咎められ、この館は取り壊された。―――ことに、なっている。
実際は、取り壊したことにして屋敷の敷地周辺に隠蔽結界を張り、こうして存続しているのだ。
それからはジゼルはこの洋館の存在を隠すために「西の塔のサロン」と隠語で呼び、転移魔法を使って城内と行き来できるようにしているのであった。
城内の転移先は、ジゼルの部屋の書斎のさらに奥の隠し部屋である。
ちなみに隠蔽結界は、国中で国宝の保管庫および魔法石鉱脈の隠蔽保護にしか用いられておらず、転移魔法は国内の異変時に使用される、国王の手元(文字通り手元に突然手紙が現れる)直行の超緊急時速達郵便にしか使用されていない。
ジゼルの使い方は、国のお偉方からすると「不敬すぎて逆に思い付きもしない」アヴァンギャルドなものだった。
お茶を淹れ二人に出すと、ジゼルは再びキッチンに向かいながら話し始める。
「晩御飯も作っちゃうわね、簡単なシチューだけど。しかし、これから数日暇になったわねえ」
キッチン上部に備え付けられた戸棚を開け、『人参・ジャガイモ・玉ねぎ・鶏肉』とつぶやくと、それらの材料がふわりと出てくる。
引き出しの中の指輪(「お料理ツール指輪」とジゼルは呼んでいる)を人差し指に嵌め、浮遊させた状態でジゼルが切りたい方向に人差し指を空中で行き来させ、『カット』とデコピンの動作をすると、材料は綺麗に切れる。
玉ねぎのスライスは面倒だ。玉ねぎの繊維に沿って何回も人差し指を動かさなくてはいけない。
「船内はミリーがうまくやってくれるでしょう、船酔いがどうとか言って。問題は下船ですわ」
「そうね、乗船のときもそうだけど、王族が一番先に降りるのよね。出航ほどでないにしても、人も集まるでしょうし。私だけいなくて訝しがられるかも」
「船酔いと言って別行動、でもよろしいですけれど、そこはミリーと上手く辻褄を合わせた行動をしませんとね。」
「まあいいわ、そこはあとで相談しましょう」
まるで船上のミリーと相談ができるかのような言いぶりである。
水を張った鍋に具材を淹れ、火魔法にかける。ホワイトソースは戸棚の中に材料があったのでそれを使って手早く作る。ちなみに、この戸棚の中では時間が進まないため食物は傷まない。
「ウォルト、二階の部屋を見てきてちょうだい。使う部屋は私の寝室と、あなたたちは2の部屋と3の部屋を使って。それぞれ部屋の鳥小屋を開ければ掃除魔法がほこりを払ってくれるし、窓も開けてくれるわ。あ、でも空気は清浄にしてあるから多分カビの心配はないわよ、一応チェックして。クローゼットにリネンがあるから、ベッドメイクは各自で」
「承知しました。行ってきます」
これから数日、三人は人目につかずに過ごす必要がある。
転移魔法もあるのだし、こっそり城に帰ればよいという話ではない。
多くの貴族をはじめとする国の要人たちが航海に出ているのは確かだが、それでは政務が滞る可能性がある。お留守番組もいるのだ。
彼らの前にジゼルがひょっこり顔を出すなど、怒ってくださいと言っているようなものである。
夕飯を摂り、順番に入浴を済ませると、さすがの三人にも疲れが出てきた。
今日は本当に、色々なことがあったのだ。
全力のおめかし、世界一の客船のお披露目、港町の散策。新たな命の誕生、そして置き去り…
「本当に、今日の出来事の話題だけで今シーズンの社交界を乗り切れそうだわ」
「やめてください、陛下に怒られますよ」
それでも充実していた。お金を払ったって得られない、貴重な時間だった。
これからのことは明日考えれば良い、三人は心地よい眠りについたのだった。