月の見えない夜
初めまして。こんばんは。
夜の物語です。
「少年、こんな時間に何をしているのかね」
その声はなんとなく見慣れなくなった夜の公園を歩いていた時後ろから刃物のように僕の背を刺した。
それは鈴のように奇麗で銀のように冷たい声だった。
だからこそ声を聴いてぞっとするような思いを味わった、
これはきっと人間の声ではないと思ったからだ。
人間の眼から逃れた化け物、怪異、不可思議、それだと僕は思った。
「……最近の若者は夜に強くなったと聞いていたが……そうでもないようだな?」
そう言いながらからからと軽く笑う声が聞こえたころにやっと僕の体の緊張は解けたのだった。
多分、今の僕にとってはこの声の持ち主は敵ではないと思ったのだと思う。
この判断は直観的で、本能的で、感情的な判断だった。
そしてやっと動くようになった体の向きを変え声の方向を向いた。
そこにはダイヤを糸状にしたのかと思ってしまうほどに輝く白い髪を持った女性が立っていた。
彼女の顔はそのダイヤの髪に負けないほどの笑みを浮かべていた。
思わず見惚れてしまった。だがそれは月や芸術品を見る時の感嘆にも近い喝采だった。
僕は彼女の顔を見ていられなくなり、顔をそらした。
「おっと初心なところも話と違うな。現代の情報屋も役に立たんな。そう怯えんでもいい。なに、とって食おうというわけじゃないんだから」
「お姉さんこそこんなくらい時間にこんなところにいていいんですか。ここ、そんなに治安いいとは聞きませんよ」
悪いとも聞かないが。
だがこの言葉は本心でもあった。
こんなにも美しい人が夜中のこんな場所にいるなんて警備員のいない博物館のようなものだ。
奇麗な絵画をだれもが大事にするとは思えなかった。
「お姉さんという言葉はなんとも使い勝手がいいものよな。少年が本心で私のことをそう言ったかどうかはおいておいてそうは思わないか。目に見えた老人以外はこの言葉を言われて嫌悪感を覚える人間はいない」
「でも嫌がる人だっているでしょ。お世辞にしか聞こえない人とか」
本心だということを伝えたかったが、彼女がそのことについて気にせずに話を進めようとしているのを見てそれを伝えずに喉元で消化した。彼女の容姿を褒めたところで彼女の心を動かすことはないと思えたし。
彼女の言葉を聞いて、僕はそれは違うと思った。
だってお世辞を良しとしない人だっているじゃないか。
「……例えば少年のような?」
「何で僕って話になるんですか」
当たりだ。
僕自身がなんとなくお世辞が嫌なものだと思っているからこんなことを言ったのだと思う。
だけど僕の中の傲慢とでもいうべきところがそれを認めることを良しとしない。
だからこそ明らかに図星をつかれたと顔に書くように不機嫌そうな顔でそう言ってしまったのだ。
僕は怒られるだろうかと最初思った。
それとも嫌な奴だと思われてしまうのだろうか。
だがそれらも初対面の人間にそんな仕打ちをした僕の自業自得なんだろうなと思ってしまった。
「はは、少年。少年というのはソレだからだ。お世辞を受け入れられない。それこそが君たちの持つ若さの一つだよ」
「それじゃあ大人は受け入れられるんですか」
「受け入れるんじゃない。気にもしないのさ。人ってのはそんなにほかの人間に興味を持たない。どんな称賛の言葉でも自分にとって大切な人に言われなければそれは届かない。あくびしたら忘れるようなたやすいものさ。悪口は別だけどね」
「だったらお世辞って何なんですか」
「ところで君、シートベルトは付けるかい?」
「は……ええ、付けますが」
「事故にあう確率なんてたかが知れてないかい?」
「でももしもの時に死んだら嫌じゃないですか」
「そうソレさ。そりゃあ何も言わずに用件だけ済ませてもいいさ。自分の思った通りに呼ぶのもいいさ。思ったことを何の遠慮もなく話せばいいさ。でももしもそれで相手が不快感を覚えたら? 少年、どうなると思う」
「無礼な人間として認識される」
「ノン。ここで重要なことは君は君一人で生きているわけじゃないということだ。君が一生の友達との出会いを棒に振ろうが、一生の伴侶と険悪になろうとそれは君の自業自得だ。だけどその人の友人を見ればその人の人柄ぎ見れるなんて言葉があるくらいには、君の友人は見られているんだよ。君という色眼鏡でね。これは自業自得かい?」
その言葉に僕友達がいないんですと答えられればどんなに良いことかと思ったが、残念ながらこんな偏屈な僕にも友達はいる。
気のいい奴が。
「しかも仕事になったらもっと悲惨じゃないか?」
「会社が見られる」
「聡い子だ。それで……君はメディアを風刺する絵で被害者と加害者が逆転するやつを見たことは?」
「あります」
あの絵を見て時は日ごろ不快感を覚えていたメディアがよくあらわされている気がして笑った記憶がある。
メディアの切り取られた情報を皮肉る絵だ。
「それと一緒だ。君にどんな信念があろうと、君にどんな理由があろうと、取引先や客に届けられるのは君の無礼ともとられるかもしれない写真だ。そしてそれを見た人がなぜこの人はこんなことをしているんだろうと聞きに来てくれるわけでもない」
「結局のところそうするべきというものですか」
「そうだとも。そうするべきというもので動くとつまらないが、損することを少なくできる」
「人間って面倒……ですね」
「面倒だ。だが人間という生き物は群れなければ生きていけない。人間という言葉に現れているようにね」
「人間?」
「人の間と書いて人間と読む。この字は元々人の世だとか人の社会のこと自体を表す言葉だった。それが今では転じて人という生き物を現すようになった」
どこかぼんやりと聞いたことのあるような話だった。
そして僕はこの話を聞いてやはり面倒という気持ち、そしてその群れが人間と呼ぶのならば自分がそれに入っていけるのだろうかという将来への不安。
「ハハハ、そんな暗い顔をするな。確かに出る杭は打たれる。これは生物というものの性質上仕方がない。だが君はまだそこまで出てない」
「……それって特異なことのない平凡な男ということでは」
「そう。なにか悪いことでも」
彼女はそう言った。
だが僕には、何かになることにあこがれている僕には、それは明らかに侮辱としか思えない。
隠せない不快感が顔に現れる。
無礼と思うがこの湧き上がる感情を僕は内に抑えておくことはできなかった。
「だが……足が疲れてきた。これ以上話すならば座るとしようか。時に少年、深夜を徘徊しているような不良少年な君には無用な問いかもしれないが君は時間大丈夫かい? きれいなお姉さんと無意味で無価値かもしれない話をするよりも、家に帰って英単語の一つでも覚えた方が人生に有益かもしれないぜ」
「帰るべきってことですか」
「そう。君がこの夜更かしを原因で学校で落ちこぼれになろうが私には関係ない。だから選ぶのは君だ。そして一般的には帰って勉強するべきってとこかな」
それを言われると何も言えなかった。
僕たち学生が耳鳴りになるほど言われる言葉だ。
耳が痛いという気持ちと同時にそれに反抗したいという思春期だからなのかわからぬ天邪鬼が顔を出してきた。
僕は天邪鬼のせいか、それとも本心からかわからないが僕は彼女の話を聞いていたかった。
「でも」
「でも?」
「べきで行動していたら楽しくない、ですよね」
「よろしい。夜の住人が相手をしてあげよう。さて、童心にかえってブランコにでも座ろうじゃないか」
食虫植物を思わせる笑みを浮かべた彼女に僕はその笑みを見て谷底に落とされるようなヴィジョンを見た。
だがそれは彼女に話しかけられることによってそれは霧のように消えてしまった。
僕はこのまま走って逃げてしまえと胸の奥の本能とでもいえる欲求が言うのを微笑みながら無視をした。
人間は平穏を望むのと同時に非日常を望んでいるのだと実体験をもって思い知った。
「さて、君恵まれた人間とは何だろうね」
「天才」
僕は即答すると同時にクラスにいる学力のいい男を思い出した。
テストにより勉強に追われているときなど彼のその脳みその性能をうらやんだものだ。
彼にと僕の点数の差は必ず才能の有無という不平等を教えてくれた。
「それは学力? それとも話していて知性でも感じたのかい。それとも技術的な意味の天才かな」
「学力です。彼らはきっといい大学に行くのでしょう。そして僕が応募することすらできない会社で働くのでしょう」
「ははは! 君は卑屈だねぇ。それじゃあ……学力の天才の話をしようか。君は彼が努力していないと思っている?」
「いえ、きっと彼らも努力しているんでしょう。でも巨人と蟻かけっこしたところで歩幅が違いすぎて勝つことはおろか、踏みつぶされるかもしれない。蟻は彼らを避けることで精神の平穏を得るのですしかないのでしょう」
「ウソップ寓話を知らないかい?」
「知ってます。ですが結局のところ勝てないのが現実でしょう」
「まぁ事実だね」
結局のところ凡人がいくら努力しようと彼らに勝つことは難しい。
いくら努力しようと、いくら彼らが怠けようと、凡人と天才を分けるくさびというものがあると僕は思っている。
それは最後の一歩なんだと思う。
カメがいくら頑張ろうと、ウサギがいくら寝ようと、ゴールテープをカメが破ることが出来ないならばそれは結局うさぎが勝つのだ。
これは僕の持論だ。
かのエジソンも言っていたではないか。
「君は良い学生だね」
「は」
学校が馬鹿らしくなり、さぼりがちになった学生が。そして深夜の公園を徘徊しているような僕がなぜいい学生なりうるのだろうか。
僕の呆けた顔を見て彼女は笑った。
顔を見て笑うという行為にムッと沸き上がる感情があるがそれは無用の長物だと感じた。
そこに僕を馬鹿にするという気持ちは見えず、全く僕の顔が面白くて笑ったという風であったからだ。
「いや? まぎれもなく君は良い学生だとも。君は学校という機関での評価、結果がその知性足りうると思っているのだから。愚図でも結果を出せる。それこそが学校の本質じゃないか」
「何を、言っているんですか。それなら世間で評価されるわけが」
「いいかい?」
彼女は僕の言葉を断ち切って話し出した。
それは僕の話を聞いていないというよりも幼子に言い聞かせるように話すようだった。
「結局のところ学校なんて機関要らないものさ。そうさなぁアルケミストという馬鹿どもを?」
「オカルトですか」
アルケミスト。錬金術師。
錬金術というのは非金属から貴金属を作り出すということを目的とするオカルトだ。
その結果今の科学が進展したというのもあるのだが、彼らが活動した時代では全くの伝説でしかなくそしてその目的も成しえなかった狂人たち。
「あのバカどもは変人、狂人そんな呼ばれ方をしていたか。でも奴らは自分の持っていた欲望に従いその道を走った」
「でもそこにゴールテープすらなかったじゃないですか」
「いや……あー……まぁそうだな。奴らは金、好奇心、いろいろなものに従っていた。それは誰に言われたわけでもない」
「アルケミスト達に知性があると?」
「あやつらは探究者だぞ? あ奴らがどれだけ俗だろうと彼らには知性がある。うーん……知性とは何だと思う、少年」
「知識の集合体?」
知識人とは知識を多く持っている人間ではないのだろうか。
知識が積もりに積もって山になったものから源泉のように洗練された情報、新しい知識が湧き出るものだと僕は思っている。
故に知識は宝のように価値のあるものではないのか。
「それはあくまで結果だ。掛け算すらわからぬ者でも知識人足りうる」
「知識人と言えるのでしょうか」
それはポロリと口から出た言葉だった。
無知であっても知識人足りうるという彼女の言葉は僕にとってとても理解のできない言葉でありそれはいくら自信の化身である彼女の口から出た言葉であっても口を出さずにいられないことだった。
彼女は僕の言葉を聞くと馬鹿にするように歯を見せて笑った。
知識人というよりも全知全能のように笑いこちらを見ている彼女はどこか現実離れしていて僕は彼女が本当に目の前に存在しているのかさえ不安になった。
「砂山のパラドックスを? ハゲのほうでもいいぞ?」
「どれほどの知識を得ると知識人になれるかわからないから知識の量を知性とは出来ないということですか」
「なーんだ。つまらないじゃないか。こういう時はわからないふりをするかそこまで思い至らないふりをして話を聞くものだぞ」
そんな風に不機嫌な顔をするものだから僕は神のようにふるまう彼女の鼻を明かした気分になり思わず笑いがこぼれ出た。
だが砂山のパラドックスについては知っていたし、それから彼女の言いたいことを予測することは容易だった。
砂山のパラドックス。
砂山から砂一粒を取り出しても砂山は砂山足りうる。
そこからもう一粒、もう一粒と続けていき最後の一粒になってもそれは砂山足りうるのかというものだ。
「まぁ君も頭は悪くないらしい。そうだとも、そんなものを知性とするなら明確な知識人なんていなくなるじゃないか。奴らは大昔、学校すら存在しない時代から存在してきた。誰も頼んでいないというのに地を踏破し、闇を照らし、見渡す限りの未知を駆逐してきた」
何の皮肉だ。
目の前でそれを言うのはすべてを理解しているような見た目麗しい女性。
その前にいる僕は社会的な評価として高くもない点数を付けられる不良。
そんな僕に頭は悪くない。何の冗談なのかと言いたくなる。
「聞いてるかい? 劣等感を刺激したのは謝るが話は聞くものだぞ。さて、アイツらはなぜそんなにも、人によっては人生をかけて未知に挑んだのだろうか。現実には知らない方が楽しく生活を送れることなんてたくさんある。だが彼らは止まらなかった。なぜ?」
「……わかりません」
「ほら山登りがよく言うじゃないか」
「そこに山があるから」
「素晴らしい。かつての未踏の地エベレストも火薬という発明も、明日の天候もすべて全くの同じなのだよ。彼らはそれを認識し、それへ向かわずにいられなかった」
「無知の知」
「それこそ知識の集合体じゃないか。知識によって世界の解像度が上がって未知が目立つんじゃないか。それに人間には不思議に思ってもそれを放っておく人間もいる」
「じゃあ……知識欲?」
「そうだね。結局のところそれを求める欲求こそが人間を何かに変化させるんじゃないかな。それに追従する動機がどれだけ俗なものでも、ね」
「知識欲って何なんでしょうか」
好奇心とは彼女は言わなかった。
ならば厳密には違うから言わなかったのだろう。
知識欲と好奇心とはどこか一緒のものだと僕は思っていた。
僕は何かを知ろうとすることはあまりなかった。
勉強に興味はなく、何もせず遊んで生きてきた。
好奇心、知識欲、そんなものとは無縁で生きてきた。
だから、わからないのだろうか。
「そうだねぇ。君はいつもと違う道から帰ったことは? 新発売のお菓子をつい買ったことは?」
「ありますが」
「それに似ている」
「それは、好奇心と何が違うのでしょう」
「……私はね。繰り返し言うけど私は、好奇心は猫を殺すなんて言葉があるけれどその言葉に何も心が動かされないことだと思う。果てにその魂から湧き上がるその欲求のためにその命を使い潰したとしても彼らは涙一つ流さない。そんなイカれた欲求だと私は思うんだ」
「それは……狂気というのでは」
彼女の語る知識欲というものはとても正気の保っている人間が持ちうるものとは到底思えなかった。
それは欲求というよりも、狂気なのではないか。
「そう、狂気。頭がおかしいのだよ。だがその嗤うべき狂人たちのおかげでこの世界はたいそう面白くなった。だろ?」
彼女は妖艶なる笑みで僕を見た。
その顔はそれを疑っていないような顔で僕に共感を問う。
僕は残念ながらその問いに同意することはできない。
「……残念ながら共感はしてくれないようだ。この世界ほど面白いものはないとは思わないと思うのだがねぇ」
「昔の未知にあふれていたころのほうが僕は楽しかったように思えます」
「あの頃なんて微妙な時代だと思うけどねぇ。それこそネットで小説でも読んでいた方が楽しいくらいさ」
「確かに娯楽は多くなりました。でも……なんというか今の世は、息苦しい。そう感じるんです」
「それはただ君が疲れているだけじゃないのか。それとも君あれかい? 犯罪だったりとか命がけの闘争こそが生きる道とかいうタイプの人間かい?」
「……わかりません」
「そうだねぇ……命を懸けて、殺し殺され死んで死なせるそんな世界は病的だ。けれどそんなところでしか生きられない病的な人間も確かに存在する。君はソレかい?」
「確かに……確かにそこまで言われると自分が隣の芝生を見ていたとわかります。ですがそれがわかったからこそ僕はこの胸にある息苦しいと嘆く気持ちがなんとなくですがわかりました。それはここまで形成された社会が僕にとっては一種の病的なものに見えるんだと思います」
「なるほど、君そういうタイプか。じゃあこんな面白くない話は置いといて別の話をしよう」
面白くないとは何事かと思い眉間にしわが寄るが彼女はそんなことは眼にも入らないとばかりに話し始めた。
振り回されてばかりだが彼女の話は僕にとってどこか良い影響を与えている気がした。
気がするだけかもしれないが。
「君この世界に自分があっていないと感じているだろう」
「……それ侮辱と取っていいんですか」
「いやいや馬鹿になんてしていないとも。それに私も世界からつまはじきにされた者だからね。これに感情はこもっておらずただの確認のための質問だとも」
「…………はい。うまく生きれません。みんなやっていることが、知っていることが、耐えられることが、できません。僕はきっと出来損ないなんでしょう」
絞り出すように声を出す。
出来ることならこんなこと言いたくない。
薄っぺらいプライドが喉を絞める、けれど僕はこれを言いたい。
彼女の言葉に正直に答えたい。
だがその決死の覚悟も彼女には強すぎる力みであり、からからと笑われる。
「ははは、君。また陰気臭い顔になってるよ。私に言われるなんてよっぽどだぞ。安心するといい少年。意外と君は出来損ないだ」
「……」
叩きのめされる。
わかっていたことだが、それだけに改めて言われると痛いなんてもんじゃない。
「だが出来損ないほど数のいる者はいない。だから孤独などというものとは無縁かもしれないぞ?」
「でも」
「出来損ないなことが受け入れられないなんて言うなよ? 出来そこなった程度で」
「何で、そこまで言うんですか」
「別に君になにかされたわけでも、君の言動が気に障ったからとかじゃない。私はね少年。私が事実だと思っていることを、ただ当たり前に事実を言うように君に言っただけなんだ。私のことを恨むか嫌うなら好きにするといい。思ったことを何の遠慮もなくそのまま口に出すことの危険性を知って一つ大人になりながら私を口汚く罵るといい」
彼女の言葉からは不思議なことに何の感情も僕は感じることが出来なかった。
悲しみ、愉悦、怒り、焦り、なにもかも。
彼女は僕に自己紹介するかのように何も感情も入れず事実を言ったのだろうと僕は思った。
礼儀を教えるためにこの話をしたのだと彼女が言うならば僕は何の疑問も持たずに彼女にお礼の言葉を言っていたことだろう。
だが僕にはわかってしまった。
彼女が僕に話したことはすべて事実であり、彼女は思うがままに話しただけなのだと。
彼女の言葉には、なにも込められていない。感情も、意味も、理由も。
「貴女は……人間ですか」
「ほう、勘がいいな少年。私は化け物だ。どうだ、通りで話が通じぬはずだと思ったか?」
「いえ納得しました。やはりあなたの話すことは正しいと思います。化け物だから人間のことがわかるんでしょう」
彼女は僕の言葉を聞いて歯をむき出しにして笑った。
犬歯が異常なほど大きく発達していてそこに抜き身の日本刀のような身の危険を感じた。
背筋のぞっとするような笑みに僕は何かを覚えた。
恐怖か、興奮か、感嘆か、わからない。
兵器を見た時の冷たい光でも、美女を見た時の頬の熱さでも、完成された芸術を見た時のため息でも、ない。
目の離せない、その一瞬は瞬きを拒んだ一瞬。
この一瞬を僕は忘れることはないだろう。
「ヴァンパイア」
「ほう、ドラキュラのほうではないのか。これも世代かな」
「ドラクルはヴラド公のことじゃないですか」
「惜しい、あ奴はドラクレアよ。さて今度は何を話そうか」
彼女はその奇麗すぎるほどの眼球をこちらへと向けてそう言った。
きっとこの言葉は裏がある。
こちらを見定める竜のようなそんな意図が。
前門の虎後門の狼という言葉があるが、実際に大きすぎる脅威にさらされるとわかる。
狼はいらない、下がる事のみ無意味さ、それがわかる。
故に前門の虎を視認した時点でその者の道は前に進むしかなくなるのだ。
「死、について」
「思春期らしくていいじゃないか。でもそうさなぁ……あいにく私は死んだことがない。アンデッドだから死んだようなものだと思う者もいるがそれは違う。我々は生きている。故に死を知ったものとしての話はできないぞ?」
「わかっています。僕が言いたいのは、自殺の是非でもあるのですから」
「ほう」
僕は一回だけ死のうと思ったことがある。
それは本気で、どうしようもなく衝動的で簡単に失敗した。
なんてことはない、ただ難しかったから、そんなつまらない理由で失敗した自殺が。
だからこそ僕は聞いてみたかったのだ。
目の前の化け物を自称する何者かに。
死とは何ぞや、自殺とはゆるされざるのかと。
彼女は数秒考えこんだ。
そしてまたいつものように自信と蠱惑に満ちた笑みで話し始める。
「そうさなぁ。少年、君死んだことは」
「……それって」
「君の思い描いている意味で会っていると思うぜ。僕はそこが聞きたいんだ」
「はい」
魂の芯が折れたこと。
それを僕は思考するうえで死と表現した。
動く死体のようになってしまった。
それがそのあとの感想だったからだ。体が動こうと、心の臓が鼓動を刻んでいても僕はあの時死んでいたのだ。
そうとしか思えないから。
「厄介なことになっているねぇ。そこだけは私もこの現代に生きる若者たちに同情してもいいくらいだ。さて死か。これはきっとねぇ君たち人間よりも私たちのほうが知っている概念だ」
「長命なのに、ですか」
すると彼女は静止していたブランコをこぎ始め速度を上げていく。
それを見て何をするつもりかとみていると彼女はこの学生のする遊びのようにそのままブランコからジャンプした。
そしてそのまま僕の前に立つ。
目の前から彼女に見下ろされる。
「だからこそだとも。短命種はその時間の少なさゆえに明日を健全に、楽しく生きるためにそのすぐそばにいる死という概念から目をそらす。それは生まれた時から双子のようにその命について回るものだというのにそれを知らぬ存ぜぬそんなものは存在しないというように生きる。私たちのような化け物はもはやそれも出来ぬ。故に考えるしかない」
「……自殺」
平和になってしまった世界で死なぬものが唯一死ぬことが出来るさいごの手段。
彼らにも敵はいるのだろう。
だがそれらの天敵に負けないからこそ彼らは生き残っている。
死に損なっている。
生きるか死ぬかを選択できるからこその苦悩。
「そうか、少年君はそちら側か。私はこうしていまだに生きている。だがこの今という場所に来るまでに多くの、多くの死を見てきた。仲間の死というのはそれこそ己の死という者とは少しばかり性質が違う。わかるか」
首を振った。
幸いにもいまだに知り合いの命が散るのを見送ったことはなかった。
ペットすら飼っていなかった。
死というものを見るのはいつも紙の上だった。
だがその死を見て至極恐ろしいと感じてきた。
「もう二度と会えない。単純に言うのならばそれだ。もう二度と会うことのないというのは聞くだけではそれこそ生きる上での別れというのはそれじゃないかと思うだろうがそうではないのだ。可能性がひとかけらもなく、どれだけ生きようとその者と笑うことのできない、話す事すら出来ない。それが他者の死だ」
どれだけ生きようと、というのは彼女自身の生きてきた時間を自分で皮肉っているのだろうか。
泣きそうな、自らを嗤いだしそうな、彼女はそんな顔で星を見ている。
自分の死は考えることはあっても他者の死というのは考えることがなかった。
そう考えてみるとだけ自分の眼が自分にしか向いていなかったのかと思う。
「怖い、ですね」
「そう死とは怖いものだ。他者の死となれば一層。自分の死など可愛いものさ」
「でも何もしようがないんですよね」
「やることはあるぞ? 健康に生きさせ、そして祈る。人事尽くして天命を待つというのは真いい言葉だねぇ。ま、やることやっても人間ぽっくり死ぬんだけどねぇ」
「台無しですよ」
「ははは、少し頼りないところがある方がモテるんだ。さて今度は自分の死について考えようか」
「はい」
自分の死。
自分という生物が動かなくなりどうにかなってしまう。
全く先の見えない暗雲。それに飛び込む恐怖。
「君、死ぬというのならスパッと死ぬがいい」
彼女はそんな恐怖も吹き飛ばすような笑顔でそう言った。
それは事実を言うというのではなく提案のようで、そしてその言葉に僕の不幸を願うというような悪意もなくどこか毒気の抜かれる言葉であった。
「そんな簡単に言っていいんですか」
「いいさ。自分の命なんだ。粗末に扱いたいというならスパッと死ぬのがおすすめだ。それに私も何人も自殺の現場を見たことがあるからね」
「貴女は、あなたはどうなんですか」
「私? うーん、死なないよ。いつか避けようのない絶望的なまでの死と出会うまで」
「長く生きて飽きたり……疲れたりとか」
「飽きる? 飽きるには人間の数も寿命も短すぎるな。疲れたら休むんだよ。死ぬこたない」
「苦しくなったり……しないんですか」
「苦しいさ。泣き叫びそうなくらい苦しい時だってある。でも明日を望むことを止められない」
「生存欲求……」
「私はね少年。これこそが生きるということなのだと思う」
「いきる」
彼女は人間のような今にも壊れそうなはかない笑顔でそう言った。
彼女は化け物を自称したし僕はその言葉を納得してそして受け入れたが、この笑顔を見ると彼女は人間なのではないかという思いが沸き上がった。
今にも手を伸ばさないと溶けて消えてしまいそうな、女性。
「少年」
「……は、はい」
彼女は改まって僕をそう呼んだ。
そしてその声を聴いて僕は何か、もう戻れないという卒業式後の校舎のようなどこか夕陽を幻視するにおいを嗅いだ。
「見な。朝焼けだ。この下らなく、陳腐な会話に終わりをつける時が来たのだよ」
「また、会えますか」
気が付いた時にはそう言っていた。
だが彼女は首を振って、ほほ笑んだ。
朝焼けに照らされた彼女の笑みは幼いころに見た絶世の美女の微笑みよりもきれいだと感じた。
「もう会えない。会わない方がいい。わかるだろ?」
「でも……!」
そうして背を向けて去ろうとしている彼女を呼び止めようと立ち上がる。
だが僕は視界が閃光に染まったことにより動きを止めた。
肺から空気が出され、筋肉が硬直する。
体の、芯の中心から、震えが這い出るように僕を掴む。
「どうかな? それが正真正銘の本物の『死』だ」
「……!!」
それは刃であった。
それは牙であった。
純白の恐ろしいまでに研ぎ澄まされた牙。
それが僕の眼球を抉り、脳へと到達せんとその時を待っていた。
僕の眼は片方純白に染まり、片方朝焼けに染まっている。
彼女がその大きな牙を握りながらその白い腕を僕の眼に向けて伸ばしている。
「これは……!」
「ははは、じゃあね」
自分の死というものを直視し、動けなくなって僕を置いて彼女は去っていこうとしている。
僕はそのまま崩れ落ち彼女の背を見送る。
「それ、あげる」
「こ、これ!」
「付け歯! もう少し人を疑った方がいいぞ、少年」
彼女はその大きな歯を僕に投げつけて去っていった。
その付け歯というには大きすぎ、硬すぎるその歯を持ちながら今度こそ彼女が消え去るのを見ていた。
美しすぎる彼女は月のように太陽から逃げるように去っていった。
だがあの蠱惑的な月が空に昇っているのを見ることはもう僕にはできないのだろう。
「死……最後の最後にとんでもないものを……!」
この恐怖。
この自分の死という恐怖。
この本物の死。
これは。
「知らない方がよかった、かもな」
きっとこれは呪いになるだろう。
僕はきっと寿命で息の根が止まるまで泣きわめきながらその呪いを背負っていくのだろう。
またはぽっくり死ぬその時まで。
お読みいただきありがとうございました。
KURAです。
わたしを知っている方はまたお読みいただきありがとうございます。
温めていたアイデアを放出する短編です。
最初は少年が小難しい話をするというものでしたがそれから膨らませていくとこういうことになりました。
はっきり言って難しかったです。故に力不足を感じる一作になりました。
もう少し面白い展開があったのではないか、もう少し会話を面白くできたのではないか。
いろいろと思うところはありますが、この作品は完成しました。
一人でも多い人におもしろいと感じてもらえたら幸いです。
あとがきにも目を通してくれた方に感謝を、そして読んでくれた方に最大の感謝を。