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次の日もわたしは、まだ体じゅうがにぶくいたんで思うように動くことができなかった。でも頭はもうはっきりとして、会話もどうやらふつうにできる。
戸が開いて、あの女の人が小さなおわんをひとつ持って入ってきた。
「山りんごの実をしぼって、はちみつをまぜておきました。あまくて飲みやすいはずですよ」
起き上がろうとするわたしの背中を支えて、ゆっくりと飲ませてくれた。
「全部飲みましたね。熱もひいたみたいでよかった。それにしても、おどろきましたよ。用事が思ったよりも長くかかって、暗くなるし急がなきゃと思って歩いていたら、あなたのような子どもが、それも女の子が道ばたにたおれているのですから」
「あの、わたし、いつからここでお世話になっているんでしょうか」
「おとといの夕方からです。ねむっていたのは丸一日ですね」
答えながら女の人は、枕もとに小さな花びんを置いてくれる。わたしがなるべく気持ちよくすごせるようにと考えてくれてのことだろうか。わたしはそんなその人をじっと見た。
まだ少女のようなかんじもわずかに残る、本当に若い女の人だ。くり色のまっすぐなかみを背中でたばねて、うすいあさぎ色の衣を着たすがたはぱっと見地味にも見えるけれど、この人の場合はおだやかで優しい印象のほうが勝っている。細めだけれどくっきりとした目のひとみは緑色、桜のような白のはだにやわらかく整った目鼻立ちの、落ち着いたやさしい雰囲気の美人。小さな首かざりがむねの上で金色に光ってる。
「ちゃんとなおるまではゆっくり休むといいよ。朝餉を持ってきましょう」
「あ、あの!」
立ち上がったところをわたしに呼びとめられて、女の人はなんでしょう、といったかんじの笑みといっしょに首をすこしかたむけた。その顔を見てわたしはうろたえてしまう。どうしよう、とっさに呼びかけただけで、なにを言うつもりもなかったんだ・・・。
「はい、あの、ええと・・・なにがあったのか聞かない・・・んですか?気にならないんですか?あやしいヤツ、とか、どこから来たのか、とか・・・」
「そりゃあ気になりますね。でも聞かれたくないことだったら悪いですから。聞いてほしいことなら、いずれご自分から話すでしょう?」
「でも、その、わたしは、わたしは・・・あなたはわたしが何者なのかわかって・・・?」
「・・・魔女、ですよね?」
ああ、やっぱりわかってたんだ・・・。
そりゃあそうか、こんなひとみの色、魔法使い以外にないもの・・・。
うつむいたわたしのとなりで、す、とゆかにひざをつく気配がした。
「まあ、お名前くらいは聞いておきましょうか。私はレイといいます。あなたは?年はいくつ?」
「・・・サナ、です・・・十二歳です・・・」
「ではサナさん。これもなにかのご縁ですから、どうぞよろしくね」
はじかれるように顔が上がったわたしに、レイとなのった女の人はすっと手をのばして、まだいたむわたしの体をまたふとんにゆっくりと横たえるのを手伝ってくれた。
ど、どういうこと?わたしが魔女でも気にしないってことかな?え、そんな人間いるのかな?いや、わたしが生まれてこの世にいるってことは、そういう人がいてもおかしくはないってことなのかもしれないけど・・・。
女の人が出て行った戸に目がはりついて、まぶたも動かない。やけにはやい心臓の音がどくどくと耳まであがってくる。むねのおくからあふれてくるなにかざわざわとしたものを、ひとまず首をぶんぶんふって追いはらった。
まあ今は、これからどうするかのほうを気にしたほうがいいか・・・。
古い木の天井をふとんの中から見上げながら、そもそもどうしてこんなことになったんだっけ・・・と今までのことを思い返してみる。
まずよみがえってきたのは、夢で聞いた二人の女の人の声。
いろいろなめずらしいことを教えてくれる母さまの声と、おばさんのどなり声。
ああ、なつかしいな、母さまの声・・・体の調子がいいときは、母さまはふとんから起き出して魔法使いの村にはないことをいろいろと教えてくれた。
人間だったというわたしの父さまの世界の、文字や本。魔法使いと人間では使う言葉は同じでもそれを表す文字はちがうこと。魔法使いなら魔法でささっとすませてしまうぬいものや家事の人間のやり方、そのほかいろいろ。村の子たちと魔法の授業を受けたあとは、そうして母さまと二人だけでの勉強だった。まあ、母さまの具合がいいときだけだったけれど。
それでも魔法の先生からは教えてもらえない新しいことを知るのは楽しかったし、こうやってわたしにわざわざ人間の世界のことを教えてくれるってことは、母さまの心の中には今でも父さまがいるんだろうと思っていた。小さいころにそう口に出して言ったとき、母さまはおだやかに笑ってわたしの頭をなでてくれた。魔法使いのするどい銀のつめで、わたしのはだを傷つけてしまわないよう気をつけた手つきで。
でもおばさんは――母さまの妹のあの人は、どうしてもそれが気に入らなかったらしい。
「そんなことをしてなにかなるの、姉さん?すなおに今すぐやめたほうがいい。でないとあなたもその子もますます居場所がなくなっておわりでしょうに」
他の大人たちも、口には出さなくてもだいたい同じ考えだったみたいだけど、まあそれは当たり前といえば当たり前かな。
魔法使いたちは、基本的に人間とは関わりあいにならないのだから。
「魔力を持つわれわれ種族が、なんの力もない人間とへたに関わるとやっかいな事になる」
魔法のあつかいを教えてくれる先生たちは、わたしのほうをちらちら見ながらそう言う。
魔法使いの集まる村はあちらにひとつ、こちらにひとつ、といったかんじで点々とあるけれど、どの村にも必ず外からかんたんには入れない結界がはられているのは、人間が近よらないようにという理由もたぶんある。わたしがいた村は、山の谷間に作られていて、その山を下ったふもとに人間の里があるという話。でも人の姿なんて一度も見たことがない。
そんなわけだから、人間と心をかよわせておまけに人間との間にわたしをうんだ母さまは、魔法使いの仲間にとってはとんでもないおきてやぶり。母さまの具合がだんだんと悪くなっても、わたしの他に必死にはげましたり世話をしたりする人が、ときどきおばさんが手伝いにくる以外はまったくいなかったのもその証拠。
だから母さまが亡くなったあと、わたしがたよれる相手はおばさんしかいなかった。おばさんには都合がよかったかもしれない。前々からわたしが人間の世界のものにふれることをやめさせたがっていたから。
「何度言えばわかるの!こんなもの、あなたのためになるはずがないでしょう!!」
そう言って、母さまがわたしにくれた、人間の文字で書かれた本を床にたたきつける。
どうして、どうして。母さまが、わたしのためにくれたものなのに。わたしの役に立つようにって、一生懸命考えて、残してくれたものなのに。
そしておととい、わたしがこっそりかくし持っていた本を読んでいるところを見つけて、おばさんはまた目をつり上げて声をはりあげた。
「いいかげんしなさい!!サナ!少しは自分の立場をわきまえるの!!」
いつもの厳しい言葉をわたしに投げつけながら、おばさんの手の中に炎が燃え上がる。取り上げた本を、魔法の火で燃やそうとしてるんだと気づいたとたん――わたしの中で、なにかが音をたてて切れた。
それからわたしは、泣いてわめいて、目を見開いているおばさんに、ずいぶんとひどい言葉もぶつけて。部屋の中のものを、手当たりしだいに魔法でおばさんに投げつけて。そして最後は、泣きながらおばさんの家と魔法使いの村をとび出した。
感情にまかせてうっそうとした森の木々の中をひたすら進んだ。そのうちに不意にまわりが暗くなって、ざあと雨が降り出して。だんだん勢いが強くなっていることに気づかないふりをして細い山道を進みつづけて、斜面の上で足をすべらせたところまでは覚えてるけど・・・。じゃあそのとき、下の道まで転がり落ちてあのレイさんに助けてもらったんだ・・・。
(ああ・・・もうこれじゃ、あの村にはもどれないよね・・・)
もともとあの村の人たちは、母さまや半分人間のわたしをよく思ってなかったし、おばさんはもうわたしをゆるしてくれないかもしれない。でもわたしに、あの村を出てほかにどこに行くところがあるんだろう・・・これから、どうすればいいんだろう・・・。
「母さま・・・」
つぶやいた声は、見上げる天井にすいこまれるように消えていった。