明二と奈々子
子供のころから女性が怖かった。背後に見えるオーラから心の声が聞こえていた。それは人間の醜い本心がむき出しになった、耐え難い暴力だった。どういうわけか男性にはそんなオーラは見られず、そんな明二を周囲は理解してくれるはずもなく、孤立した。
思春期になるころには、他人とは違う能力を隠す処世術を身につけていたから、学校も男子校を選び、女性の恐怖から遠ざかることができた。自然とアニメやゲームの二次元の女性に傾向していく。
大人になり社会人になってもそれはかわらなかった。男性の多い職場を選び、なるべく外界との接触を避けた。人類の半分が女性というこの世界は、明二にとって生きにくかった。活動の幅を最小限にして生ていくことで切り抜けようとした。心配した兄がパートナー紹介センターに連れて行ってくれたこともあったが、その場は兄に心配させないよう応じたものの、あとですぐに契約を切った。
恋愛シミュレーションゲームに夢中になり、その日も、新しく発売されたゲームを買いに、予約を入れていた家電量販店へと向かっていた。
両耳にイヤホンを詰め、携帯ゲームに集中して、できるだけ外界からの情報を閉ざしつつ電車を待っていたときだった。
休日の午前中、乗り換えるターミナル駅は意外と混雑しており、乗降客があっちへこっちへと移動していくホームは、人をよけつつ進まねばならず、まっすぐ歩けなかった。やっと乗車位置の丸印のところまできたとき、ホームの端を勢いよく通り過ぎていく大柄な男性とぶつかりそうになった。
「きゃあ!」
という悲鳴を聞いて、その方をみると、一人の若い女性が線路に転落しているではないか。
大変だ、と思った。
電車がやって来るまでまだ1分ほどあるが、駅員を呼ばなくてはならない。
しかし不思議なことに、ホームにいる誰も関心を示さず、まるで何事もないような態度なのだ。助けようとしないどころか、駅員を呼びに行く人さえいない。それぞれ本を読んでいたり、スマホをいじっていたり、連れ合いとしゃべっていたり……。
一方女性は、必死で上がろうとしているが、ホームが高くて難儀している。都会は冷たいとはいえ、ここまで無関心でいられるものかと明二は恐ろしく感じた。このまま電車が入ってきたら人身事故となってダイヤが遅れてしまうのだから、関わりがないわけがないのに……。
このままではいけない――。
そう思ったものの、しかし動けないでいた。これまでの人との関わり方が、明二に一歩を踏み出させなかった。
でももうすぐ電車が来てしまう。周囲を見回しても、駅員の姿が見えない。
明二は意を決した。
駆け寄って、ホームから手を伸ばした。
「つかまってください!」
女性ははっとして明二の手をつかんだ。
力を込めて引き上げる。
二人してホームに尻餅をついて、しばらく動けなかった。
「怪我はありませんか?」
明二は訊いた。
息を切らせた女性は、呼吸が整ってから明二を見つめ、涙声で言った。
「ありがとうございます。わたし……誰にも見えてないから……。あなたは、わたしが見えるんですね。――あ、待ってください!」
ちょうど電車がホームに入ってきていた。それに乗ろうとした明二は呼び止められ、腕をつかまれる。
それが奈々子との出会いだった。
面倒なことはこりごりだった。だからそれ以上の関わり合いは遠慮したかった。
けれども奈々子は他の女性とは違っていた。オーラが見えないのだ。そして、他の人には奈々子が見えない――。声も聞こえず、まるで透明人間のようだった。しかもある日突然、そうなってしまったというのである。
どうしてそうなったのか、本人にもわからない。混乱のなか、生活にも仕事にも支障がでて、どうしてよいかわからなくなっていた。そんなときに、明二と出会った。
こうして、明二と奈々子の交際はスタートした。他人には奇妙に見られているかもしれないが、それも承知の上で。
明二にとっては、オーラの見えない、攻撃されない安心できる相手として。奈々子にとっては、この世でたった一人、自分を感じられる存在として。
互いに認め合える関係を築けた。
店員に見えないから、代わりに買い物もした。
そして、いつか、奈々子が誰にでも見えるようになる日が来ると、二人は希望を描いていた。
そのとき明二には、他の女性と同じように、奈々子の黒いオーラが見えるようになるかもしれない。
「それでもぼくは、そんな奈々子を……」
とても信じられるような話ではない。けれども三条はうなずいた。
「わかりました。依頼者には、そこは伏せておきますから、安心してください」
他人から見えない――。奈々子の身に起きている理不尽な体験は、三条には想像することしかできないが、その想像以上の苦労や孤独感があるのだろう。
事実をありのままに報告するのが探偵業なのだが、それは一般論であり、今回は無理だろうと三条は常識をわきまえていた。
「話してくれて、ありがとうございました」
一礼して去り際、三条は、最後に一瞬、ベンチにすわる奈々子の姿が見えたような気がした。
でもそれは公園にまで届いた、街を彩るイルミネーションの光が見せた錯覚かもしれなかった。