先野は頭をかかえる
翌朝、事務所に出勤してきた先野光介は、席につくなり、盛大にため息をもらした。昨日の疲労が抜けていなかった。
「先野先輩、きのうはどうしちゃったんですか?」
原田将太が元気に声をかけてきた。事務所だというのに、茶色のセーターにジーンズという、カジュアルな服装である。べつに服装の規定があるわけではないから、だれからも文句を言われるわけではないが、仕事場なのだぞ、と苦々しく思う。
きのう、先野は建物に入り、しばらくして原田にはメールで帰るよう伝えたから、先野が建物内でどうしていたかは知る由もない。
敵の懐に飛び込んで、先野は懸命に情報を集めた。でっち上げの人生相談をもちかけると、教団の幹部だと名乗る男はさっそく熱心に入信を進めてきた。先野が承知するまで帰さない勢いで、トイレに立ったすきになんとか原田にメールできたが、まるでマルチ商法のように巧みな話術での説得は実に見事であった。
もちろん先野は探偵であるから、仕事で来ているという意識と、人心把握のテクニックは熟知していて、相手のペースにはまってしまうはずもないが、心の弱っている人間なら簡単にマインドコントロールされていただろうと思われた。
それはともかく、長時間拘束された甲斐はあった。
新興宗教、『人類浄化協会』──。
線田英翔と交友のある女は、なんと、その教団の教祖の娘だった、というのが判明したのだ。そうとわかればネットで情報を集められた。帆園真恵子、31歳。高校を中退して、父親が興した『人類浄化協会』の事務をしている。
「難しいな……」
と、何度もつぶやかずにはいられない。依頼者は、できれは息子に別れさせてほしい、と言った。息子が年増女にかどわかされている、と思い込んでいるが、実際は男女の関係なんかではないだろう。しかし宗教がからむと、目を覚まさせるのは生半なことではない。
女の素性がわかったというだけで勘弁してもらうしかないかもしれない。探偵として妥協したくはなかったが、世の中には不可能なこともあるとあきらめようかとも思った。
「あの……先輩?」
まだ原田がそばにつっ立っていた。
「一応、調査は終わったよ……。ほかの人のサポートに回ってくれ」
「そうなんですか! お疲れさまでした」
原田は背中を向けて、自分のデスクへと戻ってゆく。
ぼんやりと原田を目で追いながら、どうやったら息子の目を覚まさせられるだろう、と思案をめぐらせていると、入れ違いに三条愛美がやってきた。原田と違い、きちっとしたスーツを着込んでいる。保険会社のセールスレディのようである。
「調査、終わってたんですか」
「ああ、まぁな……」
先野はあいまいに返事した。
「報告書はまだ書いていないが……」
「今朝がたマネージャーから聞きましたが、わたしのサブに入ってもらえるんですよね?」
部長直々に先野が指名されたことを、三条はどう感じているのかわからないが、笑顔ひとつ見せない極めて事務的な態度を鑑みると、それほど期待されていないような気がした。
が、仕事は仕事。
「もちろんだ」
快く返事する。
「では、わたしのデスクまで」
「わかった」
先野は立ち上がる。先野もスーツである。もちろん、今日も純白の。疲れていても、事務所ではその服装を貫くのであった。




