真実と建て前
新・土井エージェント――。何人もの探偵を抱える中堅興信所。
ずらりと並ぶデスクでは、従業員が仕事に励んでいる。ある男性はメモやこまごました資料を机にならべて吟味し、ある女性はかかってくる電話に応対していた。
そんな広い事務所の端っこのほうの窓際のデスクで、先野光介はパソコンに向かっていた。
考え考え、キーをたたいて文字を入力していく。慎重に言葉を選んで、ゆっくりと報告書を書いていく。
驚異の体験をした先野だった。
浮気の調査で女を尾行していたら、バスを降りた直後にいきなり背後から襲われた。気がつくと、誰もいない廃屋の倉庫で縄で縛られていた。
こうなる予感は、なくはなかった。
初めての尾行のときにまかれてしまったのだ。素人がプロの探偵の尾行に気づき、まいてしまうというは、通常は考えられない。よほどカンが鋭いか、もしくは特殊な訓練を積んだ手練れか――。
他国の工作員ではないかと怪しみ、その可能性を疑ったまま二回目の尾行を実施したが、はからずもそれが証明された。
倉庫に置かれていた何者かの鞄の中には、スパイの道具ではないかとおぼしき品が入っていた。
どうにか縄から脱出することができた先野は、近くの国道に出ると目についたコンビニで駅の場所を聞き、なんとか帰り着いたのだった。警察には届けなかった。もみ消されてしまうのがオチだろう。
そんなわけで、女房は浮気をしているわけではなかったのだが――。
かといって、正直に報告書をまとめるのには大きなためらいがあった。なにしろ国家間の情報合戦、腹の探り合いを目撃してしまったのだ。それをオープンにしてしまうと、自分ばかりか依頼者にもリスクが発生する。
それはするべきではない、と先野は思った。
矛盾が生じないよう、巧妙に文書を創作していった。
ただ、三条には本当のことを言っていた。
「おれもまさかとは思ったがな」
先野は誰かに聞かれるのをはばかって、声のトーンを落とす。
「報告書を書いたら、おれはすべてを忘れる。いくらなんでも、命は惜しいからな」
監禁されたうえに縄まで打たれたとあっては、命の危険を感じるのも無理はない。
「でも……それって……」
曰く言い難い口調で三条はいい、口ごもった。
「もちろん部長へも虚偽報告して、それで押し通す。これは黙っていろよ。外国の工作員など、やくざよりも始末が悪い」
「そうですね……」
三条はうなずいた。それ以上は言わず、小さく肩をすくめると、PCに向かって報告書と格闘する先野のデスクを離れた。他に抱えている案件もあり、そこへ集中することにした。
日曜日――。
依頼者・塔山雄哉が新・土井エージェントに訪ねてきた。
パーテーションで区切られた面談コーナーで、先野光介は最初に言った。
「結論から申し上げますと、奥さんは浮気していません」
「そうですか……」
心底安心した、という表情の塔山。
「詳しくはこの報告書にありますが、まず一番の懸念である、家の近くで会っていたという若い男のことですが、彼とは仕事上のつながりだけです。彼はフリーランスの仕事をしていまして、派遣社員をしてらっしゃる奥さんは、これまでいくつかの職場で働いてきました。そこで知り合ったうちの一人です。それ以上の付き合いはありません。もちろん、友人という間柄でもありません。たまたま会ったということです」
先野の右隣にすわって聞いていた三条愛美は冷や汗ものだった。
「外泊に関しても、奥さんの言われるとおり、終電を逃して、スマホも充電切れだったので、連絡できなかったと……」
淡々と報告を続ける先野は、表情ひとつかえることない。しかも虚偽の報告である。
もちろん、重大な規約違反である。
規約違反というなら三条も同罪だ。ただ、三条も本当のことを打ち明ける気はなかった。タイムリーパーなど、工作員という設定より突飛だ。到底信じてはもらえまい。それがわかっているから、三条は口をはさまない。
前もって先野の報告書を読み、内容は理解していた。見事なまでに理路整然としており、一部の隙もなかった。依頼者への対応も落ち着き払っており、詐欺師にでもなれるのではないかと呆れるほどであった。
依頼者の前で報告書を広げて説明している先野を見つつ、これでこの格好さえどうにかしてくれたらもっと信用されるのに、とすごく惜しかった。
先野はいつものとおり、白いスーツの上下に紫色のシャツと赤いネクタイだった。室内にもかかわらずソフト帽子をかぶり、いったいなにをイメージしているのかと疑問だったが、なんとなく聞いてはいけない気がして聞きそびれていた。
「以上で、この案件についての報告でございました」
報告書を閉じ、依頼者にわたす先野。
「どうもありがとうございました」
報告を聞きおえて、塔山は頭をさげた。
「浮気でなくて、よかったですね」
先野は微笑む。
「はい……」
「奥さんとは、よくコミュニケーションをとってください。後ろめたい隠し事など、まったくないはずですよ」
すがすがしい顔で、塔山雄哉は事務所を辞した。
「あんなこと言って、だいじょうぶなんですか?」
三条は、先野の意思を確認した。
「だいじょうぶさ。探偵にかぎつけられたとあっては工作員も注意するようになるはずさ。今後、もっと用心深くなって、塔山さんが奥さんの裏の仕事に気づくことはもうないだろう」
あのあと調べたところ、香代の父親は健在で、だから香代がこそこそとKSとの接触を続ける必要はなくなった。
歴史は変わってしまったのだ。
先野が保証したように、以降、香代が浮気を疑われることはないだろう。もっとも、将来、浮気をしないとは言いきれないが――。ともあれ、今は幸せなはずだ。
「さて……次の仕事は……」
自分のデスクに戻っていく先野。
その背中を見てひとつ息を吐くと、三条もデスクに戻る。調査案件は他にもあった。気持ちを切り替えて、取りかからなければならない。
が、思い出してしまう。
あのとき、KSは言った。
――きみにも、もう一度会いたい人がいるだろう。
いったい誰のことを言っているのか、三条には思い当たるフシがなかった。死んだ近親者もいなかったし。
あるいは、近い将来――近くないかもしれないが、自分にとってとても大切な誰かが死んでしまうのかもしれない。
KSはもうそれがわかっているのかもしれない。だから、あんなことを言った……。
いつかその必要があったとき、現れるであろうKS――。それはもう確定した未来のように思え、窓際のデスクで帽子をとって顔をあおぎはじめた先野をちらりと見やり、もう夏だな……と、その日がくるのはいつなのかと、三条は背中がむずむずするような気持ち悪さを感じるのだった。
【会いたい人はいますか】(了)




