依頼者からの相談は
雑居ビルの一室にある中堅の興信所「新・土井エージェント」の広い事務所には活気があった。
ずらりと並べられた机には、多くの男女がついて仕事に励んでいる。ある者はパソコンを操作し、ある者はメモやこまごました品物を机にならべて吟味している。ひっきりなしに鳴る電話に対応したり、電話をかけたり。
しかし、そんな事務所の端っこの方で、窓の外をぼんやりと眺めている男がひとりいた。
先野光介、三十八歳。
真っ白な上下のスーツ。紫のシャツに赤いネクタイ、室内にも関わらずソフト帽を目深にかぶり、ブラインドから入ってくる午後の陽光から目を隠しつつ、三階からの眺めを見ることもなく見ていた。
「暇だな……」とつぶやく。
午前中、書き終えた調査報告書を依頼者に手渡すと、受けていた仕事はすべて終了した。その時点でその他に抱えている仕事はなかった。直接受けた案件も、他の探偵のサブにも入っていなかった。
本当ならタバコの一つでもふかしていたいところだが、あいにく事務所は禁煙だった。
(まったく、おれに相応しい仕事ってのは、なかなかないものだな)
仕事がなくても先野はくさらない。ビッグな自分には、もっと探偵らしいハードボイルドな仕事が似合うのだと思い込んでいた。私立探偵事務所を立ち上げたはいいが、依頼がなくて廃業し、「新・土井エージェント」に流れてきた過去を棚に上げて、そう信じていた。実際にはそんな仕事が来たためしはなかったが。
「先野さん」
そこへ右後方から声がかかった。
頬杖をついてうとうととまどろんでいた先野はハッとして、垂れかけたヨダレを手の甲でぬぐい、寝ぼけていたことを悟られぬよう目を見開いてイスを回した。
「ん? なんだ、三条さんか……どうした?」
三条愛美、二十七歳――。紺のビジネススーツを一寸の隙もなく着こなしたショートヘアの下で、長いまつ毛の瞳が突き刺すようにまっすぐに先野を見下ろしていた。
新・土井エージェントでは、案件によっては、探偵は一人ではなく、二、三人でチームを組んでとりかかる。先野も何度か三条と組んだ。
「依頼者が来てます。ほら、予約の電話があったでしょう?」
「ああ、そういや……」
思い出した。浮気の調査という、ありふれた依頼で、そのせいか、ぼんやりとした記憶にとどまっていたのだ。たしかパソコンの管理ソフトの予定表にも書かれていた。
興信所の仕事の大半が浮気調査である、というのが現実で、またこんな仕事か、と心の中でつぶやく。
今日相談に来るはずの依頼人がなかなか来なかったのだ。いつ来るのかと思っていたのだが……。
「わかった。行こう」
先野は立ち上がった。忙しく働く同僚のデスクの間を抜け、三条のあとについて面談コーナーに向かった。
事務所のすぐ外には、何枚ものパネルをつなげたパーテーションで区切った面談コーナーがいくつか並んでいた。
奥から二番目の面談コーナーに行くと、四人掛けの安物のテーブルにさえない男がひとり座っていた。依頼者である。
「どうもお待たせしました」
三条が丁寧なおじぎをして面談コーナーに入った。
依頼者の男が会釈する。そして、そのあとに入ってきた先野を見てギョッとする。白いスーツに赤いネクタイとソフト帽という、コスプレと見紛うようなファッションに釘付けになった。
「担当の三条です」
「同じく先野です」
二人が依頼者の正面に座った。
名刺を差し出し、
「本日は、よろしくお願いします」
安心させるような笑顔で三条が言うと、
「それで……ご依頼というのは?」
依頼者の不思議そうな目など気にすることなく、先野がいきなり本題に入った。
「あっ、はい……」
すると、少しおとおどした態度で口を開いた。
「電話でも申し上げましたとおり、お恥ずかしい話ですが、妻が浮気をしているのではと思いまして……」
依頼者は、塔山雄哉と名乗った。ストライプの入った黒いスーツを着たおとなしい感じの、どこにでもいそうな会社員だった。
これまであったことをつらつらと説明した。
三条はメモをとっている。もちろん、テーブルの上に置いたICレコーダーで会話も録音している。
先野も分厚いシステム手帳にペンを走らせていた。依頼者の顔を見つめ、その表情と会話の中身を、頭をフル回転させて理解しようと務めた。
「今、思い返せば、スマホのメールが増えていたのも、休日にひとりで外出するのも不自然だったのに、それにとんと気づかなかった……。無断で外泊なんて――」
子供でも産まれていれば忙しくてそれどころではなかったんでしょうけど、と塔山は悲しそうに苦笑した。
「よくわかりました!」
話を聞き終えた先野は勢いよく言った。どんな案件でも、仕事となれば真面目に取り組むのがプロであると、先野の職業意識は高かった。
「お任せください! しっかり調査します」
「はあ……」
先野の勢いに気圧されて、こいのぼりのように口をぽかんと開けてしまう依頼者・塔山だった。
「ご安心ください」
三条は笑顔をくずさない。
「あっ、はい、よろしくお願いします」
対照的な二人の探偵を前に目を泳がせながらも、ともかくここは任せるしかないのだと、塔山は頭を下げた。




