最強霊媒師・凹卜
なにも動くもののない周囲にあって、それに気づくのは早かった。
「あっ」と声を上げた詠川。足元ばかりを気にしていた三条も顔を上げた。
「先野さん!」
見通しのよい場所のため、百メートルほど離れた前方の起伏から現れた人影を視認できた。離れてはいたが、そのシルエットは先野光介に間違いなかった。
「無事だった……」
そのことだけでほっとする。
しかし、斜面を転がるように降りて接近してくる先野を見て、詠川は目を細める。
「三条さん、まずいです! 今の先野さんは普通じゃないです」
「え?」
駆け寄ってくる先野とは、あと数秒程度で接触する距離にまで近づいてきていた。顔つきがはっきりとわかるほどの近さまで来て気づいた──目つきがいつもと違う。まるでつい今しがた人殺しでもしてきたような、凶悪な光を放っていたのだ。
先野は勢いを殺さずに、無言で詠川に飛びかかった。詠川はよけられない。まともに衝突して、二人して斜面を転がる。
「詠川さん!」
あの勢いでまともにぶつかったら、年齢的にダメージを強く受けるのは詠川のほうだろう。
斜面の途中の岩にひっかかった詠川は、背中を打ちつけた痛みに動けない。そこへ先野が馬乗りになって首を絞めつけてきた。手足を動かして抵抗する詠川。霊相手ならかわすこともこともできたが、物理的な攻撃では体力差がものをいう。
「先野さん、やめてください!」
三条は駆け寄ろうとした。が、その体が急に動かなくなる。
「あうっ!」
足がもつれて転倒した。思うように体が反応せず、力が入らない。それにものすごい寒気がして肌が粟立つ。詠川の加護が失われて、目に見えない霊が体を狙ってきたのだとわかった。わかったが、三条にはどうしようもない。声さえ出せず、先野が詠川を絞め殺すのを見ているしかない。
(先野さん……!)
声にならない声が咽喉の奥で固まる。目の前で殺人が起きようとするなど想像すらしていなかった。しかもそれがよく知る人間だ。たとえ悪霊にとり憑かれていたとしても、本人に意識がなかったとしても、殺人は殺人であり、法からは逃れられず裁きを受けてしまう。そんな理不尽な目にはあってほしくなかった。
しかし三条にはどうにもできない。複数の霊が三条の体を、鳥が集団でついばむかのように接触してくる。気持ち悪さに吐きそうになる。
(このままでは……)
三条自身にも命の危険が及んでしまうかもしれず、まだ意識があるうちになんとかしなければと焦るものの、息さえ苦しくなって状況は悪くなる一方である。
手足はぴくりと動かないし、目を開けているにもかかわらず、まるで血が届いていないかのように視界が暗くなってきた。
(もうダメ──!)
あきらめかけたとき、どすん、という鈍い音がして、だしぬけに呪縛が解けた。ぜいぜいと喘ぎ、回復した視力でなにが起きたのかを確かめる。
一人の女が先野のそばに立っていた。先野はというと、その場に倒れている。代わりに詠川がおもむろに立ち上がろうとしていた。
どうやら、その女が助けてくれたようである。年齢は三条と同じぐらいだろうか。後ろに流した黒髪は長く、ゆったりとした藍い和装を身に着け、姿勢よく、化粧っけはないが凛々しい。
「どうも霊どもが騒がしいと思って来てみたら……」
「凹卜さん……」
詠川がその名を呼んだ。
(この女性が凹卜さん……)
三条は改めて見つめてしまう。霊媒師として、その筋では最強だと詠川が名前を出した──。これまで感じたことのない強烈で独特なオーラがその小柄な体から発散されていた。それはどこか人間離れした気配。
「ここへは来ぬほうがよい、と言ったはずだが」
冷たい口調で凹卜は言い放つ。
詠川はまだ苦し気な表情で、
「はい……。しかし、人助けをするためでした」
「この男のことか?」
凹卜は倒れている先野に視線を送る。先野は倒れたまま動かない。
「あの……!」
そこへ三条が口を開いた。話しかけるのさえはばかられそうなほどの絶対的な〝気〟の強さに委縮してしまいそうだったが、一方的に詠川が悪いわけではないと、ひとことでも言っておきたかった。
「わたしが案内を頼んだんです。先野さんが行方不明になったと知って──」
「この者、とり憑かれただけではなく、霊の手下になってそなたらを襲ったのだ。仲間にしようとしたようだな」
「先野さんは無事なんですか?」
すぐにでも駆け寄りたかったが近づけない。凹卜の発する〝気〟が、どこか近寄りがたく感じられて。
「生きているとも。我がこの者の体から霊を排除した。ただ、早急に山を下りるがよい。もたもたしていたら、また悪霊にとり憑かれてしまうぞ」
「ありがとうございました! すぐに下山します」
三条は深く頭を下げた。
「ここは霊の溜まり場だ。しかもロクな霊ではない。普通の人間は立ち入らぬことだ」
もう用はないとばかりに歩き去ろうとする凹卜。
「先野のことといい、この度はご迷惑をおかけしました」
そう言う三条のすぐ横を通り過ぎようとして、凹卜は一度立ち止まる。
「そなた……奇妙な星の巡りをしておるようだな……」
深い静謐をたたえた目には凄みがあった。
「へ?」
「いや、なんでもない。気をつけるがいい。そなたはどこか不思議な雰囲気を感じるのでな」
謎めいた言葉を残して山を登っていく凹卜のシルエットが小さくなっていく。この山のどこに、この霊媒師は住んでいるのだろうか、と三条は不思議がる。なにもなさそうな山の中に、おそらくたった一人で──。
「三条さん……」
遠ざかっていく凹卜を見送っていると、背後から声がかかって振り返る。
「ああ、そうでしたわね。先野さんを連れて帰りましょう。首はなんともないですか?」
思い出したように言った。首を絞められて、もう少し凹卜が来るのが遅かったら、詠川は死んでしまっていただろうと考えるとぞっとすると同時に、今はほっとする。
「もうだいじょうぶです」
詠川は大げさにうなずく。
「先野さんの意識はたぶん明日まで戻らないでしょうから、二人してクルマまで担いでいかなくてはいけません」
「そうですか……。わかりました」
事件解決である。心配している原田にメッセージを送ろうとして、スマホを取り出すもあきらめる。やはり圏外だった。




