幕間 退魔師
赤子の泣き声がする。その声はとても力強く、鮮やかでしっかりしたものだ。
私はたった今、己の力の足りなさ故に倒すべき妖異を取り逃したばかりだった。完全に消し去る事は出来ずとも……かなりの深手を負わせた筈だ。きっと当分は大人しくしているだろう。
しかしその当分が一年先か十年先かは不明だが……。
そして私自身も酷く疲労していた。外見的な傷こそないものの、あと少し相手と対峙していたのならば、生死の境を彷徨う羽目になっていたに違いない。
「ふぅ……」
自然と溜め息が口から漏れた。こんな仕事など、やるもんじゃない。今ある神仏混合の神社を守ってひっそりと平穏に暮らす。きっと家族の為にも、自身の為にもそれが一番いい選択だろう。
そして幸か不幸か、後継者である五歳になる息子は私のような力はなく、妻と同じで普通の人だ。
第一、可愛い息子にわざわざこんな危険な真似をさせる必要はない。少なくとも私より力のない者がこの仕事をすれば確実に死は免れないだろう。
そうだな……世が世なら養子を取らなければならなかった事態だが、時代は変わり、それについて四の五の言う年寄りは誰もいない。ならばいっそ、終わりにするのがサッパリとして清々すると云うものだ。
そうだ、こんな仕事は私の代で終わりにすればいい。
些か決心がつかない思いではあるが、これは考慮に入れていいはずだ。全ての総元である仙道家に私の死を持って全てを終わりにすると伝えるだけでいい。
しかしそんな真似が私にできるのだろうか……？ ましてやあの仙道一族が、用済みになった私の家族を見逃してくれるだろうか？ いや、駄目だ。にわかに湧き上がった弱気な己の心を叱責するように、再び大きく息を吐いて立ち上がる。
とりあえず、今すぐ答えを出さなければならないわけではない。もう少しゆっくりと考えてからでも遅くはないだろう。
「さて、帰るとするか」
鉛のように重たくなった体に鞭を打って、ふらつく足を草深い中へと進ませる。
ふと見渡した手入れのされていない山肌は、荒れ放題に荒れ、ゴツゴツした岩ですら緑に飲み込もうとしていた。
「おぎゃぁ！ おぎゃぁ！」
まだ、赤子の泣き声が聞こえる。ちょっと待て。これはどう考えても変だ、おかしい。ここはかなりの山奥で、散策で来る様な所ではない。ましてや赤子を連れた女が来れる様な場所ではない。
視線を廻らせる。微かな妖異の気配。さっきのヤツか？ いや、違う。再び緩めた神経を張り直し、周囲の様子を伺う。
赤子の泣き声は私の所から丁度、十メートル位先の竹林から聞こえる。行かないわけにはなるまい。もしも万が一、本当に赤子であるなら……この状況は異常だ。
私は出来る限り音を立てないように前進する。
少しばかり進んだ所で、前方の様子を伺う。竹林が少し開けた位置に真新しいタオルに包まれた赤子が、元気な泣き声を上げて確かに存在して居た。
「馬鹿な……」
その小さな手は握り締められ、力の限りに声を上げている。母を求めているのか、それとも他の何かを求めているのか。私は足早に赤子の傍に駆け寄ると、小さな体を抱き上げた。
「よしよし、泣くな。お前の母親は一体どうしたんだ？」
ふい、とその赤子は声を上げるのを止め、私の瞳を真っ直ぐに見つめて来た。恐ろしいことに、涙に縁取られた瞳はとても昨日今日に生まれたばかりの赤子と思えないほど、強い意志を湛えていた。
正直、今まで感じた事のない威圧感を覚え、浮かべた己の笑顔が凍りつく。まるで不意打ちでゾロリと何かに首の後ろを撫でられたようだ。
一体この感覚は何なんだ？
「だぁ……」
訝る私の心をそうと知ってか知らずか、腕の中で赤子はにこりと柔らかく微笑む。ふと、とても良く整った可愛い顔立ちだ、などと私はなんの脈略もなく思った。
「ぶぅーあ」
見ていれば機嫌良く、くちゅくちゅくと指をしゃぶり始める。
「そんなにしゃぶると、指が溶けてしまうぞ？」
あまりにもあどけない可愛らしい仕草に思わず私は顔を緩め、誘われるように赤子の頬に触る。だが途端にビリリと指先に走る嫌な感触が駆け抜け、緩めた頬は緊張で一気に引きつった。
この感じは……。
妖異の気配？ まさか、こんな赤ん坊から？ いや、確かにこの子は人間の赤子だ。でもコレは……これではまるで目印ではないか。
この子に纏わり付いているこの気配は、同じ気配を持つ者を呼び寄せその命を奪う、まるで死の呪いだ。
なんと云う事だ、誰がこんな赤子にその様な真似を！ このままでは、この子は喰われてしまう！
私は腹の底から髪の毛が逆立つような怒りを覚えた。誰が一体このような真似を！ 冗談ではない。誰が生まれたばかりの無垢な命を、みすみす汚らわしい妖異になどくれてやるものか。
私はその場で出来る限りその気配を消し去る法を行った。しかし……その気配は思ったより深く沁み込んでいる。この場でなど到底出来そうにない。
しっかり準備をした上で、確実に消し去らねば……いや、もしかしたら私の技量では隠す事がせいぜいかもしれない。
悔しさでギリッと唇をかみ締める。
「だぁーだ」
意図してかどうかは知らぬが、腕に抱く赤子の視線の先には、この子が見つめたその先に、握れば潰せる程の小さな妖異が数枚の羽をフラフラとばたつかせて飛んでいた。
それも驚くほど不安定な動きを確実にこの赤子はしっかりと目で追っている。
この時、一条の光を見た気がした。
もし私が失敗したとしても、この子自身をしっかりと育ててやれば、助けられるかもしれない。そして祖先より延々と続くこの仕事も、息子の将来も守ることが出来る。
そう……誰の犠牲も生まず、全て円満に世界が回る。
これはきっと私に与えられたチャンスだ。ならば選ぶ道はただ一つ。
「必ず、お前を助けてやる」
……私が必ず助けてみせる。私は一縷の望みと赤子を抱いて、足早にその場を立ち去った。
