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第二幕 時無しの沼

 今、私の目の前には肌寒くなるほどの荒涼とした静かな闇が広がっている。

 辺りには成りたての新米妖異(ようい)や、既に古株となった妖異たちが思い思いに漂っていた。

 ここは行き場のない者たちがいつの間にか漂い、流れ着く『時無(ときな)しの沼』。

 いつから誰が呼び出したのかは知らないが、私を含めた皆の間ではそれで通っている。けれど、正確にはここに沼や水などは存在しない。

 代わりにあるのは無限の闇と果てなくゆっくりと流れる時間。

 不思議な事にここでは時間の流れまでもが停滞し、流れ出る事が殆んどない。水が溜まっていくように時間がよどんで溜まっていく。

 例えるならば、浦島太郎が竜宮城で過ごした数日間が、この空間と外の空間との間に起こっているのだ。

 私はこの場所に約十八年に一度、戻ってくる。

 今までの経験から、時無しの沼での半日は外の世界の半年に相当すると分かっている。だから私は凪が生まれるまでの時間を自然とここで過ごすようになっていた。

 たった一年。

 でも、それでも、凪の居ない一年は私にとって気が遠くなるほどに長い。

 凪が居ない世界になど、一秒たりとも居たくないから……。

 今だって凪と離れて居る事が、凪が私の知らない誰かと居る事が私を不安にさせ、時が経てばそれだけ私はその苦しさに押し潰されそうになる。

 会えない、ただその事実だけがどうしょうもなく私の心を掻き乱す。


『よぅい、京がかえってきたぞおぅう』

『よぉおうい京がかえったぞぉおう』

『翁よおぅい、京が帰ったぞおぉう』


 ふと、私の姿を認めた数匹の妖異によって辺りが騒がしくなった。確かに、この限られた空間で数十年、数百年と漂っているならば、自然と顔見知りになるのも無理はない。


『ふんしゅー……なんじゃあ、もうそんなに外では時間が経ったのかいなぁ?』


 時無しの沼の最長老、かわずおきなが、長い舌でペロンと自分の鼻先を舐め、左右の目を別々にキョロキョロと大きく動かした。


『お久しぶりです。お元気そうで何よりですね、翁。それと岩さんも』

『ふんしゅー……なぁにが良いものかのぉ。わしゃあ元気でなんぞ居たくないわいぃ。ふんしゅー……元気

過ぎるから、ほぉれ、この通りに元の形を失のうてしもうたぁ』


 翁は不機嫌そうに大きな岩に腰掛けたまま、両手を大きく広げて見せた。言うまでもないが翁はその名の通り蛙の妖異だ。

 その姿は人間と両生類の間。不自然に前に折れ曲がったとても低い背丈。必要以上にぎょろりと左右に大きく張り出した目。ぬめった皮膚に覆われた平たい顔を横断するように、大きく引き伸ばした口の上には鼻であろう空気孔がぽっかりと二つ開いている。

 恐らく人間が初めて翁を見たのならば、生理的に嫌悪を感じるのではないだろうか?

 そして当然ではあるけれど、翁が腰掛けている岩も妖異。

 通称岩さん。彼は皆とは違ってここにたどり着いてからこの方、一度も岩の姿のまま形を変えず、言葉を発したこともない。本来なら言葉を発することなど容易い存在でありながら、彼は敢えてそれをしたことがない。だから彼は小さく震えて返事を返してくれた。


『ふんしゅー……それにしても京よぉ、お主はまだあきらめんのかのぉ? わしゃあ、もう、とっくに諦めてしまったんじゃがなぁ。えらい事じゃあなぁ……』

『……諦めが、悪いだけですよ』


 大概なりたての妖異は知識も経験も知恵もない。

 だからこそ、以前の姿であった頃の本能に縛られ、元の生活から抜け出すのは非常に難しい。例えるならば岩さんがその最もいい例なのだと思う。

 だからだろうか……以前が動物であったなら、本能として殆んどが例外なく食欲に支配されてしまう。

 その昔、私が翁と知り合った頃は、彼も例外なく食欲に支配されていた。しかし、翁は蛙に戻りたくて、蛙の姿に戻りたくて、蛙を喰らっていたのだから少し話が違うのかも知れないのだけれど。


『戻りたい、戻りたい…蛙を喰らえば、きっと元に戻れる。喰らい続ければ、いつか元に戻れる……』


 そう当時の翁は信じていた。そして、同じく妖異に成りたてだった私は翁のその言葉に影響を受けた。



 人間になりたい。



 その時、私はそう強く願った。

 けれどもどうしてそう思ったのか、未だに良く解らない。何故とは、不思議な事に私には妖異になる以前の記憶が全くないのだ。

 それこそ他の妖異たちは大なり小なり以前自分が何者であったのか、どんな生活をしていたのかを覚えている。

 しかし私は元の姿はおろか、どうして妖異になったのか、なんで人間になりたいのか……そんな基本的な事すら忘れ去ってしまっていたのだ。

 そして未だに何一つ思い出せない。


『ふんしゅー……のぉう、京よ。お主は一体、何を求めておるのかのぉ? わしゃあ、随分と長く生きた……長く生き過ぎたんじゃ。死ぬる事が出来るのなら、わしゃあそうしたいのぉ……』

『翁……』


 翁は大粒の涙を左右の飛び出した大きな目からハラハラと零す。そう……私たちは自分で自分の死を選べない。

 いつか来る、その日まで。

 この果てない闇をずっと独りで漂い続けるか、より力のある妖異に喰われるか、誰かに消されるまで、永遠に生き続けていく。

 冷たく果てないその孤独は、妖異だとしても耐えられない苦痛。だから皆、引き寄せられるように時無しの沼に集まり、また時を求めて外へと出て行くのかも知れない。


『翁は……』


 私はその先の言葉を飲み込んだ。きっと翁にとって、独りの闇以上に恐ろしいのは過ぎ去る時間なのだ。この千変万化していく世界で、一体何が変わらずにいられるのだろうか? 己だけが変わる事が出来ない辛さ。

 どこに居ようとも、何をしていようとも……自分だけが置いていかれる。


『わしゃにぁあ、ここが似合いじゃ。この空間はわしと同じに時に忘れられとるからのぉ。似合いの場所じゃて』


 ズズッと翁は鼻をすすり、流れた涙を手の甲で拭う。


『…………』


 私はその悲しみに掛ける言葉を持っていない。肩に手を触れることさえ、今は躊躇われた。どうする事も出来ず、ただひたすらに口を噤んで俯く。

 落ちた沈黙はここにある、どんな深い澱みよりも重く、支えようとする腕すら飲み込む。 どれほどの間、私は翁とその先にある闇を見詰めていたのだろう。

 やがて長い長い沈黙の後、まるで滑らかなビロードのカーテンが落ちる様に、目の前に更に深い、手で掴めそうな闇が訪れた。

 ゆっくりと背中を引かれる感覚。手の中にある刀が主を求めて小さくカタリと音を立て、時無しの沼から外の世界に引き戻される。蛙の翁の姿が遠い闇の中に消えていく。

 あぁこれは……きっと凪が私を呼んでいるのだ。


『おぎゃあ!おぎゃあ!』


 悲しみに沈んだ私の心が、一気に喜びに湧いた。例えどんなに遠く離れていても、二人の間に結ばれた約束の糸を手繰り、私は迷わず凪へとたどり着く。


 必ず、貴方の元へ。

 それが今の『私』が存在する理由の全てなのだから……。


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