表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/28

幕間 凪ノ壱

 もしも魂を縛られるほどの出会いを手に入れたのならば、幾千億の苦しみや悲しみを背負ったとしても、きっとこの世に存在する誰よりも幸せだ。

 俺は、恐らく酷いエゴイストなのだと思う。

 この世で、唯一つの存在を自分だけに縛り付けて置く。

 その為ならば、どんな犠牲も厭わない。誰よりも、何よりも、たった一人。その人の全てを独占する喜びに比べたのなら、俺に与えられる痛みなど些細なこと。

 どんなに苦しめ傷付けようと、どんなに涙を流させようと、俺はその瞳を自分だけに向けさせる。

 他の誰にだろうと、一瞬たりとも逸らすことは許さない。

 だからこそ、この世で一番大切な者に、俺は何度も何度も癒えない傷を深く与え続ける。決して俺以外に心を奪われない様に。


 俺は、京の涙が好きだ。

 俺は、京の美しい泣き顔が好きだ。


 俺が初めて京に出会った時も、京は涙を流していた。息をするのを忘れるほど、俺はその美しさに心を奪われたのを覚えている。

 陶器のように滑らかで、透き通るほどに白い肌。黒く艶やかな髪、吸い込まれそうなほどに深く美しい漆黒の瞳。

 薄氷のように儚げなその姿は、不釣合いな荒れ果てた岩場にゆらりと佇み、吹き付ける強い風に髪を乱してハラハラと涙を散らせていた。


「貴方には何も、しないから……」


 心を抉るほどに悲しみに満ちた言葉。


「何も、しない、か……ら……」


 嗚咽が言葉を遮る。


「なぜ、泣くの?」


 俺はその時まだ数えで五つになったばかりで、とても不思議だった。何故、人を喰う鬼が泣くのだろうか?



 何故?



「どうして、悲しいの?」


 もし、この場で泣く者が居るのだとしたら、それは俺ではないのか? 目の前で……人が喰われたのだ。

 それが例え人買いのゴミ野郎だったとしても、泣き叫ぶのは俺ではないのだろうか?

 だがその美しい鬼は俺に一瞬だけ視線を向けると、大粒の涙を流して消え入りそうな声で呟いた。


「ごめんなさい……」


 それは一体、誰に対する謝罪なのか?

 あたりに吹き付ける風が一層強くなり、濃い闇と瘴気を連れてきた。涙に濡れた美しい鬼はその中に溶けこむように消えていく。


「待って!」


 追い縋ろうとした俺の小さな手は宙を切った。

 そう……何故かその時、俺はその鬼と共に消えてしまいたかったのだ。その鬼の腕に抱かれ、一緒に行きたかった。

 だが、その様な奇跡など起こりはしない。

 美しい鬼の消え去った先、そこが一体どこなのかは分からない。が、もう二度と会えないと思えば、酷く悲しくキリキリと心臓が締め付けられ、胸の抉れるような痛みに絶望を感じた。

 俺はその後、何もない荒野を彷徨い歩き、力尽きた所であるお武家に拾われた。

 姓を神原(かみはら)と云った。

 そのお武家の家では子宝に恵まれなかったらしく、拾った俺を養子として迎えてくれた。それから数年後、義母の腹に子が宿り俺に義妹が産まれた。

 義父母は俺に家を継がせるつもりで居たらしい。義妹も俺を本当の兄の様に慕ってくれていた。

 しかし俺の心にはあの時以来、唯一つの想いが占めていた。

 歳を経るにつれ、俺は様々な噂やお伽話を調べ尽くした。それは単に、知識を得るためではない。

 あの鬼に再び逢う為だ。

 そうして、様々な話を綜合した結果、ただ一つの結論に至る。

 十八年ごとに現れては人を喰らう鬼。

 それが俺の求める者だと。ならば俺は再び、あの場に立つ。今の俺にはその機会を手に入れる事など容易い。何故ならば、義父の長刀は代々伝わる破魔の刀。神原の姓を持つ者は代々破魔の刀を操る者。

 恐らく、義父はあの場にその目的で来ていたのだろう。だから、俺は運良く生き延びることが出来た。

 ならば俺はその姓に……刀に相応しい強さを手に入れよう。

 強くなる。

 俺は強くなってみせる。

 だが俺の真の目的は魔を滅する事でない。あの涙する美しい鬼を他の誰にも渡したくはない。ただ、それだけだ。

 だから俺は。

 誰よりも……強くなる。

 以来俺は、ただひたすらにあの美しい鬼の面影を追い続け、刀の修練を積み……歳相応に肉欲を満たす為、あの鬼に少しでも面影が重なれば女を抱いた。

 しかし日を追う毎に心は掻き毟られ、苦しさだけが募り、焦りが脳裏を過ぎる。


 俺以外の誰かに、あの手が触れる。

 俺以外の誰かに、あの唇が触れる。

 俺以外の誰かに、あの瞳が向けられる……。


 そう思うだけで、気が狂いそうだ。

 会いたい、会いたい、会いたい、会いたい。

 今頃、あの美しい鬼は何をしているのだろうか? また涙を流しているのだろうか? 傍に行きたい、触れてみたい。

 それが例え自然の慣わしに背いたとしても、神に背いたとしても、構わない。

 俺はあの美しい鬼が、欲しい。

 長い時が過ぎた。この日をどんなに待ち望み、どんなにこの時間に焦がれた事か。

 今まさに俺は主の命に従って、望んだ通りに再びあの岩場に立っていた。


「出てこい、居るんだろう?人を喰らう、鬼」


 あの時と同じ、濃い闇と瘴気を含んだ風が吹き抜ける。


「何故、私を呼ぶの……?」


 闇の中から追い求めた者の姿が、ゆらりと現れた。心臓が高鳴って、今にも口から飛び出しそうなほどに早鐘を打つ。


「鬼、お前の望みは何だ?」


 綺麗に整っている眉が困ったように寄せられる。酷くうろたえ、困ったように今にも泣き出しそうな顔をする。

 その様に、俺の口元には知らずと笑みがこぼれた。


「何故、答えに窮する? 何か理由があるのだろう? それとも、何もないのか?」


 怯える視線が俺の手元の刀に吸い寄せられたかと思うと、再び俺の瞳を捕らえる。益々困惑した表情をすると、着物の袖で口元を蔽って小さく呟いた。


「人に、なりたかった……。人を喰らえば、人になれると聞いたから。……初めは、そうだった…………でも今は、今は……」


 咎められた子供のように目を伏せて顔を背ければ、頬に一筋の雫が伝い落ちる。


「衝動を抑え切れない……。これは私に下された罰……。摂理に、叛いた、私に下された罰……」


 涙に濡れた瞳が俺の心をざわめかせた。全身を走り抜ける、粟肌が立つほどの快感に俺は抗えない。

 間違いない。

 俺は、この美しい鬼を手に入れられる(・・・・・)


「鬼、俺を喰え。これから先、ずっと、何回でも俺はお前の為にだけ生まれてこよう。……何百回、何千回でも構わない。」


 この鬼が俺を恋焦がれて待つ。永遠に求め続ける……それは何と素晴らしい事か。


「その代わり、決して俺以外には手を出すな」


 俺以外の他の誰かに触れるなんて許さない。俺以外を求めるなんて許さない。


「十八年に一度、必ず俺の体をお前にくれてやる。お前が望む限り永遠に」

「そんな……」


 呆然と俺を見詰めて、その鬼は力が抜けたようにその場へ膝から崩れ落ちた。


「こんな体、欲しければ好きなだけくれてやる」


 より深く瘴気の強い風が吹き抜け、俺とその鬼の着物と髪を乱した。

 長く艶やかな黒髪が、鬼の顔を隠す。

 俺はその髪をそっと払い、冷たい頬に指を這わせた。思った以上に滑らかで、まるで吸い付くような柔らかさが、今までのどんな時より体中に喜びを満たす。


「……どうする?」


 その鬼は、俺の問いに答えるように、静かに俺の首元へ歯を立てた。俺はその鬼の体を左腕で抱き寄せ、己の体に力の限りに押さえつける。


「私は名を凪と言う。お前は……京、と名乗れ」


 名は、その存在の全てを縛る。

 だから、俺は鬼に名を付けた。



 京。



 この世で一番美しい彩りに輝く場所。だがその都より、お前のほうが遥かに紅が似合う。

 皮膚を突き破り、体内に侵入する異物。想像を絶するその痛み。俺は一瞬だが呻く様に声を上げた。

 自然と手に力が籠もり、封印をしたままの長刀が鞘の中でカチャリと小さな音を立てる。鬼の体にも、強く爪を立てた。

 だが、俺の中に生まれるのは痛みを打ち消して余りある喜び。もうこれで、誰一人として俺たちを引き離す事など出来はしない。

 ついに手に入れた。


 俺だけのモノだ。


 与えられる痛みは、俺の存在証明。俺は京を己の傍に留め、縛り付ける為ならば手段を厭わない。どんな事でもしてやる。

 例えそれによってどんな苦しみが訪れようとも構わない。俺は、京と生きる道を選んだのだから。

 だから、待っていてくれ。俺は必ずお前の元に戻ってくる。

 必ず。



 京の元に、お前の待つその場所に。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ