エピローグにしてプロローグ
学校から帰ると、珍しく母にお使いを頼まれた。
「下の公園で無駄に時間を潰してる、今にも死にそうな顔の男を連れてきて」
「……?」
「行けば分かるわ」
楽しげにクスクスと笑う母に私は少し驚いた。
だって私の記憶の中で、かつてコレほど母が楽しそうにしている姿がなかったから。あるのは物心がついた頃から毎日毎日、悲しそうな、苦しそうな顔で式を使っている姿。
今日で私は十六になる。
でもその間、私の記憶のある限り母がこんなに楽しそうに笑ったのを見た事がない。そして丘の上にある見晴らしの良いこの家に、誰か人を招くなどなかった。
母が誰か人と会うなんて……驚きだ。
少なくとも私が知っている限り、母は私と父以外の人とは決して会わない。どうしても会わなければならない時は、自分の姿を模した式を代理に立てるほどだ。
父が言うには、車椅子に乗っている弱った自分の姿を見せたくないのだろうとのこと。もしそれが知れれば、他の人たちにとって母を蹴落とす材料になりかねないから。
あと驚いた事がもう一つ。
私が出かけるのに、母が初めて式をお供に付けなかった。
それは私を一人前と見てくれたのか、または別の何かの考えがあるのか……。けれども、名実共に一人きりの生まれて初めての外出。
少しワクワクする。
「行って来ます!」
母の部屋を勢い良く飛び出す。その時、母の宝物であるカラクリ時計が寂しげなメロディを奏でた。あれ? あの時計は確か壊れてて動かないのではなかっただろうか。妙に小さな引っ掛かりを感じながらもそれでも初めての一人の外出は心を軽やかにした。
部屋を後にした勢いで玄関を抜け、大きな門をくぐり、坂道を下って突き当たりのT字路を左に曲がると、目的の公園。
高台にあるこの公園は、とても夕日が綺麗で私は大好きだ。遊具も殆んどない小さな公園だけど、空はどこまでも広く、眼下に広がる町もおもちゃの様で可愛い。
私はいつも通りに鼻歌交じりで公園に足を踏み込もうとしたがその瞬間、異様な雰囲気にビクリと体が震える。
何て言うのか……。とても悲しくて……空気の全てが涙を流している……そんな感じ。
ゆっくり視線を廻らすと、ベンチに一人の男の人が座っていた。
確かに、母が言った様に『今にも死にそう』といった表現がぴったりだ。
全く精気が感じられない。立てば背が高いだろうその体をベンチで小さく丸め、タバコに火を点けている姿は一種異様だった。
風が強く吹き付けて隣にあるブランコを揺らし、その人の髪を酷く乱してもその人はひたすら機械的にタバコの煙を吐き出す。
暗く、どんよりとした目はこの世界の物を一切映していないみたいだ。果たして私が声を掛けても大丈夫なのだろうか?
とにかく私はゆっくりその人に近付き、声を掛けるタイミングを計った。
「あの……大丈夫ですか?」
私の声に反応し無言でノロノロと上げられる視線。
そこへ秋の冷たくなった風が少しだけ強く吹きつけて来た。するとその人は驚いたように、がばっと顔を上げ、私を見るとポカンと口を開けて咥えていたタバコを落としてしまう。落ちた煙草はそのままコロコロと転がって何処かに消えた。
声を掛けるまで無表情だった人が、面白いほどにくるくると表情を変えて行く。かなり整った顔立ちなだけに、差し迫った妙な迫力があった。
けれどもやはり、最後は悲しげな顔に落ち着き苦しそうに眉根を寄せてしまう。
なんだかそれが私の目には泣いてる様に見えた。
「あの……泣いて、るんですか……?」
そう声を掛けた瞬間、その人の目から、スゥッと一滴の涙が零れた。本人も驚いたように流れた涙に触れて凝視する。
私は慌ててポケットからハンカチを取り出して、どうぞ、と差し出した。なんだかとても気まずい雰囲気だ。
私はとにかくこの場の流れを変えたくて、母の伝言を口にしてみる。
「あの……ごめんなさい、なんだか声かけ辛くて……母が呼んでます」
すると、その人は『母?』と呟いて眉間に皺を寄せた。私は更に不味い気分になり、思わず両手を胸の前で振りながら、慌てて言葉を繋いだ。
「えっと、その、私の母は仙道芳華です。私は娘で京華って言います」
「娘……?」
またぼそりとそう呟くと、私の顔を凝視する。どうしよう、次の言葉が見つからない。
しかもこの人……なんて言うんだろう? 不思議と前から知っているような、とても懐かしい感じがする。
でも私の記憶の中にはこんな海外のモデルみたいに背が高くて、綺麗な顔をした人は居なかったと思う。
知り合い、なのかな?
尋ねようかどうしようか迷いながら見ていると、突然その人の震える指先が私の頬へ触れた。
その途端、体中に広がるどうしようもなく、泣きたくなるほどの切ない感情。
「……ッ!?」
なんだろう……とても変な感じ。
胸の中が酷く騒ぐような、苦しい様な、靄のかかった記憶の中から答えを探しているような気分になる。
しかもその人は悲しいのに嬉しくて堪らないような、そんな複雑な表情で呟いた。
「……ったく、芳華の奴」
そしてほんの数秒だけ目を瞑ってから私に向けられた、思わず見惚れすには居られない程の眩しい笑顔。
「はじめまして、お嬢さん。俺は凪」
思わずドキン、と胸が鳴って、一気にカアッと頬に血が上る。まるで……そう、まるで瞬く間に深く激しい恋に落ちてしまったみたいに。
あぁ……どうしよう。
私、なんだか泣きたくて泣きたくて堪らない。
「あ、ハイ」
変だ、私、変だ。
真っ赤になった顔を隠すように、目に浮かんだ涙を自覚しながら慌てて傍を離れる。
「あの、凪さん! そろそろ母の所に行かないと……」
「あー……うん。また、どやされるな」
凪さんは面倒臭そうに頭を掻いた。
「い、行きましょう!」
スタスタと歩き出した私の後を凪さんがゆっくりとした足取りで着いて来る。心なしか、凪さんから先ほどの悲しい雰囲気がちょっとだけなくなった気がした。
理由は良く分からないけれど、私はそれに妙に安心する。
きっと私はこの日を一生忘れない。
動き出した時計、母が私の誕生日に凪さんを呼んだこと……この出会いが私のこれから歩む人生を大きく左右したことを。
そして時は、巡り出す。




