第一幕 別れ
楽しかった芳華と過ごす今日という日が終わりを告げ、とうとう私にとって最も大切で最も残酷な現実を思い出させる時が訪れた。
凪の誕生日。
そう。十八回目の今日だけは、過去の日々とは大きく違う。
今まではお互いに血をほんの少しだけ舐めあうだけ。それによって凪は他のあらゆる外傷を驚異的に回復させ、私は人として生きていく為に鬼としての本性を眠らせる。
けれども……十八回目この誕生日だけは、私が凪の肉体の全てを貪らなくてはならない。少量の血で本性を眠らせることの出来る期間は、せいぜい十八年が限界。
どんなに頭で分かっていようとも、この恐ろしい行為は、どんなに回数を重ねたとしても、決して慣れる事はない。
日付が変わり、あと二時間で私は自分を抑えきれなくなる。
「ごめんね、ごめん……。凪、凪、凪、ごめん」
涙が止まらない。心の痛みで悲しみで胸が張り裂けそうだ。こみ上げる嗚咽が喉を塞ぐ。苦しくて苦しくて堪らない。
「また、直ぐ会える」
温かく大きな手が、私の氷の様に冷たくなった頬に触れ、堪えていた感情が凪の触れた所から体中に電流のように走り抜けた。
もう、駄目だ。
私は息苦しいほどに締め付ける胸の痛みに突き動かされ、凪の胸に縋り付いた。
「凪、凪、なぎ……」
「ほんの少しの別れだ。笑ってくれ」
「……っふ」
微笑もうとして、失敗したくしゃりとつぶれた瞳から涙が溢れる。
リンリン、リリン…。
午前二時の訪れを壁に掛けたカラクリ時計が告げる。軽快に流れるメロディ。凪が子供のころに欲しがった、そして芳華にあげると約束した時計。
『京、京、この時計、凄いんだ! 月と太陽が入れ替わったり、馬と鳥が入れ替わったり。な? 綺麗だろ?』
凪は知っていたのだろうか? この時計は悲しいお伽話が元になっていることを。
鳥は妖精の王女、馬は人間の青年。
許されぬ恋に落ちた二人。
それ故に。
お互いを求めたが故に……王女は昼間は鳥に、青年は夜には馬へと姿を変えられる呪いを受けた。二人は思いを伝え合う言葉を失い、共に抱き合う腕を失い、夜と昼の狭間、夜明けと夕闇の狭間にある、ほんの短い間でしか人の姿で出会うことが出来ない。
肩を並べて手を取り合い、想いを伝え合い、生きることを禁じられた悲しい二人。
「時間だ、京」
「なぎ……」
私は己の体の変化を感じ取る。人の形から異形の者へ。だが、瞳から流れ出る涙は決して涸れることはない。
「京、俺は必ずお前の元に帰ってくる。必ず。……だから、待っていてくれ」
メキリ、と己の骨が軋む。
激しい体の痛み。だが、それを遥かに上回る心の痛み。私の脆弱な心は今にもその痛みに押しつぶされ、粉々に砕け散ってしまいそうだ。
嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ!!
「ぐぅぅ…な…ぎィィ…!」
私の狂気の唸り声は虚空に響く。どんなに抗い、しがみ付こうとも人間としての理性も自我も全て失われていく。薄れ行く意識の端に、凪の優しい微笑と、その唇が最後の言葉を紡ぎ出しているのが見える。
その言葉はかつて幾度となく、凪が最後の時に私へと向けてくれたもの。
だが、決して私の耳には届かない只ひとつの言葉。
どんなに時が経っても、どんなに耳元で囁かれても、私の耳にその言葉が届く事は永遠に訪れる事はないだろう。
『グアァァァ…!』
異形の者となり、我を忘れた私の口から鋭く伸びた牙が、凪の無防備な喉元に躊躇なく食い込み、柔らかな肉を突き破って固く連なる骨に達する。
ゴキン、鈍い骨の折れる音が部屋に響いた。
その瞬間、とても言葉では言い表せない快感と悦楽が、私の体を駆け抜ける。この十八年、抑え付けて来た欲望が果たされる喜び……。
もう、何も考えられない。
私は夢中になって歯を立て、喰い破り、咀嚼して飲み込む。
肌から立ち昇る温かな匂いも、赤く滴り落ちる温もりもやがて温度を失い、只の肉塊と変わり果てる。
部屋の中に充満する鉄臭い香り。
くらくらする。
『フウゥ……』
ジワリと潮が満ちる様に、体中に充足感が染み渡っていく。
これ程まで湧き上がる歓喜に打ち震える味があるだろうか?
『アア…アァ…オイシイ……』
この世に存在するどんな物よりも、私を酔わせて虜にする。
だが、同時に妖異となっても少しだけ残った、人としての私の脳裏に十八年分の記憶が眩しい瞬きとなって甦る。
凪の幼い頃の笑顔、初めて歩いた瞬間、凪が記憶を取り戻した日、十七回のクリスマス、十七回の誕生日、十八回の正月。笑って、泣いて、互いの温もりを抱きしめ合って過ごした十八年。
様々な記憶が怒涛のように押し寄せ、一瞬にして過ぎ去って行く。私が今の私で居る限り何度も何度も繰り返される凪との出会いと別れ。
もし私が人であったならば、人でさえあったならばと、どんなにそう願ったか。
しかし、どんなにどんなに乞い願っても、大切な者を己の爪で牙で引き裂き、肉の一片、血の一滴、髪の一筋すら残さず喰らい尽くしてしまう。
頬に伝うのは悲しみの涙。
唇の端に浮かぶのは、愉悦の微笑み。
その時、私の中にある人の心は血の涙を流し、悲鳴を上げる。だが、鬼である私のもう一つの心は、凪と真の意味で一つになれた喜びに打ち震える。
私だけの、凪。
ぴしゃり、ぴしゃり……異様に伸びた舌が最後の一滴まで全てを舐めとる。
「な……ぎ……」
やがて私は人の心を取り戻し、異形から人の姿に戻りつつあった。長く伸びた爪が、己の所業に怯えて体を抱きしめる両肩に深く食い込んで行く。
そう、これが私の決して許されない罪。
未来永劫、どんなに乞い願ったとしても、その罪は消える事はない。
ごめんね、凪。
それでも私は凪と共に生きたい。
人ではない私が凪と共に生きるには、凪を私の傍に止めて置く為には……こうする他に方法が見つからない。
命の限りがある人とは違い、終わりを持たない私は、余りにも長すぎる時間を有しているから。だから私の行為が例えどんなに凪を苦しめても、それを分かっていたとしても、凪に甘えて縋り、諦めきれない。
直ぐ傍にある温もり、触れることの出来る喜びをどうやって忘れられよう? けれど、それは束の間の安息。手に入れては、直ぐに失う。それなのに、求めずにはいられない。
なんと浅ましい想いだろうか。最も大切な人に痛みを強いる私の想いとは、どれほど捻じ曲がっているのだろう……?
それでも凪の居ない世の中など、私には考えられない。
「ぅっ……」
ガランとした殺風景な部屋。
残っているのは壁に掛かった時計と、部屋の隅に立て掛けてある凪の長刀。
私は時計を壁からそっと外し、電池を抜いてその上に一枚の紙を乗せた。
芳華にさようならを、言えなかったから。
初めて出来た友達、芳華は人で在りながら辛い宿命を負って居る。本当ならば友として傍にいて、支えてあげたい。でも、私にそんな資格などが在る訳はなく……ともすれば、私の存在がやがて彼女の立場を危うくするだけだ。
鬼である私は人である芳華と共には生きては行けない。
私は私の妄執によって凪を傍に縛り付けて置きながら、芳華には人として幸せに生きて欲しいと願っている。
ごめんね、芳華。
約束したのに。
一人にしないと、黙って消えたりしないと、約束したのに。
街灯の薄蒼い光が部屋の中に差し込む。その光が、床に置かれた時計に短い影を作っている。何を思うでもなく、私はその光景をボンヤリ眺めていた。はたしてどの位の時間が経ったのか、私は漸く苦い涙を拭うと、重い体を引きずりながら玄関の扉をゆっくりと押し開ける。
溢れる思い出を宿した部屋に背を向けて、私は暗い闇へと足を踏み出した。
手に、幾重にも厳重に布を巻かれた凪の長刀を携えて――――。