プロローグ
淡雪のように儚くて、直ぐに溶けてしまう幸せたち。
人間ですらそうだと言うならば、こんな私などが抱く夢など……まるで泡影。
瞳を閉じる一瞬でその終わりを告げる。
せめてあと少し。
ほんのひと時でいい。
どうか…………。
どうかこの瞳を開くまでは消えないで――――――。
始めて出逢った時から、どれ位の時間が経ったのだろう?
数十年? それとも数百年?
それでも私の想いは変わらない。
はるか昔、私の前に現れた一人の侍。
長い、それこそ、とても長い刀を携えていた。
その者の腕ならば私を切って捨てる事など、そこらの草を刈り捨てるのと同じに違いなかったはず。なのにその者は刀を抜くでなもく、脅しをかけるでもなく……静かに私にこう訊ねてきた。
お前の望みは何だ? と。その瞳は鏡面の湖の如く穏やかで、驚くほど真っ直ぐに私を見詰めていた。
あのとき私は逃げるべきだったのだろうか。
しかし当時の私は彼の者の熱く燃え盛る炎のような強い瞳の力に抗うことができなかった。まるで足が大地に縫い付けられたみたいにその場に立ち尽くした。
当時の会話の内容など思い出せない。けれども、その時に言われた言葉だけが未だに私の魂を縛り付ける。
『これから先、ずっと、何百回、何千回でも構わない。俺の体をお前にくれてやる。お前が望む限り、永遠に――――……』
その言葉と同時にゆるりと侍の掌が頬に這わされ、まるで押し出されるかの如く私の内に溜まっていた孤独が涙となって零れ落ちた。
不思議に思う。
何故、私はその者の言葉を信じたのだろうか。理由は今でも分からない。けれども私はその者の言葉を信じた。
約束を破る事など、何時でも容易に出来る。どちらからでも、そんな簡単な口約束など破る事は容易い。
だがどんなに時が経とうと、果たされ続ける……約束。
そしていつからか、私は相手を傷つけることが怖くなった。同時に己の中にある狂おしいまでの想いに身が焦がれる。
いま私の手の中にあるのは、蜘蛛の糸ほどに細い繋がり。それを守り続ける為ならば、どんなに苦しみを重ねようと、たとえ身が引き裂かれるよりも激しい心の痛みと引き換えだったとしても構わないとさえ思う。
ただ私は、貴方の傍に居たい。
「ねぇ京! 凪はバイトなんだから、今から映画観に行こうよぉ~」
子猫のように私の首に友達の芳華がじゃれ付いて来た。意識したつもりはない、でも……自然と生唾をゴクリと飲み込んでしまう。
「でも凪が帰ってきた時に、誰も家に居ないんじゃ……ね?」
「いいじゃん、いいじゃん、大丈夫だって! 凪は強い男の子だから!! ね、行こうよ~」
「ダメだよ芳華、明日は凪の誕生日なんだから準備しないと」
「え~、ツマンナイ! 京はいっつも凪ばっか! エコヒイキだよー」
クリッとした二重の目が、不満そうに細められる。
「そんな事はないよ。なら……」
私は精一杯の友情の証しとして、部屋中に視線を廻らせ相応しい物を探す。
「そう……あの時計。芳華が欲しがっていたアレをあげる。でも、ごめんね? 渡すのは明日。きっと黙って渡したら凪が怒るから。ね?」
元から愛らしい顔立ちの芳華が、その表情をまるで大輪の花が咲くようにパッと輝かせた。
「ホント? わぁ~嬉しい! やっぱり私、京が大好き!!」
「……私も、芳華が好きだよ」
私の正面に回りこみ、芳華はしっかりと私の背に手を回して抱き付く。私もその抱擁に応えるように、彼女の背をしっかり抱き返した。
でも。
“約束の日”が近付くにつれ、私の中にとても静かで、暗い感情が湧き上がる。それはまるで……ゆるゆると真綿で首を絞めるように、私を侵食していく。
直ぐに変化が訪れる訳ではない。だが、確実に染まっていく。
そして、どうすればソレを消せるのかを私は……知っている。
『良イ匂イ……』
頭の隅で聞こえる声。
私はその言葉を意志の力で押さえ込む。
『美味ソウ……』
それでもしつこく声は続ける。私を煽ろうと、甘言を弄して己の欲望を……渇望を……遂げようとする。
負けるものか。
体の奥底に眠る、禍々しい欲望。お前など、二度と目覚めなければいいのに。ギリッと私は己の唇を噛み締めた。
オマエなど永遠に目覚めなければいいのに。でも…………。
その時、玄関が激しい音を立てて開け放たれた。
「フザケンナよ? 芳華。コレじゃちっとも腕の錆び落としにもならない! どうせならもっとマシな仕事を寄越せ。あんなの秒速の速さで終わっ……。で? なんでお前は、俺の京に抱き付いてるんだ?」
「あぁら。随分早いお帰りねぇ? もう少し時間掛けてくれないと困るンだけどぉ?」
「ほぉぉ。なら言うが、俺は京が頼むから、仕方なくお前を手伝ってやってるんだぞ?」
「べっつに、いいじゃな~い。それでアンタもお小遣い稼いでるんだしィ? ナンか他に文句が言えるモンなら言って見なさいよ」
「じゃぁ遠慮なく言わせて貰うがな、俺はお前が大嫌いだ」
「あら、奇遇ね。私もアンタなんか大嫌いよ」
凪と芳華、二人の言葉だけを捕らえればきっと犬猿の仲なんだと思う。でも、不思議と二人の間にはソレを楽しんでいる節がある。
「本当に、二人とも仲がいいねぇ」
私が二人の言い合いを眺めてそう呟くと、凪と芳華が同時に私に向き直り、声をステレオのように揃えて言った。
「「違う!!」」
「そう? 私は仲が良いと思うんだけど」
むぅ……と黙り込んでお互いに睨み合う。
どうして私がそう思うのか? 理由は酷く簡単で単純な事。これまでの長い間、凪は一度たりとも私たちの関係に他人を入れる事はなかった。特に芳華の様な家系の人間は、一切私に寄せ付けたりはしなかった。
それなのに凪は何だかんだ言っても、芳華が私に逢う事を赦してくれる。力を貸してあげてと頼めば、文句は言うが嫌だとは言わない。
芳華だって、凪を嫌いだと言いながらも凪を頼り、必要とあらば教えを請う。そんな事、本当にお互いを嫌いあっているなら、出来る筈はない。
私は仲の良い二人の姿を見る度、身に過ぎる幸せを少しチクリとした胸の痛みと共に感じた。
でも……もうすぐ、その幸せを私は私自身の手によって壊す事になる。
笑っていながら、私の心は恐ろしい渇望に飲まれて行く。大切な者の命を己が手で奪う痛みは、当事者にしか分かる事は出来ない。どんなに抗いたくとも抗う事の出来ない……その事実が私を内側から引き裂く。
いっそ、消えてしまえれば良いのに。
けれど私の浅ましい夢は、そうと知りながらも私の魂を惹き付けてやまない。
お願いです。
どうか。
私の夢は、只一つ。
……どうか。
お願いです。
…………どうか。
叶えてください。
私の本当の夢は…………。