安寧の地を求めて
去りゆく仲間の背を見送った。
どうか、無事でいられますように……。
「……行ってしまいましたね」
「仕方ないさ。ここも万全じゃない」
メリットもあるし、デメリットもある。自分たちはここを選んだが、他の場所を望む者がいるのは当然だ。
「行っちゃったの?」
住処に戻ると、幼い子どもが不思議そうに見上げてきた。
「うん。行っちゃったよ」
「どうして?」
その問いには、疑問と心配が混じっていた。
きっとこう訊きたいのだろう。
どうして――危険な場所に行っちゃうの?
~*~*~*~
この世界は水害が多い。定期的に来ると言っても過言ではない。
しかも、多くはただ水が押し寄せるだけではない。悪魔のような泡が先にやってくるのだ。
どこからともなくやってくるその泡は、刺激臭が強く、呼吸もできなくなれば、眼も開けていられなくなる。さらに、触れると焼けるような激痛が走る。
逃げ遅れようものなら、泡に包まれ弱りきったところに大量の水が押し寄せ、流されてしまう。
水だけなら住処に入っていればある程度は防げるのに、その泡はとても凶暴で、住処も根こそぎ奪っていく。
これまでに何千、いや、何万もの仲間があの泡の犠牲になった。
安全に暮らせる場所はないのだろうか?
あの泡が届かない場所はないのだろうか?
誰もが思い、願い、探し続けた。
そして、ようやくたどり着いたのが、この住処だ。
銀色の大きな石に覆われたこの場所には、しかし小さな隙間があって、なんとか我々が出入りすることができた。
身動きもとれないようなわずかなスペースを、少しずつ少しずつ広げ、住めるようにした。
しかし、元が狭い上に工事も思うように進まない。結果として常に必要最小限のスペースしかなく、その狭さを嫌がる者もいた。
一度は住もうとしたが、調達できる食料が少ないからと、すぐに出ていく者もいた。
それでも、と残った者たちが子どもをつくり、住処を広げ、少しずつ我々は増えていった。
だが、狭く食料も少ないことは変わらない。
だからたまに、ここで生まれても他の住処を求めて出ていってしまう者がいる。
間違っているとは思わない。
他の土地でも、あの泡がやってこない場所があるかもしれない。泡が来てもうまく逃げることさえできれば、ゆったりとした場所で食料にも困らない生活ができる。
我々は、土地の広さよりも食料よりも、安全を採っただけだ。それも餓死と隣り合わせなので安心とは言えない。住処を広げる工事が遅れれば、身を隠す場所が足りなくなる危険性もある。
だから、他の住処を求めることが間違っているわけではない。考え方が、少し違っただけだ。
質問をしてきた子にはそう説明し、大きくなったら自分で選びなさいと言った。ここに留まるか、他を探すか。
難しい顔をして考え込む子どもの頭を撫でながら、それでも――と思った。
それでもやはり、この場所を選んだのは間違いではなかった。
ここに来る前なら、大きくなったら、なんて言えなかった。大人も子どもも関係なく、あの泡はさらっていってしまうのだから。
泡の来ないこの場所は、やはり安全なんだ。
そう信じていた。
~*~*~*~
銀色の石の下にいても、音と振動で泡が来たのはわかる。
そのときは、できるだけ入り口から離れ、身を寄せ合い、静かになるのをじっと待つ。
「…………治まった、か……?」
石の上からの音がやんでから、数分が経った。もう、大丈夫だろう。
はぁやれやれと離れていく皆に声をかける。
「いなくなった者はいないか?」
すぐに入り口に一番近かった者から「大丈夫だ」と返ってきて安堵した。
「でも、すぐそこまで泡が来ていた。もっと広げないと……」
「そうだな……」
石のある方向には広げられない。泡から守ってくれる盾だから、という理由もあるが、そもそも硬すぎて削れなかった。住処を広げるときに使う酸も、あの石には効果がない。
削るなら下だ。それも入り口からできるだけ離れた場所。
狙う場所は決まっているし、すでに着工もしているのだが……。
「工事の進み具合は?」
「よくないよ」
確認しようとしたら、顔をしかめながら即答された。
「飯が足らなさすぎる。こんなんで速く進めろとか無理だ。酸だって足りないんだぞ」
苛立った声が現状の厳しさを訴える。
泡や水を防いでくれる石は、食料も同じように遮ってしまう。
石から出れば食べものはあるが、泡が来ても逃げられる範囲内で調達できる量は少なく、満足に食事をとれたことなどない。
そして食べなければ、地面を溶かすための酸も作れない……。
「……よし。しばらくは工事チームに少し多めに食料をまわそう。十分ではないと思うが、なんとかそれで頑張ってくれ」
他の者にいつも以上の空腹を我慢してもらうことになるが仕方ない。安全確保が第一だ。
「食料を探す範囲を広げましょうか?」
食料調達チームの若者がそう言ってくれたが、首を横に振った。
「遠くに行けばそれだけ泡に襲われる危険性が高まる。許可できない」
過去に探索範囲を広げたとき、何人もの仲間が帰ってこなくなった。同じ轍を踏むわけにはいかない。
工事チームの現場監督も、食料調達チームの若者も、“納得しきってはいないが仕方ない”という顔で下がった。
「――とりあえず、今日できるぶんはやっちまうか」
現場監督の声で工事チームが動き出す。
わずかに残っていた酸を工事途中の穴に撒き、道具を準備しながら地面が軟らかくなるのを待つ。
そのときだ。
――おい、なんの音だ?
誰の声かもわからない。どこから聞こえたのかもわからない。
だが、その声が聞こえた次の瞬間――
全員が迫り来る轟音に気づき、顔を上げた。
~*~*~*~
「逃げろっ!」
咄嗟にそう叫んだが、どこに逃げればいいのかは自分でもわからなかった。
鼓膜が破れそうな激しい金属音が、住処を守る銀色の石から聞こえてきた。立っていられないほど地面が揺れた。
なにが起こっているかなんて考える余裕すらなかった。
耳を塞ぎ、体を丸めてうずくまるだけで精一杯だ。
皆の安全を願いながら待つこと数十秒。音が、やんだ。
「なんだったんだ……?」
誰かの声は、その場にいる全員の思いを代弁していた。
「石になにかがぶつかったようだったが……」
「あんなに長い間? ずっとぶつかり続けるなんてあり得るのか?」
「じゃあ、なんだって言うんだよ?」
不安からか険悪なムードが漂い始めたとき、ものすごい衝撃が住処を襲った。
「な、なんだ……!?」
再び地面に手をつき、上を見上げる。
住処を守ってくれている銀色の石から、破壊的な音が響いてくる。
ほどなくして音はやんだ。
だが、今度は誰一人として立ち上がらなかった。
誰もが息を呑み、銀色の石を見つめていた。
その視界に、いきなり大量の光が差し込んできた。
思わず目を閉じたが、まぶたの裏からでもその光の強さがわかるほどだった。
慣らしながらゆっくりとまぶたを開き、見えた景色に目を疑った。
「石が…………」
住処を覆っていた石が、泡から身を隠してくれていた石が、我々を守ってくれていた盾が――なくなっていた。
あれがなければ我々は、泡と水にさらわれてしまう。
石はどこに? なぜなくなった? あの音は――
押し寄せる疑問で固まりそうになった身体を、首を振ることで無理矢理に起こす。
――違う。今はそんなことを考えている場合じゃない。
「全員、身を隠せ!」
これまでは石が住処を覆っていた。住処にいれば身を隠していられた。
あえて身を隠すことなど考えなかった者たちが、「身を隠せ」と言われたところで、どこに行けばいいのか。
そう思われることはわかっていて、それでも叫ばずにいられなかった。
危険が迫っている。
本能がそう告げていた。
ウィィィィィィン……
空の彼方から音がした。
どこかで聞いたことがあるような気がした。
思い出せないのに、背中が粟立ち、口の中が乾いていった。
「にげろ……逃げろ!」
叫び、走る。
音がもう間近に迫っていた。
嵐の中にいるような轟音が我々のすぐ上で回っていた。
竜巻かと思った。
しかし中心に塊があった。その塊が高速で回転しているのが見えた。
「ドリ、ル…………?」
気づいた瞬間、血の気がひいた。
我々の身体の何百倍もの大きさのドリルが、空から近づいてくる。
「逃げろ! 早く、逃げるんだ!」
ドリルを見つめて動けなくなっている者たちに向かって叫ぶ。
叫ぶだけ叫んで、逃げた。自分の身を守ることに専念した。
身を隠せそうな溝を見つけて滑り込んだその瞬間、轟音を立てながら地面が揺れた。
呼び寄せる間もなかった。振り返る間もなかった。
同じ溝に入れたのは十数人。他の者はどうしただろう。
何人があの場に残っていたのか。何人が、犠牲になったのか。考えたくもなかった。
跳ねるように地面が揺れる。
身体中が震えるほどの音が響く。
水しぶきが飛び、どこからか現れた巨大なトンネルが色々なものを吸い込んでいく。
なにが起こっているのか。
どうやったら助かるのか。
考えても、わからなかった。
無事でいられるように、祈ることしかできなかった。
目を瞑り、歯を食いしばり、ただ、無事を祈った。
本当はきっと数分だったのだろう。
我々にはとてつもなく長い時間のあと、唐突に音はやみ、地面の揺れもおさまった。
恐る恐る住処だった場所を覗くと、何十人もの仲間が無残な姿で転がっていた。
きっと、それだけではない。
何人かはあのトンネルに吸い込まれている。
甚大な被害が出た。
それなのに、どうしてだろう。
まだ背中が粟立っている。まだ危険だと本能が告げている。
「あのひと、生きて……」
隣から声がした。
はっとして目を向けると、倒れていた仲間の一人が、立ち上がろうとしていた。
血まみれで満身創痍だが、生きていた。
絶望に沈んでいた空気が軽くなり、同じ溝に隠れていた仲間が一斉に駆けていった。
その瞬間――
差した影にぞくりとした。
「待て! 行くな! 戻れ!」
咄嗟に出した声はきっと届いていた。
だが、間に合わなかった。
見上げた先にあった分厚い雲のような塊の不気味さに、全員が固まった。
「戻れ! 戻れ――――っ!」
雲の塊が落ちてきた。
住処だった場所にいた全員が押しつぶされた。
満身創痍で立ち上がった仲間も、その者に駆け寄った仲間たちも、皆――つぶされてしまった。
「あ、ああ…………」
生きていたのに。
立ち上がろうとしていたのに。
絶望をもたらした雲が空へと戻っていく。
その雲の不自然なまでの白さは、定期的に襲ってくる泡の白さによく似ていた。
~*~*~*~
倒れている仲間の数が減っていた。
起き上がろうとしていた者も、その者に駆け寄ろうとしていた者たちも、何故だか姿が見えなかった。
「……う…………」
かすかなうめき声が聞こえ、はっと目を向ける。そして――見えたものに、目を見張った。
「あ……たす……け…………」
身体の、後ろ半分が溶けていた。頭も、一部がなくなっていた。
こちらに合わせたままの瞳から光が消える。もう、声は聞こえない。だが、身体は溶け続けた。
その周囲にも、溶けかかった遺体が散らばっている。どろどろと広がっていく。
我々が住処を広げるために使う酸など比べものにならないほどの威力だ。きっと、あの雲に入っていたのだろう。
起き上がろうとしていた者も、その者に駆け寄ろうとした者も、おそらくはもう、跡形もない――
呆然としそうになったそのとき、ふと地面が動いた気がした。
揺れているのではない。世界そのものが、動いているような感覚。
我に返り、咄嗟に岩の隙間に逃げ込んだ。
刹那。
大量の水が押し寄せ、流れていった。
すんでのところで助かったことに安堵し、それから思った。
どうして私は、まだ生きているのだろう。
皆、死んでしまったのに。
巨大なドリルで散らされ、雲に押しつぶされて、強力な酸に溶かされて、死んでしまったのに。
私だけが生きて、なんになるのだろう――
ひいていく水に誘われるように、ふらふらと外に出た。
また水が来たら、そのまま流されるのもいいかもしれない。
そんなことを思っていた。
世界が動く。
光が差し込む。
次はなにが来るのだろう。
――いや、なんでもいいか。
もうあの暮らしには戻れない。
安全だった住処は地獄と化した。
ともに暮らしていた仲間は死んでしまった。
だから、もういい。もう、いいんだ。
静かに、次の天災を待っていた。
明るくなった空から振ってくるなにかを、すべて受け止めるつもりでいた。
突然、怒鳴り声が聞こえてくるまでは。
~*~*~*~
「なにやってんですかっ! はやくこちらへ!」
驚いて目を開けると、かつての仲間の手が私に向かって伸ばされていた。
その昔、他の土地を探すと言って、住処を離れていった者だった。
生きて、いたのか……。
驚きと喜びで思考が戻り、気づいたら走っていた。
走って、伸ばされていた手をつかみ、引っ張られながら岩の隙間へと身を滑らせた。
「ここはまだ危険ですので、もう少し移動します」
再会の挨拶もなく、すぐに背を向けて歩き始めた。その背中はたくましく、別れてからの年月を感じた。
「ここ“は”って。まるで危険ではない場所があるような言い方だな」
あれだけの大災害だ。どこも尋常でない被害が出ているだろう。
そう思って言ったのだが、前からは意外な言葉が返ってきた。
「いま危険なのは、あの場所だけです」
「………………え……?」
「ずっと見てました。明るくなった空から、馬鹿でかいドリルが降りてくるのも、変な雲が降りてくるのも。
どちらも、狙ったようにあの場所だけに降りていったんです。洪水は他の場所にも来ましたが」
信じがたい内容に言葉を失った。
あの場所だけ。あの住処だけ。安全だと思っていた、あの住処だけ――
信じられない。信じたくない。
だが確かにこの周囲には、同じ災害が起きた形跡がない。あの場所からさほど離れてはいないというのに。
「……たまに、あるそうです。ほんのわずかな地域だけ、謎の物体に襲われることが」
「……それが今回は、あの場所だったということか……?」
こくりと頷くように前にあった頭が下がった。
「外に出てわかりました。あの住処は、本当に安全な場所でした。他の場所では頻繁に泡が来て……毎日、何人もの仲間が死んでいくのが当たり前なんです。一緒にあの住処を出た奴も、流されました。
だから……あの住処にいたことを間違っていたと思わないでください。今回は、運が悪かっただけなんです……!」
悔やみそうになったことを、先回りされた。
この者は、本当にずっと見ていたのだろう。住処が破壊され、仲間が無残な死を迎える様子を。
なにもできず、見ていたのだろう。私のように――
「……すまない」
謝罪の言葉を口にすると、「え?」と振り返られた。
その瞳が赤く潤んでいることに気づき、もう一度「すまない」と言った。
「……私は、どこかで馬鹿にしていた。あの住処を離れる者を。安全に勝るものなどないのに、と。
だが……このざまだ。誰も、守れなかった。あの場所が安全だと盲信していたからだ」
あの住処を離れた者たちはきっと、気づいていたのだろう。
確実な安全などどこにもないということに。いつか、安全は崩されるということに。
「……“間違ってはいない。考え方が違うだけだ”」
聞こえてきた声に顔を上げた。前を歩いていた者が、足を止めて私を見つめていた。
「あの住処に住んでいるときに、何度も何度も聞いた言葉です。いつもそのあとに言われました。自分で選びなさいって。この場所に留まるか、他を探すか。
他の人にもずっとそう言ってたんでしょう? だったら、他の人の命まであなたが背負う必要はありません。
自分たちで選んだんです。あの場所に残るって。自分たちで選んだんです。誰も――あなたを恨んでなんかいませんよ」
静かな声が心にしみる。
――まったく。生意気になったものだ。
そもそも危険な場所があそこだけならば、遠くで見ていればいいものを。
たった一人で――助けに来るなんて。
「……さっきから、慰めようとしてくれているのか?」
「え? いけませんか?」
「いくつ違うと思っているんだ。生意気に。――ほれ、急ぐんだろう? はやく行くぞ」
「ちょ、勝手に行かないでくださいよ。どこ行くか、わかってないでしょう?」
「どうせまっすぐ行けばいいんだろう」
「そうですけどっ」
年配者を押しのけるようにして前に出た若者の後を追う。
こちらの気持ちがわかっているのか、若者はそれ以上なにも言わなかった。
~*~*~*~
ここです、と連れてこられた場所は、どこにでもある黄みがかった白い岩と岩との隙間だった。
「色々回って、ここに落ち着いたんです。他の場所よりは泡も届きにくくて、食料もそれなりに手に入ります。
子どもも、生まれたんですよ」
背中を押された小さな子どもが、恥ずかしそうに「はじめまして」と挨拶をする。
同じ住処には他にも何十人もの仲間がいるようだ。
「住処を広げる工事も始めたんです。もっともっと増えますよ」
見せてもらった現場には酸も多く、順調に工事が進んでいる様子がうかがえた。
「いい住処を見つけたな」
褒めると、照れ臭そうに笑った。
負けていられないな……。
かつての住処は、あのあと真っ白なセメントのようなもので覆われてしまった。
だが、いつか必ずいい住処を見つけだし、絶対にここよりもでかくしてやる。
新たな目標を抱き、この世界で生き抜く決意を新たにした。
見上げた空は暗いまま。
もう、天災は落ち着いたのだろう。
死んでいった仲間を想い、静かに目を閉じた。
~*~*~*~
「銀歯の下にあった虫歯は削り終わりました。問題がなければ次回、型を取りましょう。
あと、上の歯の隙間に小さな虫歯ができているようなので、それも治していきましょう」
空から聞こえてきた低い音。
それが新たな天災を予告していたとは、誰も思わなかった。
<了>