閑話 ある日の高島家
俺が乱世の貴族、アルス・ヴェルシュタインに転生し波乱万丈な人生を送る以前――日本の一般家庭に姉弟の第二子、高島圭一として生まれ、いつもと変わらない日常を過ごしていた頃の話。
既に七月も終わり、家の外ではアブラゼミが大合唱している。
今日は平日の昼間。夏休みに突入している学生とは違い、社会人である両親は仕事で不在。
共働きである両親の代わりに、台所で自分と姉の食事を用意していた。
「――姉貴!飯が出来たぞ!」
二人分の食事が完成したので、二階の部屋に引きこもっている姉貴に呼びかける。
――姉貴も俺と同じく学生で、二週間ほど前から夏休みに突入。それをいいことにここ数日、クーラーの効いた自室に閉じこもっていた。
呼びかけの返事は、トントンと軽快に階段を駆け下りる足音によって応えられる。
「――うわ、また、そうめんなのね」
今日初めて顔を見せ、食卓の皿の上に盛り付けられた素麺を見た、姉貴の第一声がそれだった。
「中学生にまともな料理を期待するなよ」
――俺は料理が趣味のハイスペック設定なラノベや漫画の主人公ではないんだぞ――
「文句があるなら姉貴が作ってくれよ」
「だが断る」
お約束のネットスラングを口にしつつ、向かいの席に腰掛ける。
――姉貴の本名は、高島沙希。
歳は今年で一六歳の高校二年生。齢十三の中学一年である俺より三、四歳年上になる。
腰まで届く黒髪をポニーテールに纏め、僅かに吊り上がった目尻が印象的だ。
「圭一は、午前中何していたの?」
箸で素麺を器用に掴みながら、姉貴が何気なく訊いてくる。
「寝ていた」
「……じゃあ、午後から何かする予定でもあるの?」
「特に無いな」
暇つぶしにゲームでもして、飽きたら漫画かラノベでも読もうかと思っているぐらいだ。
「戦略なきは座して死を待つが如し、よ」
唐突に姉貴がそんな言葉を呟いた。
「また孫子かよ」
姉貴は日頃から孫子の兵法を引用する癖がある。
「人生の夢、目標という戦略的視点を持たないと、ただ死ぬことを待つだけの人生になるわよ」
「御大層にのたまう姉貴には、将来の夢か目標でもあるのかよ?」
「歴史に名を残すことね」
流石中二病――よくもまあ、こんなにこっぱずかしい事を口に出来るものだ。
「確かに姉貴は、それなりに才女なのだろうけど……」
姉貴はこう見えて、中学の時、一年で女子剣道の全国大会ベスト四の成績を残した才女だ。勉学の方も、県内有数の進学校で学年上位をキープしている。
「でも、その程度だ。まず無理」
「無理なら目指してはいけない?」
鋭い瞳で見据えられる。
――相変わらず、姉貴は負けん気が強い――
「……だったら、今まで何していたのだよ」
その瞳に内心たじろぎながらも、どうにか口を開いて反論する。
「歴史を調べていたわ」
「歴史?」
「特に戦争のね」
「……馬鹿じゃないか?」
ここは二十一世紀の日本だぞ?
「戦争の歴史なんて調べて何になるんだ。時代錯誤過ぎるだろ」
「そんなことないわ。戦争の歴史を学ぶことは、歴史に名を残すという目標から、些細な日常生活にまで幅広く役に立つわよ」
「は?日常生活?戦争の歴史がどうして日常生活の役に立つんだよ」
すると、姉貴は口元を歪めて言う。
「例えば〝高島さんてさ、ちょっと勉強やスポーツが出来るからって調子乗ってない?〟って陰口を叩くクラスメイトが盟主の陣営を内部崩壊に追い込むことが出来るわ」
「お前は一体、何と戦っているんだ?」
「クラスメイトよ」
「いや、クラスメイトと戦うなよ」
姉貴の高校生活はどうなっているんだ?戦国乱世なのか?
「そんな時に、寡兵で大軍を破った戦争の歴史から学んで学校生活に生かしているわ」
「……友達作れよ」
寡兵って、姉貴ボッチなのかよ。
「もっと外交努力しろよ」
友軍なく孤立している時点で、戦略的劣勢じゃねえか。
「少数には少数の利点があるのよ」
機動力や練度の高さとか、と姉貴は後を続ける。
「〝兵は多きを益とするにあらざるなり〟と孫子も言っているしね」
「孫子は絶対そういう意味で言ったのじゃないだろ」
――孫子には詳しくないけどそれぐらい分かるぞ――
幼馴染にして、俺の知る限り最も才女である汐璃が〝沙希さんは生まれる時代を間違ったわね〟と言っていたが、アレは姉貴の軍事的才覚ではなく、社交性のないこの性格の事を言っていたのかも知れない。
「……喋り過ぎね、ご飯を食べましょう。折角の料理が冷めてしまうわ」
「いや、素麺は最初から冷えているから」
俺は突っ込みつつも、その雑な誤魔化しに便乗して、食事を再開する。
――二人で黙々と箸を進めていると、姉貴が数分もしないうちに再び口を開いた。
「……暇だし、戦争の話でもする?」
「いや、何でだよ」
どうして話題が戦争しかないんだ。物騒過ぎるだろこの女――
そして、どんだけ喋りたいんだよ……
もしかしてアレか?……学校で喋る相手が居ない反動で、会話に飢えているのか?
「そうね、三方ヶ原の戦いの話をしましょう」
「……結局、俺の意思は無視かよ」
三方ヶ原の戦い――上洛の途上にあった武田信玄率いる武田軍を、後の征夷大将軍、徳川家康が迎え撃ったが結局敗退した戦い……と教科書に書いていたと思う。俺のガバガバな記憶力では、戦いまでの詳しい経緯までは分からない。
「信長包囲網に参加すべく上洛の途上にあった武田信玄にとって、最大の問題は、当時徳川家の本城であった浜松城に籠る徳川家康をどうするか」
姉貴は饒舌に後を引き継ぐ。
「この難題を信玄は、松浜城を素通りする――つまり、挑発行為による誘い出しによって解決した。これは孫子の兵法、虚実編――否、この場合、啄木鳥戦法と言った方が正しいかしら」
啄木鳥戦法といえば、川中島が有名だけど、三方ヶ原の戦いでも使われていたのか……これは初耳だ。
「だけど、三方ヶ原の戦いで敗退した徳川家康も只では終わらない。浜松城に逃げ帰った家康は、全ての城門を開いて篝火を焚く――いわゆる兵法三十六計、空城の計で対抗した」
空城の計――敢えて無警戒を装うことで、敵の警戒心を誘う心理戦。
――孫子の兵法と兵法三十六計は、姉貴が常日頃から語っていたので、覚えるつもりがなくとも大部分を暗記していた。
「日本の戦国時代でも、これ程大規模な騙し合い、心理戦は類を見ないわね。まさに兵は軌道なりを体現している」
何処となく興奮している口調で後を紡ぐ。
「それに戦略面だけでなく、戦術面も興味深いわ」
「……」
「兵数で優勢な筈の武田軍が劣勢向きの陣形である魚鱗の陣を敷き、劣勢な筈の徳川軍は包囲殲滅が意図の鶴翼の陣を構えた――」
何だか、専門用語を長々と語られて眠くなってきた。
俺がウトウトと微睡みに誘われつつも、姉貴の饒舌は止まらない。
「――――従って、少数による鶴翼の陣でも、本陣に回り込ませないという目的は果たせる以上、一定の利はあったわけ――って何寝ているのよ!」
「……ん?終わったのか?」
「まだよ!これから武田軍陣形の考察にも入るところなのだから!」
「……ええ……」
思わず、そんな声が口から漏れた。
「史実の、それも定石破りのバーゲンセールである三方ヶ原の戦いは、玄人向きすぎる――せめて、もう少しシンプルな話にしてくれ」
「……それもそうかもね」
すると、姉貴は素直に肯首する。
「じゃあ、軍勢千対五百の野戦シミュレーションをやりましょう」
時代設定は〝ヨーロッパの中世後期〟そして〝戦場の地形は平原〟でね、と付け加えた。
「二倍の戦力差での野戦なんてシミュレーションするまでもなく結果は見えているだろう」
そう言ってから、ある事を思い付く。
「もしかして、千の指揮官が油断している前提か、若しくは練度や装備にでも差があるのか?」
「兵の練度と装備に差は無いわよ。両軍とも騎兵は百に、銃士が百。歩兵の装備も変わらない。違いは歩兵八百と三百の人数差だけ」
姉貴は不敵に微笑む。
「そして千の指揮官は、五百の指揮官に対して油断してない――寧ろ、最大限に警戒していると言っていい。だから、あからさまな誘い込みや奇襲は成功しない」
「だったら、指揮能力に能力に差でもあるのか?」
「優劣と言う点では差は無い、同格と言っていいわ」
「なら、兵力千を率いる指揮官の勝利で決まりだ」
即答だった。悩む理由が無かった。
「……そんなに答えを焦る必要はないでしょう」
「考えるまでもないだろう」
「このシミュレーションの意図は、正解ではなく考察する事が目的なのだから」
そう言って、食卓の脇にある小皿を幾つか掴んだ。
「さあ、その小皿を駒に見立てて、ゲームを始めましょう」
姉貴は、食卓の上に、一定間隔で小皿を並べ始める。
「先ずは貴方が、五百の指揮官」
「……他に情報は無いのか?」
俺の問いかけに〝そうね〟と姉貴は少し考え込む。
「じゃあ、こうしましょう――私の軍勢には不安がある」
「不安?」
「支配して間もない領地の兵士だとか、私の現体制に不満のある家臣の兵士でもなんだっていいわよ」
「じゃあ、調ら――」
「ただし、寝返りや、不戦を受け入れるほどではないわ」
調略と口にしそうになったのを先回りされる。
「調略は、戦術というより戦略の話になるから、この場合は除外して考える」
「寝返りナシなら、やっぱり詰んでいるだろ」
寡兵が勝利する事例は、姉貴ほど歴史に詳しくない俺でも幾つか知っている。
「……兵力以上に、敵指揮官が優秀で油断していないという条件が厳しすぎる。これじゃあ、夜襲は成功しない」
しかし大抵は、敵指揮官が油断している所に奇襲。若しくは兵站に問題でもあったか、新兵器でも使用していたかのどちらかだ。
「奇襲を封じられた時点で、寡兵が勝利する事は不可能だ」
「奇襲は封じられているけど、別に敵の虚を突くことは封じられていないでしょう?」
姉貴が何でもないように告げる。
「はあ?敵が優秀な指揮官で油断も無い以上、虚を突くことも不可能だろ。奇襲と何が違うんだよ」
「優秀で油断も無いからって、虚を突くことが出来ないとは限らない。三方ヶ原の戦いで家康が空城の計を仕掛けた話をもう忘れたの?」
人の話を聞いていたのと視線が問いかけてくる。
「家康を追撃した武田軍の指揮官は、山県昌景と馬場信春。この二人は、武田四天王と呼ばれたほど優秀な武将だった」
そして、優秀だからこそ、無警戒を装う家康に警戒心を抱いて追撃を中止した、と後を紡ぐ。
「優秀で油断していないから虚を突かれないとは限らない――寧ろ、優秀で油断もしてないからこそ、虚を突かれる事もある」
「……姉貴にはこの状況で策があるのか?」
「ええ」
まるで、それが当然の事かの如く頷いた。
「私なら――」
姉貴が小皿を掴んで口を開いた、その間際――
ピンポーン、と呼び出し音が家の中に響いた。
「……誰か来たみたいだ」
「そうみたいね」
俺は大きく嘆息してから、椅子から立ち上がる。
――訪問者は宅急便だった。手続きに手間取り、部屋に戻った時には、既に姉貴は消えていた。
確かに、姉貴が言いかけた策の続きは気になったが、姉の自室まで追いかけて問い詰めようとは思わなかった。
だけど、それも当然。
姉貴のシミュレーションに酷似した状況に陥る嵌めになるとは、この時の俺には知る由もなかったのだから――




