月光の少女
それから他の貴族たちとも挨拶を交わしたことで、その気疲れから気分転換に伯爵邸宅を散策することにした。
当面の目的地を何処にするか思案し、取りあえず中庭に向かうことにする。
この滞在期間中に目にする機会があり、シュミット伯爵家邸宅の中央には、広い中庭が存在することを確認していた。
――ヴェルシュタインの井戸ぐらいしかない殺風景な中庭とは違い、シュミット伯爵家の中庭は、今が乱世である事を忘れさせるほどに美しい花々が咲き乱れていたことを覚えている。
――別に花を愛でる趣味があるわけでは無いが、偶には静かに花を眺め人生に彩りを加えるのも乙なものだ――
「こんな終末の世なら猶更に、な」
熱に浮かされたように独りごちた――その時、窓の隙間から冷たい夜風が吹き付ける。
その事で、のぼせたように熱に浮かされていた頭が急激に冷却された。
――どうも、酒宴の空気に当てられて酔ってしまっているようだ――なのでこれは中二病の自己陶酔でないはず……だと思いたい。
二日酔いとは異なる憂鬱さと羞恥心に襲われながら、如何にか中庭に辿り着く。
そして、うつむき加減であった顔を上げた。
――黒髪のエルフが中庭の中心で夜空を見上げていた――
淡い月明かりに照らされたその可憐な横顔は、実年齢よりずっと大人びた印象を与える。
その幻想的な美しさは周囲に咲き乱れた花々をも、彼女を輝かせる添え物としていた。
――その何処か現実離れした光景は、亜人が存在する異世界にでも迷い込んでしまったのかと錯覚したほど――
「――こんばんは」
唐突にエルフが――否、黒髪の少女が挨拶の言葉を口にした。
そして彼女が口を開いたことで、俺は幻想世界から現実に引き戻される。
「え、あ……ああ」
咄嗟に返事を返そうと試みたが、間抜けづらを晒す結果にしかならなかった。
「残念ですね――お兄様のように、挨拶しては下さらないのですか?」
何処かいたずらっぽい碧の眼差しを向けてくる。
つまりこの少女は、俺にギュンターみたいなキザな台詞を素面で言えと?
――馬鹿な、それじゃあまるで中二病じゃないかッ!
俺は内心憤りを感じていたが、相手は伯爵令嬢である事を思い出し――ここは一つご令嬢の我が儘に付きやってやることにした。
「……アルス・ヴェルシュタインと申します。以後お見知りおき頂ければ、この上ない幸いでございます」
片膝を突き、少女の手を取り、その甲に軽く口付けをした。
――現代なら、間違いなく人生最大の黒歴史で、軽く死ねるところだが――この異世界の世界観ならおかしくないと必死で自分を慰める。
少女はしばらく手の甲を暫く見つめ、ふと呟いた。
「――悲しいほどに似合いませんね」
――お前が、やらせたんだろうがッ――
しかし、俺の心の声は届かず、それどころか追い打ちを仕掛けてくる。
「言いにくい事ですが……正直、気持ち悪かったです」
少女は全く言いにくそうになく吐き捨て、続けざまに持っていたハンカチで手の甲を拭い始める。
――こんなにも女を殴りたいと思ったのは初めてだ――
今の俺に、名前を書くだけで殺せるノートが手元にあったなら、この異世界で新世界の神でも目指したことだろう。
――ん、名前?そうだ、この女の名前を聞いてないぞ――……
「きさm……貴方のお名前をお伺いしたいのですが?」
すると、少女は一言〝失礼〟と謝り、続けざまに自己紹介する。
「ノーラ・シュミットと申します」
ノーラと名乗った少女はスカートの端を掴んで慇懃に頭を下げる。
そして再び顔を上げ〝えっと……〟と何かを忘れたような素振りを見せる。
「ところで……道化師さん?」
――この女、俺の名乗りを聞いていなかったのかよ――
ここは舐められないようにビシッと言ってやるべきだろう。
「私を道化扱いにしてお遊びになるのはやめて頂きたい」
「……」
「私を道化にしていいのは私だけです」
まるでそれが決めゼリフだと言わんばかりのキメ顔で言い切る。
自分が中二、又は厨二病であることは自覚しているが、だからと言って他人に道化扱いされるのは許せない。
――厨二病患者は実はとてもデリケートな存在なのだ――
「ところで、道化師さん」
――何でループしてるんだよ……いや、疑問形ですら無くなってむしろ悪化している?――
俺が前世の記憶持ちで、長い物には巻かれる主義でなければ、外交問題に発展するところだぞ。
「どうして、この場所に?」
「……気分転換に花を愛でに来たのですよ」
嘘を吐くことでも無いので正直に告白する。
すると、ノーラは目を見開いた。
「……貴方がですか?」
――本当に失礼な奴だなコイツ――
これほど馬鹿にされ、尚も会話を続けようとするほど、俺はお人好しでもマゾでもなかった。
「……夜風は身体に触りますよ、良ければエスコートしますが」
慇懃無礼な態度で、遠回しに〝目の前からさっさと消えろ〟という旨を伝える。
ノーラはそんな俺の態度を気にした素振りは見せず――。
「そうですね、そろそろ部屋に戻ります」
最後に〝エスコートは結構です〟と言い残し踵を返した。
ノーラの背中を見送った後、視線を戻し、ふと目の前のある花に目を留めた。
――それは、赤く咲き乱れたバラだった――
「……どれだけ見た目麗しくてもあんなに棘があったらな」
そう呟いた瞬間、前世のある記憶が脳裏に過る。
「そういえば、汐璃も毒舌凄かったな……」
――そこまで思考して、一度頭を横に振った。
「……いや、もう思い出しても無意味なことか」
前世での幼馴染みの事は言うに及ばず、ノーラの件もこれだけフラグをへし折ったのだ――ご都合主義のフィクションですら、もう何かしらのイベントが起こる事はないだろう。
――リアルなら猶更だ――
そして俺も彼女と同じく天を仰ぎ、前世と変わらない月を眺めた。