フラグ回収(八ヶ月ぶり二度目)
「――論外、だな」
「論外?……いえ、そんなことはありません、一万グルというのは適性金額――否、破格ですらあります」
俺は顔色を変えない伯爵を見据える。
「閣下も石鹸の影響力はご存じのはず」
石鹸販売による莫大な利益、製造することで生まれる領民の雇用拡大、衛生水準向上による死亡率の低下、そして非常時の籠城には疫病予防で軍事物資にすらなる。
――乱世の領主、それも諸侯であるシュミット伯爵がそのことを知らない筈がない。
「現在東部で石鹸を製造している諸侯はございません――今なら、シュミット伯爵家が東部の市場を独占できます」
そこまで言い切って〝いや〟と首を横に振る。
「東部だけではございません――何故ならこの石鹸は既存の石鹸より優れているのですから」
〝この意味も閣下ならお分かりになるはず〟と前置きしてから後を続ける。
「より品質の良い高級品として、貴族や豪商に売り込める」
それは今までフェルステン侯爵とオイゲン伯爵の独占市場であった富裕層をターゲットとしたブランド戦略で、両家からパイを奪い取れるという意味に他ならない。
この新しい石鹸の可能性を正確に認識できたなら、一万グルという金額は破格ですらあることが理解できるはずだ。
「閣下なら一万グルなど、数年で取り戻せるでしょう――そしてそれ以降は何十年にも掛けて莫大な利益を上げ続けることになる」
「……簡単に言ってくれる」
確かにそうかもしれない……だが、決して理想論だとは思わない。
交易都市レーゲを治める利点と東部有数の諸侯という立場から、王都にもコネの一つや二つは持っているはず――それを上手く利用出来たのなら王族御用達といった最強のブランドを手に入れることも夢物語ではない。
改めて伯爵を見ると何かを思案している様子だった。
「……いいだろう、石鹸の利権を買い取ろう」
「おお!」
了承の言葉に思わず喜びの声が漏れた。しかし〝喜ぶのはまだ早い〟と伯爵が手のひらを此方に向ける。
「ただし――金額は千グル(約二億円)だ」
俺は伯爵の告げた金額にただ唖然とする他なかった――
――それから数秒後、如何にか正気を取り戻し再び口を開く。
「……幾ら何でも買いた叩きすぎでしょう」
「ならばどうする?」
「どうするって――」
〝そりゃ他の諸侯にでも持ち込んで〟と答えそうになったのを、伯爵の不敵な笑みを見て慌てて飲み込んだ。
――見切られている、ヴェルシュタインが他の諸侯に売り込めない事を――
〝石鹸の利権を一万グルで買い取らせる〟
ただそれだけを目的としたならシュミット伯爵家以外の諸侯にも石鹸を持ち込んで競合相手を生み出す――つまり、オークション形式で上手く駆け引きすることが出来れば一万グルを超える金額を引き出す事も不可能ではないのだろう。
しかし、それをすれば必ず何処かに禍根を残すことになる。
現代であれば〝これはビジネスだ、恨まれる覚えなどない〟と胸を張れるのだが残念な事にここは乱世であった。
理不尽だろうが、禍根を残せば将来的に争いの種になり、その相手が強大な諸侯であった日にはそのまま滅亡の危機に瀕す可能性だって否定できない。
勿論、絶対そうなる訳ではないし、そう高い確率でもないのかも知れないが――、この場合確率云々の問題ではなく、リスクの大きさそのものが問題であった。
戦国乱世の弱小勢力がそんな大胆な選択肢を取れるはずが無い――そのことを伯爵は見透かしている。
ヴェルシュタインから見て一万グルという金額の支払い能力を持ち、最低限の信頼関係を構築出来ているのはシュミット伯爵家だけ――
つまり千グルという金額は買い手が強い立場である事を強調していた。
――シュミット伯爵家がきれいなジャ〇アン?高品質だから高い値段が適性金額?――馬鹿か俺はッ!
適性金額など競合相手が存在して初めて意味を成すものだ。
シュミット伯爵からすれば、わざわざ高い金額で買ってやる必要性など何処にもない――
一万グルで石鹸を手に入れるより、千グルで石鹸を手に入れる方が遥かにローリスク、ハイリターンだ。
――ローリスクでハイリターンを得られるなら誰だったそうする――
そこまで思案して一度頭を切り替える。
――ならばどうする……千グルで諦めるか?
千グル(約二億円)でも利益は得ているとも言えるが――
その思考を振り払うように頭を横に振った。
違う、金額の問題じゃない――、提示された金額で〝はい、そうですか〟と受け入れたのでは、次期当主の俺に――否、ヴェルシュタインの将来にシュミット伯爵は不安を抱くことになるだろう。
伯爵に次期領主が無能だと思われたら、ヴェルシュタインの独立性は失われるかも知れない。
――少なくとも、今まで通りの協力関係はあり得ない――
俺はこの絶望的な状況を打開する起死回生の一手を、死に物狂いで考えなければならなかった。