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さくらの季節

11月の桜

作者: 木内杏子

 私は10月のはじめ、おばあちゃんが市内の病院に入院したことを知った。お母さんの話によると、少し危険な状態なのだという。

 そして、今日はおばあちゃんのお見舞いに来ていた。


『川原桐子』


 無機質なネームプレートに、おばあちゃんの名前が書かれている。


 私は、引き戸を開けて、おばあちゃんのベッドに向かった。


 川原桐子こと、私のおばあちゃんは80近い後期高齢者である。


「真里ちゃん、よく来てくれたね」


 おばあちゃんのしわくちゃな手が私の撫でた。こんなにおばあちゃんって、シワシワだったっけ……。

思い返せば、私がこの前会ったのは、まだ小学生の時だった。その直後、おばあちゃんとお父さんが喧嘩して合わない日々が7年続いていた。おばあちゃんが倒れて入院しなければ、今もずっと会わないままだっただろう。


「こんにちは、おばあちゃん。私、ここの近くの高校に通ってるの」


「そうかい、真里ちゃんも高校生になったのねえ」


 おばあちゃんは目を細めて言った。


 私は、おばあちゃんと高校のこととか、中学生の時はどうだったとかひとしきり話した後、日が落ちるからもう帰りなさいとおばあちゃんに言われて、病室を後にした。

 もうちょっと遅い時間までいるつもりだった私は時間を持て余してしまった。


 病院は広い。ちょっと探検してみてもいいよね。学生カバンを持ち直して、私は夕日の差し込む病院を探検し始めた。



 ナースセンター、談話室……。

 談話室の窓からは、中庭が見えた。中庭には、もう秋なのにもかかわらず、花が咲いている。私は、中庭に行ってみることにした。


 一階から中庭に出た私は、花たちを順番に見て回った。とても綺麗だけれど、どれも花の名前の表示がない。

 とくに、この真ん中が白くて、ピンクに縁取られている花びらの花が可愛い。


「なんて名前の花なのかな」


私が独り言をつぶやくと、


「それは、アイビーゼラニウム」


 後ろから声がした。振り向くと、少年が立っていた。


「高校生?俺も」

その少年は、白い歯を見せて笑った。少年には少し小さいようなストライプ柄のパジャマを着てその裾から、細い手足をのぞかせている。


「そうです」


「制服からすると……東高か。賢いんだね」


「言われるほど、賢くないですよ」


私は謙遜していった。


「俺は、蒔田翔(まきたかける)。君は?どっか悪いの?」


 少年はニコニコと人懐っこそうな笑顔を浮かべている。


「ううん。おばあちゃんが入院してて、それでお見舞いに来たの。私は、川原真里。蒔田くんって、花に詳しいのね」


「うん。俺、花とかが好きなんだ。あ、翔って呼んで?俺も真里ちゃんて呼ぶ」


こう言って無邪気に笑う、翔君はとても同じ高校生だとは思えなくて、私は可愛いななんて思ってしまった。


「この木はキンモクセイ。オレンジ色の花がついてる」

「へえー」


 ストライプ柄の袖から出ている、細い手首を少しだるそうに上げて、翔君はそのオレンジ色の花を摘み取って私に差し出した。


「プレゼント」

「え? あ、ありがとう」


 私が戸惑って受け取ると、遠くで、看護師さんの声が聞こえた。


「翔くん? どこにいるの?」


「やべ、戻らなくちゃ。真里ちゃんも帰った方がいいよ。もう日が落ちちゃうから」


 翔君はそう言って、わたしが何も言わないうちに小走りで病棟の中に入ってしまった。

 私は、手の中にあるオレンジ色のキンモクセイをつぶれないようにハンカチにくるんで、カバンにしまった。そして、駅に向かって歩き出した。



 家に帰ったあと、私はガラスの小鉢にキンモクセイの花を浮かべた。翔君の笑顔と細くて白い手首が頭の中をぐるぐる回った。

 あの人はどんな病気で、あの病院に入院してるのだろう。

 あの人は何号室にいるのだろう。

 私は翔君のことを、もっと知りたかった。


 翌日も、私はおばあちゃんのお見舞いに行った。半分は翔くんと会えるかなという期待が、私を病院に向かわせていたけれど。でもおばあちゃんと話すのは、学校で興味のない話に付き合わされて時間を無駄にするより、断然楽しくて心が落ち着く。つまるところ、私は高校で人と接することにつかれ始めていたんだ。今日も、おばあちゃんは、私が帰る予定にしていた時間より、少し早めに帰るように促した。私は言われるまま病室をあとにして、中庭に向かった。

 私は、翔君がくることを期待してしばらく咲いている花や、中庭から病棟の窓を見て時間をつぶした。


「真里ちゃん」


 そう呼ばれて、私はドキドキしながら振り返った。


 見ると、今日はチェック柄のパジャマを着た翔君がいた。肩にカーディガンをかけている。私は嬉しくなって、顔をほころばせた。


「俺のこと、待っててくれたの?」

翔君は目を真ん丸にして、驚いたように言った。


「翔君も、私に会いに来たの?」

私は、ちょっと期待して聞いてみた。


「違うよ、たまたま水やりに来ただけ。それにしても珍しいなあ。俺のお見舞いに来る人なんか、滅多にいないよ」


私は違うと言われて少しがっくりしてしまったが、それより気になったのは、お見舞いに来る人がめったにいないと言うことに驚いていた。


「お母さんとかは来ないの?」


じょうろに水を入れている彼に尋ねると、彼の表情が少し曇ったように見えた。しまった、と思ったけれど、もう遅かった。


「俺の母さんは、俺が細くなっていくのを見ていられないみたいで、最近来てくれないんだ。お父さんは仕事が忙しいんだ。ほら、僕の治療代とか、かせがないといけないだろ?」


 ちょっと寂しそうだ。


「私、毎日、このくらいの時間に来ることにする」


「ほんと!?」


 翔君は、小さい子供みたいに、目を輝かせた。わたしもつられて嬉しくなる。


「嬉しいな、昨日、真里ちゃんと話したの、とっても楽しかったんだ。真里ちゃん、友達になってくれる?」


「友達になってくれる?」なんて、久しぶりに聞いた。小学生以来かな。


「うん、もちろん。わたしも楽しかったんだ」


二人で顔を見合わせて笑う。

 楽しい時間はすぐすぎる。だんだん日が短くなっていく10月の夕方は、私たちにとって短すぎた。

翔君が昨日と同じ時間に看護師さんに呼ばれて、私たちはそれぞれ帰るべき場所に戻った。



 翌日も、その次の日も、私はおばあちゃんのお見舞いの帰りに中庭に寄った。時には、翔君が出てこれない日もあった。次の日に翔君に聞くと、ちょっと苦しかったと言った。それでも、私は毎日、土日も通い続けそれが日課になってきたころ。



 いつもより、翔君が暗い表情で、中庭にでてきた。いつものようにじょうろを手にして、蛇口をひねった翔君はいきなり泣き出してしまった。私は、どうしたらいいか分からなくって、とりあえず、翔君の背中をさすっていた。骨が浮き出ている、そんな細い背中を。翔君のしゃくりあげるのにあわせて、上下する背中を、さすりながら、なんだか私も泣きそうだった。

 

 やがて、彼は泣き止むと、少しずつ話してくれた。


「今日、俺とおんなじ病室のおんなじ病気の子が亡くなったんだ」


「苦しそうになって、集中治療室に運ばれて、それで終わりだった」


私は、淡々と言う翔君の横に座って何も言えなかった。


「俺、死にたくない」


 その言葉だけ、切なくて苦しそうだった。心からの叫びを聞いたようで、胸が締め付けられる。

 なにも言えない代わりに私は、翔君をぎゅっと抱きしめた。翔君も、私の背中をぐっとつかんだ。



 もうすでにとっくに日は暮れていた。




 私は、翔君がどんな病気かをいまだに聞けずにいた。そしてそれは、永遠に分からないままだった。



 こんなことがあってからも私たちは毎日会った。そして、ついに、私のおばあちゃんが退院することになった。11月のはじめの方のことだった。

 危険だといわれていたおばあちゃんの病状は驚くほどに回復し、「毎日来てくれた真里ちゃんのおかげ」だとおばあちゃんにとても感謝されたが、私は複雑だった。


 途中から、というかあの約束をしてから、私はおばあちゃんのためじゃなくて、ほぼ翔君に会うために一か月間この病院に来ていたから。


 それと、もう翔君と会えなくなってしまうであろうから。おばあちゃんが退院してからもなお、私がこの病院に出入りするのはおかしいと考えたのだ。


 私は、翔君にこのことを言えなかった。そして、ずっと言わないままだった。


そして、わたしだけが勝手に最後の日だと思っていた夕方。翔君とわたしは、こんな話をした。


「俺、桜が見たいな。俺、桜好きなんだ。冬が終わったって感じするでしょ?入学式も卒業式だって、桜が咲いている。俺は、入学式も卒業式も出たことないけど、想像するんだ。新しい出会いにわくわくするとか、友人との別れのつらさとかをさ」



別れのつらさ、と聞いて、私はどきっとした。そんな私に気が付かずに、翔君は話し続ける。


「まあ、それはいいんだけど。真里ちゃん、桜の花ことば知ってる?」


「知らない……。そういえば考えたことなかった」


「優美な女性。精神の美。淡泊。純潔。だいたいこれが、花言葉だよ。でも、俺が桜をすきな理由の花言葉がもう一個あるんだ」


「それはなに?」


私は、身を乗り出して聞いていた。


「Ne m'oubliez pasーー私を忘れないで」


 私は泣きそうだった。


「忘れないよ、翔君。私、翔君のこと絶対に忘れないから」


 気が付くとこんな言葉を口走っていた。


「明日も会えるじゃない。ね、泣かないで真里ちゃん。この花言葉はフランス語なんだ。フランスの人がつけた花言葉なんだよ。とても、ロマンチックだよね」


 純粋な目をした翔君が私に微笑みかけた。

 私も全力で微笑み返そうとした。--うまく、笑えたかな?


 その日もいつもと同じように、翔君の晩御飯の時間が来て、いつもと同じように私たちはてを振って別れた。

 ただ一つ違うのは、明日からは会えないこと。翔くんが病棟に入って見えなくなったとき、涙があふれた。近いうちに来よう。そう思って、私は病院を後にした。




 そして、一か月後。私は何も言わずに会いに来なくなったわたしに、怒っているであろう翔君に会いに行った。


「あの、蒔田翔君は、どこの病室ですか?」


 私が聞くと、看護師さんたちは目を伏せた。私は嫌な予感がした。


「翔君が待ってた女の子はあなたのことだったのね。彼、毎日中庭にでていたのよ。私たちが何回止めても聞かなかったのよねえ」


懐かしそうに目を細める看護師さんたち。


「翔君は、三日前に亡くなりました。翔君から、あなたに、と手紙を預かっています」


少し年を取った看護師さんが、私に一枚の紙を渡した。


 怒ってないから。



 そう一言だけ書いてあったけれど、私は、その言葉を書くためになんども書き直した痕を見て、声をあげて泣いた。


Ne m'oubliez pas --私を忘れないで



 翔君は私を思って、この言葉を書きたいのを我慢して、消しては書いて、消しては書いて……。


 後悔の波が私を襲った。


 なぜあの時ちゃんと、毎日来れなくなるって言わなかったんだろう。

 もっと話しをしておかなかったんだろう。



 涙があふれて止まらなかった。














 時は流れた。私は結婚し、一人目の子供もすくすくと育ち、やがて二人目の子供を授かった。


 そして臨月を迎えたとき、私はあの病院へ向かった。いまは産婦人科となっているが、建物自体はあまり変わっていない。中庭もそのままで、今は植物好きの院長が世話をしている。


 季節は11月半ば。私は、元気な女の子を無事出産することができた。



 さて名前は何にしようか。そのとき、ふと、翔君の顔が浮かんだ。

『優美な女性。精神の美。淡泊。純潔。』

『Ne m'oubliez pas ーー私を忘れないで』



「ねえ、あなた。この子の名前、桜にしましょう!」


私が提案すると、主人は「いいじゃないか」とうなずいてくれた。



 翔君、11月の桜です。 

 

 あなたを一生、忘れません。

 

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― 新着の感想 ―
[良い点]  感動的な話です。 [一言]  心に残る人でありたいと同時に、自らも幸せになりたいと思いました。
2016/03/25 10:19 退会済み
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