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ヒュランジィーネは古くから風光明媚な観光地として人気のある場所である。長閑のどかな田園風景はもちろん、夏になると少しずつ違う緑で溢れる野山や涼やかな清流もある。短い休暇中でも自然に触れることもできるため、人々の心の癒やしにもなってきていた。また、首都に近いというヒュランジィーネの土地柄、人々の足が向きやすい場所でもあった。


5日の間ヒュランジィーネに滞在することになっているが、既に半分の日程が終了している。最終日には、ヒュランジィーネの新たな試み、とやらを視察する予定となっていた。


私はおさの屋敷に滞在していた。二階の客間からは美しく整備された庭が一望でき、昼は鮮やかな色で彩られている。日が沈んでからも匂い立つような花々の香りが楽しめた。




「……少しぐらいなら」



静かさに包まれた部屋には私の声が響いた。何も反応が無かったことを確認すると、私は庭へ続く扉をそっと開ける。思ったよりもひやりとした外気が隙間から吹き込んできた。屋敷の外にに広がる森が黒々とした夜空を更に深くしているように見え、私は魅入られてしまう。ぽっかりと浮かんだ月が闇に呑み込んでしまえそうだ。幼い子供が見れば畏怖の対象になるだろう光景を、私は美しいと思った。


…いつだっただろう。塔にいた頃、見上げた夜空。それはこんなにも綺麗ではなかった。


ふいに首から下げた宝珠を外し、私は月明かりの下でそれを眺める。何度もそうしたことのある宝珠はもの言わぬ宝珠だ。


亡き父は、この宝珠に何を願ったのだろうか。


そんな疑問がふくれ上がる。しかし答えてくれる人は、もういない。私はまた哀しみに心が侵食されていくような気分になる。泣くまい、とディナトル公国へ来てからは決めていた筈なのに涙腺は緩む。




私が祈るように宝珠を握りしめたその時、後方で足音がした。






◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇





5日間のヒュランジィーネでの滞在はどちらかというと、慰安旅行のようなものだ。リーファがディナトル公国に慣れ、そして疲れていることは誰の目にも明らかである。ならば、と視察も兼ねてこの街に来た。ヒュランジィーネが観光地であることも関係しているのか、この街の人間は基本的に穏やかだった。


俺は宮殿を離れているとはいえ、こなさなくてはならない仕事の量は変わらない。深夜が来てもこんなに書類に埋もれているのは官僚を除けば俺ぐらいではなかろうか、と思ってしまう。


「殿下ー、もうお休みになって下さい…。我々も限界なんですよ」


眠たげに欠伸あくびを噛み殺すヒューはその他の侍従たちの心の内を代弁したようだ。彼らは困ったようにヒューに視線を注いでいる。


「…すまない。後は俺が片付けておくから、先に休め」


「とはいいますけどー。殿下が休まれないと……」


「時間外勤務だろ?…特別手当はないかもしれないぞ」


"時間外勤務"そして"特別手当"という単語にヒューの動きが止まった。ヒューは侍従たちを急かすと、足早に去っていく。彼らが去ると部屋には静寂が落ちる。俺がカリカリとペンを動かす音だけが聞こえているだけだ。一気に片付けてしまおう、とさらに集中が高まる。



どれぐらいそうしていただろうか。



ここではない何処かの扉が小さく開かれる音がした。刺客のたぐいのものにしては音があり過ぎる。護身用の剣を手にしかけた俺は研ぎ澄ました神経で気配を探る。すると、この4ヶ月で聞き慣れた声がして俺は胸を撫で下ろした。


外を見遣ると、肩にショールを掛け、銀髪を背中の中ほどで結ったリーファの姿がある。リーファは侍女も護衛も付けず深夜にどこへ行こうとしているのだろうか。庭の花を楽しむような時間でもなければ星を見るような空模様ではない。月の光があるとはいえ、今日は一面を漆黒で塗り固めたような空模様である。



この屋敷での行動はリーファの判断に委ねられているが、まさかの思いが頭の中を駆け巡る。



気付けば、俺は外へ飛び出していた。


何かを握りしめ、こらえるように闇の中で佇む姿は4ヶ月間共に過ごしても見たことがない。彼女はいつも妃らしくあったし、微笑みを絶やさなかった。それが本物かどうかの真偽はわからない。もしかすると苦しいことや悲しいことを呑み込んでの笑顔だったかもしれない。


「リーファ…」


乱れた呼吸を整えながら呼びかけると、振り返った彼女の瞳から一筋の涙が零れた。


涙を見たのは添い寝を始めた初日。

あの時と同じ、哀しみと過去とに囚われた涙。俺が泣いている訳でもないのに締め付けられるように胸が傷み、心がざわめく。


「殿下…なぜここに?」


リーファは涙を拭って不思議そうに尋ねた。らしくないことを、と気が付くのは後の祭りだ。


「……理由は、わかるはずだ」


咎めるような口調で言えば、リーファはしゅんとして項垂れる。いくら警備がしっかりしているとはいえ、やはり無益に屋敷の外へ出るのは頷けない。


「…黙って出てきてしまいました。申し訳ありません」


「出歩くのは自由だが……、せめて侍女が護衛を連れてくれないか」


はい、とさらにリーファは縮こまる。


「…こんな時間ですから、侍女を煩わせるのは酷だと思いました。ですが……私は最も煩わせてはいけない方を…。申し訳ありません」


深々と一礼しそのまま顔を上げる気配はない。リーファ、と声を掛け、顔を上げた彼女は新たな涙に瞳を濡らしている。俺はそっとリーファの頬に手を伸ばし、ゆっくりと言い聞かせるように話す。


「以後、気をつけてくれればいい。侍女たちだって何時間おきに巡回している……。戻らないと彼らが騒ぎ出すぞ」


言いながら涙を親指で拭うと、驚いたようにリーファは身体を硬くする。その反応は余りにも初々しい。


「笑わなくてもいいじゃないですか……」


リーファはふいっと顔を背けると俺の手も離す。彼女に言われて初めて、俺の頬が緩んでいたことに気付いた。



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