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「話を…?」
湯を使ってきたのか、ジークハルト様の黒髪は濡れたように艶めいている。女である私よりも格段に色気のある姿に私は鼻白んだ。
「……私の身辺に関することなら、全てお話しました」
ジークハルト様の考えていることがわからない。政略結婚なのだし、最低限だけ接していれば良いのではないのか?と私は思った。だけど、ジークハルト様には別の思惑があるようで…。
「とにかく、座ってくれ」
有無を言わさず回れ右をすると、ドカッとベットに腰掛ける。その姿は昼間見せる貴公子然とした雰囲気とは真逆だった。私は困惑しながらも夫であるジークハルト様に従うほかない。ベットに腰掛けるジークハルト様に習って、私は端の方におずおずと座る。私が端に座ったことで、ジークハルト様の間には距離が開いた。
「……あなたは、ご家族に何と呼ばれていた?」
唐突な質問が降りかかり、私は再び困惑する。なぜそんなことを聞くのだろう?と。
「リルフィリアから取ってリーファ、と…」
「そうか…。なら、これから俺もリーファと呼んでも構わないだろうか?」
私は開いた口が塞がらない、という状況に陥った。ジークハルト様との変に空いた距離がありがたく思える。近ければ近いほど内心の動揺は隠せなかっただろう。
私の反応を待っているのか、ジークハルト様はこちらに体を向けている。なぜそんなにも向きあおうとしてくれるのか……とても不思議な思いが駆け巡る。
「どうして……」
「?」
「どうして、そんなにも私に関わろうとなさるのですか…?」
ベットの端からジークハルト様を見つめる。引きこまれそうなほど黒い瞳はただ私を見ていた。
「…今度こそ、守りたいんだ…」
声が低くなり、上手く聞き取れなかった。仄暗い寝室ではジークハルト様の表情はあまりわからないが、その声音からは深い後悔の念を感じる。
それが何を示すのか、私はわからない。
「あなたはこれから先、俺と共に歩む女性だ。…背を向けていられるほど俺は器用じゃない」
「つまり、友人として隣にいればよいのですか?」
私は真面目に答えを見つけたつもりなのだが、当のジークハルト様は非常に驚いた顔をした。そして、みるみるうちに笑いに変わっていく。笑い出すと止まらないのか、ジークハルト様は肩を揺らしながら笑っている。こんなに笑顔を見せる人だったかしら、と思いながら私はジークハルト様の発作 (ということにする)が終わるまで待った。
「もうよろしいですか…」
頬を膨らまして軽くジークハルト様を睨むと、彼はまた口元を緩ませた。
「初めてこちらを見てくれたな、リーファ」
穏やかな笑みを湛えてこちらを見る瞳はどこまでも優しい。どきっ、と心臓が反応し、私は息を呑んだ。
「……私は殿下にその名で呼ぶことを許していませんわ」
ぶっきらぼうな言葉が飛びでた。はっ、と口元を覆い「…すみません…」と小さく謝る。ジークハルト様は可笑しそうに私に問いかけた。
「嫌か?」
「………嫌じゃない、です」
普通に会話をしているとどうしても調子が狂ってしまう。そうか、とまた笑うジークハルト様を残して私はベットの端から立つ。
「……お疲れでしょうから、殿下はそちらでお休み下さいませ。私は向こうのソファで休ませてもらいます」
別に引き留められやしないだろう、と思ったのも束の間。気がつけばしっかりとジークハルト様に手首を握られていた。戸惑う私をぐいっ、と引っ張ると次の瞬間にはベッドに倒れこむ。それは二日酔いで倒れた時のように不可抗力ではなかったはずだ。そして庇うように抱きすくめられている。遠かったはずのジークハルト様の体温を背中に感じ、私の体温は一気に上昇した。
「なっ、何をなさるのですか!…」
うわずった声はジークハルト様のため息にかきけされる。まるで「何を馬鹿な」と言っているようだ。
「俺がそんな薄情者だと言わせたいのか?……俺は妻をいくら柔らかいとはいえ、ソファで眠らせようとは思わないぞ」
ジークハルト様のしなやかな腕や、引き締まった身体と密着してそれどころではない。耳元で声がすることで私の体温は更に上がり、更に声はうわずる。
「なっなななならば、どこで休めと仰るのですか!」
「ここでいいじゃないか」
ジークハルト様の腕の中から動くに動けず、止まっていた私にトドメが刺された。サーッと青くなり力が入る。
「……別に襲おうとか考えてないからな」
からかう様だった声に真剣味が混じり、私は肩の力を抜いた。あからさまにホッとした様子の私をどう思ったのか、ジークハルト様は腕を解く。
「ありがとう、ございます……?」
私の言葉を軽く聞き流すと、ジークハルト様は柔らかい羽毛布団を捲った。とんとん、と場所を示された私は素直に従う。少し離れた場所でジークハルト様が横になると私も身体を横たえた。
「……殿下、おやすみなさいませ」
しばし躊躇ったあとにそう声をかけ、ジークハルト様に背を向けて私は目を閉じた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
少し離れた隣から安らかな寝息が聞こえて来ると、俺はひっそりとため息をついた。無駄に広すぎるベットをこれほどありがたいと思ったことはない。
隣で眠る王女────────────リーファは俺に背を向けて丸くなっている。落ちるのでは、と危惧するほど端にいるリーファは気持ちよさそうだ。
しかし、ここでリーファに教えてやりたいのだ。夜の男の側で軽々しく横になるな、と。「ここでいい」と言ったのは俺だが、それは……。
この状況で短慮な男ならば意気揚々と襲いかかるであろう。決して自分が思慮深い、という訳ではない。
別の場所へ行こうとするリーファを止めた時は何とも思わなかった。だが彼女に触れてみて華奢すぎる身体やふわりと香る石鹸の匂いにぞくりとしたのは事実だ。
「俺がそんな薄情者だと言わせたいのか?……俺は妻をいくら柔らかいとはいえ、ソファで眠らせようとは思わないぞ」
そんな言葉で誤魔化すことしかできなかったのも、また事実。
抱きすくめた腕の中で小さく震えているのが分かってから、一気に現実へ引き戻されたのだ。冷静になれ、と警鐘が鳴っていたにも関わらず欲に負けてしまうとは…。堕ちたものだ、と自嘲する。
「……んぅ」
するりと衣擦れの音がして背中にとん、何かが当たった。それが誰なのかなどと考えなくともわかる。
「おかあ…さ…。と、さま…が」
苦しげな声に俺は思わず反応してしまった。身体を反転させると、閉じた瞼から一筋の涙が伝っていた。先程とは違う意味で小刻みに震えるリーファは痛々しい。
「や…、いや、とうさ……ま」
そう呟いてビクリと震えたリーファは涙の跡を残し、また寝入ってしまう。その一部始終を見ていた俺はリーファの涙を優しく拭う。
そして艷やかな銀髪にそっと口づけを落とした。