演奏
興味津々の人々が見守る中、彼らが演奏し始めたのは異国の曲であった。
アーサーは音楽家の頭に切り換え、それを鑑賞する。うまい、確かにうまい。主旋律はこの国の物ではない音階をベースにしているが、それが彼らの楽器の音と合っている。観客もその不思議な音色に耳を傾け、身体をゆらしている。
その時だった。不意に立ち上がったムイリェンとパチリと目があった。音楽の中で水を得た魚みたいに、活き活きとしている。そんな彼女は何て事か、頬を紅潮させたまま、アーサーにウインクを投げてよこした。
(…ん?)
――どういう意味だ?
合図を寄越してきたと言うことは、何かあるのか? 慌てて手に持ったバイオリンを構えたが、なぜか目の底ではウインクをしたムイリェンの笑顔が消えなかった。
ムイリェンは猫のような足取りで、従兄の隣に立った。
彼らは演奏の下で小さく話したかと思うと、ムイリェンはタンバリンを構える。すると、何て事か従兄は急に主旋律を大きく変えた。
「な…!」
ぐらりと身体が揺れた。
曲の途中に、大きく主旋律まで変えるとはアーサーに取ってみたら天と地がひっくり返ってしまったような衝撃である。そのことは、一気に観客の気持ちを反転させることだから、一か八かの賭けでもあるのだ。
それも、彼らは確かに事前に打ち合わせなんてしていない。つまりはばらばらとなる可能性がある。自殺行為である。
しかし、従兄のガイタに追従していたその他の楽器はなんてことないよう慣れたことようにそれに合わせた。
新たな旋律、それはこの国の者ならば、誰でも聞いたことのある歌であった。
彼らの賭けは成功したようだった。観客の反応はこれで変わった。今まで良くて身体をゆらしていただけの観客は、知っている曲となった途端、身を乗り出したのだ。
人は知らない曲を前にすると、音楽に入り込むことは容易に出来ない。特に音楽家でもない者であったら、ましてや、である。だから、きっと彼らは主旋律を変えたのだ。彼らは観客の拍手に乗せて次第に音を盛り上げていく。
「アーサー!」
ムイリェンの少年の声が呼ぶ。ぼうっとしていたようだ。アーサーはバイオリンの弦に弓をそっと乗せた。一瞬だけ気を静めて、次の瞬間、段差を感じさせないよう音楽に乗る。滑らかなバイオリンの音が絡み合う。
途端、また音楽がまた違ったものに変化する。元々素朴だった物がアーサーのバイオリンによって華やかに彩られる。
おお、とムイリェンが意外そうな顔をしてアーサーを見る。これでも王立楽団の指揮者をしていたのだ。それなりに適応ができなくてどうする。
後、残るのはムイリェンだけであった。
彼女は余裕を持ってぐるりと見渡した。周りには音楽が満ちあふれている。軽やかな音色のティン・ホイッスル、音楽に味を与えてくれるブズーキ、一見派手になると思いきや、滑らかな潤滑油の役割を果たしているバイオリン、土台となるガイタ。
四つの音がまるで絡み合って完全な音楽を作っているように見える。そこに割り入るのは至難の技とも言える。
けれども、彼女は大きく息を吸い、踏み出した。
彼女の喉からあふれ出したのはどこまでも美しい少年の声であった。
何にも染まらない純粋さと思いきや、今、彼女の声を聞いてみると温かな母の愛に満ちている。神への祈りのための透明さだけではなく、愛がそこにはあった。
彼女が歌っている歌詞はこの国の言葉ではない。けれどもその声に含まれているのはどこの国でも変わらない優しい感情だ。
まるで、彼女の声が一本一本糸になって、柔らかい繭を編んでいるようだ。柔らかいけれど、強靱な温かさが包み込む。それによって見る者すべてが音楽に吸い込まれていく。
曲は次第に早さを増していく。それに連れて、彼女の口から出てくる言葉は次第に噛みそうになるほど早口だ。タンバリンが激しく叩かれ、観客の手拍子が曲を高みに持っていく。
すべての熱を一心に受け、ムイリェンはタンバリンを震わせすべての音を収束させていく。彼らの視線が交差される。その一瞬のうちで彼らはこのエネルギーの最期を確認した。そして最後の力が込められる。
――そして魔法が解けた。彼女が握っていたすべてのエネルギーが解放され波のように広がっていく。
残ったのは石のように動かない楽人たちとすべてを出し切った空気のみ。
観客は一瞬自分がどこにいるか忘れたようだ。濃い色彩と力のみがその場に残っていて、観客の五感を麻痺させていた。しかし、次の瞬間、大きな歓声が渦のようにまき起こり、広場に嵐のような拍手が鳴り響いた。
ムイリェン達は笑顔でそれを受け取り深々と礼をした。彼らは激しく運動したときのように荒い息を繰り返し、滝のような汗を流していた。
一方、アーサーはというとこの轟音の中、まるで放心したかのように円の端っこで立ちつくしていた。
これまで経験したことのない演奏であった。自分が音楽を演奏しているのではなく、音楽は自分の身体を乗り移って楽器を動かしていた。
「ほら、アーサー」
背中をこづかれて振り返ると、そこには達成感に溢れるムイリェンがいた。
「周りを見てみな」
彼女に促されてふと瞳の焦点を合わせると、夢中で拍手をする観客がいた。
「な…」
「あんたのバイオリンを誉めているのさ」
いや、違う。教会で演奏したときはこんな大きな拍手はもらわなかった。けれども今、こうして膨大なエネルギーを生み出し、場の空気さえ変えた。これは、これが本当の音楽の力だ。
「アーサー…?」
目の前に立つ、ムイリェンの顔が歪む。頬に熱いものが流れる。それにびっくりしたのはムイリェンの方であった。ばたばたとポケットからいつもは使わないようなハンカチを取り出し、青年に手渡す。
「どうした?」
銅鑼声を響かせてやって来たのは姉だった。
「し、知らねえ。急に泣き出したんだ」
わたわたとムイリェンは答える。姉はちらりと黙ったまま泣いているアーサーを見て、短く何かを言って異国の言葉でムイリェンに言って立ち去った。ムイリェンが慌てたのと、立ち去る間際の姉の唇がわずかにあがっているのが涙の向こうに見えた。
困ったようにムイリェンは右往左往していたが、ちらりとアーサーを上目遣いに見上げた。その視線にアーサーは熱い喉元からようやく声を絞り出した。
「ど、どうしたんだ? 何を言ったんだ?」
「ん、ううん」
ムイリェンはすると、顔を赤くして乱暴にアーサーを自分の元に引き寄せた。とはいっても、体格差がある故、ムイリェンの方がアーサーに引き寄せられるようになったが。
突然のことに息が止まるようだった。
「…仕方ないだろ。わかんねえけどそう言われたんだから」
彼女は顔を合わせないようにぎゅっとアーサーを抱きしめた。それでもその耳が赤くなっているのは隠せなかった。
アーサーは彼女の豊かな髪に顔を埋めた。自分よりもひとまわり小さい体。だが、温かく、遠い過去の母を思わせた。小さいが大きい温もり。まるで自分がほんの小さな子どもに戻ったようだ。何も知らなかったが、知ってしまった嬉しさ、そして不安。それでも、彼女に抱きしめられて安心感に包まれた。
それを知ってか、ムイリェンはアーサーをあやすように抱きしめる。
熱狂的な観衆の中、二人はずっと抱き合っていた。