家族
着いたところは、民家のはずれであった。遠くに見える山々の間に太陽はもうすぐ沈もうとしている。
風よけの大木の側には簡素なテントが建てられ、近くではあの父親と思っていた男が火の番をしていた。その周りで縦笛の少年、そして昨日見たことはなかったが、まだ幼い子どもたちが遊んでいた。
最初にアーサーと彼女に気が付いたのは一番小さな子どもだった。幼児は舌足らずに歓喜の声をあげ、彼女に駆け寄った。両手を精一杯あげた女の子を笑顔で抱き上げ、頬に満ち足りた笑みを浮かべているのをみるとやはり母親だと思わずにはいられなかった。
父親的男はアーサーを見て、彼女になにか異国語で話しかけてきた。それに彼女は答え、男は頷いた。
「この人はドゥム。あたしの従兄でここの大黒柱」
それから彼女はふと気づいたように言った。
「そう言えば、言ってなかったな。あたしの名前はムイリェン。この子があたしの娘のシアーシャ」
ムイリェン。異国の発音で名乗った彼女の名前は何とも舌の噛みそうなものだ。
「アーサー・ヘンリオだ」
彼女は腕の中におさまる幼子を愛おしげに見た。
「シアーシャはね、あたしたちの言葉で『光』と言うんだ」
続いてテントから出てきたのは母親と思っていた女だ。彼女もまたアーサーを見て、ムイリェンに説明を求めている。先ほどの男を父親だと間違えていたが、彼女もきっと母親ではないのだろう。
「こっちはメイヴ。あたしの姉」
やっぱり。
彼女の方はアーサーのことを訝しげに見る。どうやら彼女は昼間のことを覚えているらしい。ムイリェンはさきほどアーサーが買ったパンを麻袋から取り上げ彼女に渡した。彼女は不審顔であったが、何も言わずにテントに引っ込んだ。
「今日は遅いし、演奏の方はまた明日きちんと見せてやるよ」
彼女はやはり父親にしか見えない従兄としばらく話した後に言った。
そうであったらここにいる理由はない。また明日来ようと立ち上がったとき、テントから姉が現れた。
「また明日来よう」
アーサーはムイリェンを通して姉に伝えた。
すると、彼女はなんと、飯を食べろと身振りで示してきた。
「ほら、あんたが買ってきたパンなんだから、遠慮することないよ」
ムイリェンはアーサーの手を掴んで火の周りに座らせた。たちまち、従兄の吸う煙草の匂いに囲まれ、様々な料理が配膳された。
それらは決して豪勢な物ではないが、とてもおいしい物だった。彼らは食事の間中、彼らの言葉で大声で喋り、そして大いに笑った。
――こんな事、家では絶対許されなかったな
厳格な家で育ち、学院でも静かにご飯を食べる習慣が付いていたため、食事中に言葉を挟む技量はアーサーにはなかった。
一人、溶かしたチーズをパンにかけて食べていると、先に食べ終わった少年は火の側でパイプをふかしている従兄に縦笛を持っていき、演奏をねだった。従兄はその岩のような顔に笑みを浮かばせ、縦笛を受け取る。簡素な吹き口に静かに息を吹き込み、無骨な指を滑らかに滑らせた。
その音は氷のように透き通っていた。けれども、メロディーは不思議なことに雪解けのせせらぎだ。
耳を澄ませて演奏を聴いていたアーサーの隣にはいつの間にか姉が立っていた。彼女はお茶を出してくれて言った。
「いい曲だろう。あたしらのじいさんが作ったんだ」
訛は強いがこの国の言葉だ。
「…ええ。聞いたことはないですが。何という曲です?」
彼女はちらりとアーサーを見た。
「腐った魚の骨」
「え?」
思わず聞き返したアーサーに彼女はニヤッと笑った。
「昔、あたしがあのこぐらい小さかった頃、あたしのじいさんが今みたいにあたしにこの曲を聴かせたんだ。それから感想を尋ねた。けれどね、あたしはその時夕食を抜かれて機嫌が悪かったんだ。それで『そんな曲は腐った魚の骨だ!』と言ったらじいさんは笑ってこの曲に腐った魚の骨という名前を付けたんだ」
彼らの音楽は終わらない。終わった先から蕾がふくらむように新しい音楽が生まれてくる。アーサーと話しながら食事の片づけを終えた姉もリュートのような楽器を取り出し、音楽をつま弾き、同じくあどけない娘を抱くムイリェンも時折口ずさむ。
どうしてか、それぞれ奏でる音楽は異なるのに繋がった音楽を聴いているようであった。アーサーはこの家族の根底に流れる音楽の営みに優しく包まれた。
次の朝、ご飯までご馳走になったアーサーは彼らに連れられ今日の演奏場所へと向かう。
ムイリェンはその道の間、持っている楽器の説明をしてくれた。
「――ドゥムの楽器はガイタ。じいさんの遺品の中で一番上等な物さ。メイヴの楽器はブズーキ、トニーのものはティン・ホイッスル。あたしは喉とタンバリンが楽器かな」
どれも馴染みのない物で興味をそそられる。そんなアーサーに逆にムイリェンが尋ねた。
「面白いのかい?」
「ああ。全く知らないものばっかりだ。私はこれでも国の音楽界のトップにいたのこれまで見たこともない」
と、彼女はやや馬鹿にした笑みを浮かべる。
「だから昨日あたし達の演奏を邪魔しやがったわけか。あたしたちが流れ者だからって」
「…あれは違う」
顔を引き締めたアーサーを見て、ムイリェンは呆気なく視線を逸らして、肩をすくめた。
「別にそれだけのものはもらったからいいけれど。――あんたが手に持っているのはフィドルだろ? 知っている曲があればどんどん入ってきな!」
そう言って、彼女は立ち止まった従兄の方へ走っていった。フィドルという名前は聞いたことがないが、このバイオリンの事だろうか。
たちまち、彼らは広場の中心に準備を行い、ムイリェンと少年は客呼びのために散っていった。後の子どもたちはサクラとして観客側に回る。そのせいかもあって、彼らの周りには次第に人が集まり始める。
皆、興味津々にこちらを見ている。
「あんた、フィドルが弾けるって?」
アーサーに話しかけてきたのは姉の方だった。従兄が彼女に翻訳をお願いしているようだ。どうやら従兄はこの国の言葉を喋れないらしい。
「ええ、本職ではありませんが」
「構わないさ。どんどん弾きな!」
姉は子どもたちに銭を入れる皿を渡した。アーサーは戸惑ったが、尋ねる。
「では、楽譜を一度見せてくれませんか?」
「楽譜?」
姉は声をあげて笑った。
「文字だって読めないあたしらに楽譜なんて読めるかね。耳で覚えな!」
「え?」
呆然とするアーサーを後目に、従兄の方が演奏の開始を告げるガイタの音を朗々と鳴らした。