白い部屋、赤い部屋、黒い部屋
目を覚ますと、白い部屋にいた。
壁も白い。
床も白い。
天井も白い。
窓はない。
家具もない。
自分が誰なのかも、なぜここにいるのかも分からなかった。
ただ、不思議と怖くはない。
ここには何もない。
だから、何も思い出さなくていい。
正面に扉がひとつある。
小さな紙が貼られていた。
『順番に進んでください』
私は立ち上がった。
そこで初めて、身体に違和感を覚えた。
右手が、少し動かしにくい。
見る。
ちゃんとある。
指も五本ある。
傷もない。
けれど、なぜか自分の手ではないような気がした。
しばらく眺めてから、私は首を振った。
考えても仕方がない。
扉を開けた。
次の部屋は、赤かった。
壁も。
床も。
天井も。
全部、赤い。
血ではない。
赤い壁紙。
赤い絨毯。
赤い照明。
中央に、小さな椅子が置かれている。
その上に、黄色い子供靴があった。
胸が痛んだ。
「……ひな?」
名前が、口からこぼれた。
どうして知っているのか分からない。
靴に触れる。
五歳。
黄色が好きだった。
雨の日でも履こうとして、私が叱った。
誕生日に買った。
右の靴だけ、踵の内側が少し擦れている。
歩き方の癖だった。
記憶が、一気に戻ってきた。
「ひな……」
娘。
私の娘。
笑うと前歯が一本だけ少し傾いていた。
ピーマンが嫌いだった。
眠くなると、私の右手の小指を握った。
「おかあさん」
声がした。
私は顔を上げた。
赤い部屋の奥。
小さなベッドに、女の子が座っていた。
「ひな?」
娘だった。
私は駆け寄り、抱きしめる。
温かい。
生きている。
「ひな……ひな……!」
「くるしいよ、おかあさん」
「あ、ごめん、ごめんね」
泣きながら身体を離した。
ひなが笑っている。
その顔を見て、私は気づいた。
右腕。
娘の右腕だけが、身体に対して少し長い。
「……ひな、その手」
「これ?」
ひなは自分の右手を見る。
手の甲に、小さな火傷の痕があった。
私は自分の右手を見る。
同じ場所には、何もない。
息が止まる。
台所。
油が跳ねた。
熱い、と叫んだ私。
まだ幼かったひなが泣きそうな顔で、
「おかあさん、いたい?」
と聞いた。
あれは、私の傷だ。
「どうして……」
「おかあさんが、くれたんだよ」
ひなは不思議そうに首を傾げた。
赤い部屋の奥に、もう一枚の扉がある。
そこには紙が貼られていた。
『ここから先へ進めば、すべて思い出します』
行きたくなかった。
身体が、そう言っていた。
でも、ひなが私の左手を握る。
「行こう、おかあさん」
右手ではなかった。
ひなが眠る時、いつも握っていた、私の右手では。
「ねえ、ひな」
「なあに?」
「どうして、そっちの手を握らないの?」
「だって」
ひなが笑う。
「これは、ひなの手だから」
扉が開いた。
黒い部屋だった。
何も見えない。
一歩入る。
背後で扉が閉まった。
「ひな?」
「いるよ」
小さな手が離れる。
暗闇の中で、照明がひとつ点いた。
台がある。
その上に、女が寝ていた。
右腕がない。
顔は、私だった。
「……え?」
もうひとつ、明かりが点く。
別の台。
両脚のない私。
三つ目。
片方の肺を抜かれた私。
四つ目。
皮膚の一部を失った私。
五つ。
六つ。
七つ。
黒い部屋の奥へ向かって、何十台もの寝台が並んでいた。
そのすべてに、私がいる。
何人かは眠っている。
何人かは、こちらを見ている。
一人の私が、かすれた声で言った。
「また来た」
別の私が笑う。
「今回は、まだ全部あるね」
「最初なんだ」
「違うよ」
右腕のない私が言った。
「あなたも、途中」
「途中……?」
女は私の身体を見る。
右手。
胸。
腹。
脚。
それから、少しだけ目を細めた。
「ああ。今回は、まだ何も取られてないんだ」
ひどく疲れた声だった。
頭が痛んだ。
夏の日。
車。
後部座席で眠っていたひな。
ほんの少しだけ。
買い物をするだけ。
すぐ戻るから。
そう思った。
戻った時、呼んでもひなは起きなかった。
病院。
医師。
夫の泣き声。
白い布。
「……死んだ」
声が震えた。
「ひなは……死んだ」
隣にいたはずの娘を見る。
ひなは笑っていた。
「うん」
その一言で、何かが壊れた。
「じゃあ、あなたは誰?」
ひなは答えない。
代わりに、黒い部屋の奥から白衣の男が歩いてきた。
「思い出されましたか」
「誰……」
「担当医です」
「最初の事故後、あなたは強く希望されました」
「何を」
「娘さんを戻すことを」
思い出した。
ひなの身体に縋りついて、私は叫んだ。
何でもする。
何でもあげる。
私の身体を使っていい。
血でも。
臓器でも。
骨でも。
何でも。
だから、ひなを返して。
「ですが、一人分では足りませんでした」
私は黒い部屋を見る。
私。
私。
私。
「あなたの細胞から、同一個体を作成しました」
「……クローン」
「記憶も可能な限り複製しています」
「何のために」
「あなたの意思を尊重するためです」
「ふざけないで」
「あなたは、毎回同じことをおっしゃいます」
医師は端末を操作した。
音声が流れる。
私の声。
『娘を助けてください』
別の声。
やはり私。
『私の身体なら何でも使ってください』
次。
『腕でも脚でも構いません』
次。
『ひなが戻るなら、私はどうなってもいい』
何十人もの私。
全員、同じことを言っていた。
「そのたびに……記憶を消してるの?」
「正確には、初期状態へ戻しています」
「なぜ」
「継続的な同意を得るためです」
「それを、同意って言うの?」
医師は答えなかった。
私は、ひなを見る。
娘の右腕。
私のもの。
脚も。
よく見れば、膝の形を知っている。
左耳。
小さな傷。
それも私の身体にあったもの。
「ひなは……どこまで、私なの?」
「現時点で、身体構成の八十二パーセントです」
ひなが自分の胸に手を当てた。
「ここも、おかあさん」
腹を指す。
「ここも」
顔に触れる。
「ここも」
そして、頭を指差した。
「ここは、まだ」
私は医師を見る。
医師が静かに頷いた。
「何を……取るの」
「脳です」
「私の?」
「はい」
「どれくらい」
「すべてです」
黒い部屋が静かになった。
寝台の私たちも、誰も声を出さない。
「何に使うの」
医師は答えなかった。
ただ、ひなを見た。
私は、その視線を追った。
ひなが近づいてくる。
「おかあさん」
「来ないで」
「おかあさん」
「あなたは、ひなじゃない」
「そうだよ」
ひなが笑う。
「でも」
私の右手を取った。
今度は、右手だった。
その握り方。
小指から握る癖。
胸が、どうしようもなく痛んだ。
「ひなは、おかあさんの中にいるんでしょう?」
違う。
そう言いたい。
でも。
五歳の誕生日。
黄色い靴。
ピーマン。
傾いた前歯。
眠る時に握る小指。
全部、私の中にある。
この子の中には、まだない。
だから。
だから私は。
「……あと、少しだけなら」
口から出た。
自分で言ったのに、信じられなかった。
「提供に同意されますか」
医師が確認する。
ひなが私を見る。
「おかあさん」
私は泣いた。
「……ひなが戻るなら」
黒い部屋の、何十人もの私が目を閉じた。
まるで、その答えを知っていたように。
「お願いします」
「同意を確認しました」
次に目を覚ますと、白い部屋にいた。
壁も白い。
床も白い。
天井も白い。
窓はない。
家具もない。
自分が誰なのかも、なぜここにいるのかも分からない。
ただ、
右手の小指だけが、
妙に寂しかった。
正面の扉に、紙が貼られている。
『順番に進んでください』
私は扉を開ける。
向こうから、女の子の声がした。
「おかあさん」
その瞬間。
なぜだろう。
私は、
この子のためなら何でもしてあげられる気がした。
白い部屋、赤い部屋、黒い部屋。
色だけ決めて始めました。
もう少し素直なホラーになる予定だったんですが、
最終的に母性と同意と人体利用の話になりました。
個人的には、
「何を取られたのか」より、
「それでもまた同じ子を愛してしまうのか」
の方が怖いです。
なので、そこだけは答えを書かずに残しました。
黒い部屋ですので。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。




