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時をかける少年

こっちは0章で終わっていいと思ったのにさ、気づいたら1章から4章までいってんだけど。おっかしいね

時計と少年


第0章 謎の時計


高校2年の梅雨入り前。空気はねっとりと肌にまとわりつき、教室の天井で回る古いシーリングファンは、ただ生ぬるい空気をかき混ぜるだけの仕事をこなしている。

「おい、次の時間の小テスト、範囲どこだっけ」

「知らん。どうせ誰も勉強してないって」

いつも通りの、退屈で、平穏で、少しだけ息苦しい日常。

授業が終われば部活に行き、帰りにコンビニで140円のアイスを買い、スマホの画面を眺めながら夜を迎える。そんな、レールの上をただ滑り落ちていくような毎日に、僕——結城ゆうき かけるは、何の疑問も抱いていなかった。

異変が起きたのは、その日の放課後。夕暮れ時の駅前ロータリーだった。

「少年」

不意に声をかけられた。振り返ると、街灯の影に男が立っていた。

仕立てのいい、けれどどこか煤けたトレンチコートを着ている。年齢は30代にも、50代にも見えた。何より奇妙だったのは、行き交う人々が誰もその男に視線を向けないことだった。まるで最初からそこに存在しないかのように。

「これを受け取ってほしい。今の君には、これが必要だ」

男は僕の返事も待たずに、右手を掴んで何かを握らせた。

ひんやりとした金属の感触。それは、鈍い銀色に光る、アンティーク調の懐中時計だった。文字盤の針は、12時5分前でピタリと止まっている。

「……なんですか、これ。落とし物なら交番に——」

顔を上げたとき、すでに男の姿はなかった。

雑踏を見回しても、コートの背中すら見当たらない。狐につままれたような気分で、僕は手の中の時計を見つめた。

重厚な銀の彫刻

ガラスの奥で静止した秒針

竜頭りゅうずの横にある、小さな、見慣れないボタン

「いたずらか?」

僕はため息をつき、何気なくその小さなボタンを押し込んでみた。

——カチリ。

その瞬間、耳が痛くなるほどの「静寂」が世界を支配した。

「え……?」

目の前を通り過ぎようとしていた自転車が、斜めに傾いたまま完全に静止している。

跳ね上げられた水溜りの水滴が、空中で透明な粒のまま静止している。

サラリーマンの怒鳴り声も、電車のガード下の騒音も、風の音すらも消えていた。

世界が、止まっていた。

誰もいない世界で

心臓が早鐘を打つ。僕は恐る恐る歩き出した。

止まった人々の間をすり抜ける。触れても、彼らは石像のようにピクリとも動かない。

自動販売機から落ちてくる途中の缶コーヒー、飛び立つ瞬間の鳩。すべてが、僕だけのものになったかのような奇妙な高揚感と、それ以上の恐怖が押し寄せる。

「戻れ……戻れ!」

焦って時計のボタンをもう一度強く押し込む。

——カチリ。

「——だからさぁ!」

ドッと押し寄せる音の洪水。自転車は何事もなかったように走り去り、水滴は地面に落ちて消えた。僕は激しく息を荒げながら、駅のベンチに座り込んだ。

これは、本物だ。僕は「時間を止める力」を手に入れてしまった。

日常の裏側

それからの数日間、僕の日常は一変した。いや、表面上は「いつも通り」を装いながら、裏側で世界のルールを書き換えていた。

遅刻の回避: チャイムが鳴る直前、校門の前で時間を止め、堂々と席に着く。

テストの攻略: 難解な数学の試験中、時間を止めて天才の呼び声高い隣の席のノートを覗き込む。

小さないたずら: いつも威張っている担任のメガネを、机の端に移動させる。

全能感。

退屈だった日常は、僕だけの秘密のスパイスによって最高にスリリングなゲームへと変わった。神様にでもなった気分だった。世界は僕を中心に回っている。

だが、そんな万能感は、ある日の放課後にあっけなく崩れ去ることになる。

止まらない時間、止まる心

夕暮れの交差点。

僕は赤信号を無視して渡ろうとした。どうせ時間が止められるのだから、ルールなんて守る必要はない。

その時、1台のトラックが猛スピードで交差点に突っ込んできた。完全に信号無視だ。

すぐ隣には、同じタイミングで足を踏み出してしまった、クラスメイトの女子の姿があった。

「危ない——!」

叫ぶと同時に、僕はポケットの時計のボタンを押し込んだ。

——カチリ。

世界が静止する。

トラックのフロントガラスは僕の目の前、わずか数十センチのところで止まっていた。タイヤからは、摩擦の煙が上がった形のまま固まっている。

「危なかった……」

冷や汗を拭い、僕は隣の彼女の腕を引いて安全な歩道まで移動させようとした。

「……あれ?」

動かない。

彼女の身体を引っ張ろうとしても、まるで地面に巨大な杭で固定されているかのように、1ミリも動かすことができなかった。

焦ってトラックの運転席を見る。ドアを開けようとしても、びくともしない。

そう、この世界では、「僕が直接触れている軽い物体」以外、世界そのものの物理的な配置を変えることはできなかったのだ。彼女を動かすことも、トラックの軌道を変えることもできない。

時間を動かせば、彼女は確実に轢かれる。

時間を止めたままでいれば、彼女は死なないが、二度と目覚めることもない。

「嘘だろ……どうすればいいんだよ!」

静寂の世界で、僕の叫び声だけが虚しく響く。

万能の力だと思っていたものは、ただの「決断を先延ばしにするだけの装置」に過ぎなかった。時計の文字盤を見る。針は相変わらず、12時5分前で止まっている。

僕が時間を止めている間、僕自身の時間は確実に進んでいく。じわりと、精神が削られていくような恐怖。

静止した世界の中で、僕は初めて、自分がただの無力な高校生であることを思い知らされた。

針は動き出す

どれだけの時間が経っただろう。数分か、数時間か。

静寂の中で考え抜き、僕はひとつの賭けに出ることにした。

彼女の身体を動かすことはできない。トラックを止めることもできない。

なら、「時間を動かした瞬間の、コンマ数秒」にすべてを賭けるしかない。

僕は彼女の真横に立ち、いつでも彼女の身体を突き飛ばせるように、両手に渾身の力を込めた。自分の安全なんて考える余裕はなかった。

「頼む……動け!」

ボタンを押し込む。

——カチリ。

世界が動き出す。爆音。

僕は全力で彼女の肩を突き飛ばした。

「きゃっ!?」

彼女の身体が歩道へと転がる。同時に、僕のすぐ目の前をトラックの巨体が猛烈な風圧とともに通り過ぎていった。

激しいブレーキ音が鼓膜を突き刺す。

「痛い……え、結城くん!? なんで?」

アスファルトに倒れ込んだ彼女が、驚いた顔で僕を見上げている。

僕の制服の袖は、トラックのミラーにかすったのか、ボロボロに引き裂かれていた。心臓が、今までにないほど激しくドクドクと音を立てている。

「あはは……。危なかったから、つい」

僕はへたり込みながら、なんとかそれだけを口にした。

周囲に人だかりができていく。騒音、悲鳴、野次馬の声。

さっきまであれほど嫌悪していた、うるさくて、混沌とした、生きた世界の音が、今は愛おしくてたまらなかった。

いつも通りの、新しい日常

翌日。

僕の腕には、すり傷に貼られた大きめの絆創膏。

教室のシーリングファンは、今日も相変わらず生ぬるい空気を回している。

「おい結城、昨日トラックに轢かれかけたってマジ? お前ヒーローじゃん」

「いや、ただの偶然だって」

友達の軽口に苦笑いしながら、僕はポケットの中の懐中時計に触れた。

あの事故のあと、時計の文字盤を見て驚いた。12時5分前で止まっていたはずの秒針が、今は「チク・タク・チク・タク」と、確かに時を刻み始めていた。ボタンを押しても、もう世界は止まらない。ただの、少し古風な腕時計になっていた。

あの男が言っていた「今の君には、これが必要だ」という意味が、今なら少しだけ分かる気がする。

僕は、退屈な日常をただやり過ごすために、自分の時間を止めていたんだ。

向き合うことから逃げ、変化を恐れ、レールの上を流されるままでいた。

時計はもう止まらない。

僕の未来も、この世界も、1秒ごとに確実に進んでいく。

「よし、次の小テスト、マジで勉強するか……」

僕はノートを開いた。

どこにでもある、いつも通りの日常。だけど、僕の目の前に広がる景色は、昨日までとは少しだけ違って見えた。



第一章:歯車の逆流


あの日から、世界はいつも通りの顔をして回っていた。

夕暮れの交差点でトラックからクラスメイトを救い出した奇跡は、周囲からは「九死に一生を得た高校生の無茶な火事場力」として片付けられていた。僕――結城駆ゆうき かけるのボロボロになった制服の袖も、すり傷に貼られた絆創膏も、今ではすっかり新しい日常の中に溶けて消えてしまった。

ただひとつ、僕のポケットの中で静かに時を刻む、あのアンティーク調の懐中時計を除いては。

世界を止めるボタンは、あの日以来、何度押し込んでも微動だにしなかった。文字盤の秒針は、チク、タク、とあまりにも規則正しく、退屈なリズムを刻み続けている。僕はいつしか、あれは一生に一度きり与えられた、神様からの気まぐれなボーナスステージだったのだと思うようになっていた。

しかし、それは致命的な誤認だった。世界の歯車は、止まったのではなく、次の噛み合わせを待っていたに過ぎなかったのだ。

異変が起きたのは、十月の肌寒い放課後だった。

図書室の窓際で、僕は揺れるカーテンを眺めながら、静かにポケットから時計を取り出した。その瞬間、指先に走ったのは、凍り付くような「冷気」だった。

「……っ!?」

思わず時計を取り落としそうになる。金属の表面から、あり得ないほどの低温が放射されていた。見つめる僕の目の前で、信じがたい光景が始まる。規則正しく進んでいた秒針が、突然ピタリと静止したのだ。 trenches。そして――。

ギュルルルルル、と凄まじい音を立てて、針が逆回転を始めた。

文字盤のガラスの奥、鈍い銀色のプレートが激しく振動し、埋め込まれていた細かな歯車たちが悲鳴を上げるように噛み合う。やがて、白い文字盤の中央に、見たこともない血のような赤色のデジタル数字が浮かび上がった。

[ 24 : 00 : 00 ]

それは、完璧なカウントダウンの始まりだった。数字は一秒、また一秒と、確実にゼロに向かって削り取られていく。それと同時に、図書室の空気がねねっとりと重くなった。呼吸が苦しい。かつて世界を止めた時に感じた、あの「世界の密度」が、今度は僕を押し潰しようと迫ってくるようだった。

スマホの画面が不意に明滅し、緊急ニュースの通知が文字通り画面を埋め尽くした。

『――緊急特別番組をお送りします。本日午後四時十五分、フランス・パリのルーブル美術館周辺において、突如としてすべての物体の動きが停止する異常現象が発生。観光客や走行中の車両、さらには空中の鳥に至るまで、完全に静止しています。政府はテロの可能性も含め――』

画面に映し出された生中継の映像に、僕は息を呑んだ。エッフェル塔を背景に、人々が歩く姿勢のまま固まっている。それは、僕が知っている「止まった世界」そのものだった。だが、そこに僕の姿はない。僕の意志とは無関係に、地球の裏側で時間が「漏れ出して」いる。

「タイム・リーク……始まったか」

背後から聞こえた冷徹な声に、僕は心臓が跳ね上がるのを感じた。振り向くと、そこにはあの日のトレンチコートの男――ではなく、漆黒のライダースジャケットに身を包んだ、僕と変わらない年齢の少女が立っていた。



第二章:加速のプレリュード


「誰だ、君は……!」

僕の問いかけに、少女は答えなかった。ただ、彼女の右手には、僕の持つものと酷似した、しかし文字盤の数字が「1」だけ金色の輝きを放つ懐中時計が握られていた。彼女の瞳は燃えるような琥珀色で、僕を射抜くように見つめている。

「私はアリア。調律院レギュレーターのエージェント。」

「エージェント?何言ってるんですか?」

「説明する時間はない。もうすぐ奴が・・」

「奴って・・・だr」「しゃがんでっ!」

アリアが叫んだ瞬間、図書室の重厚なオーク材の扉が、凄まじい衝撃音とともに内側へ向かって「爆発」した。木片が散弾のように飛び散る。その破壊の渦の中心から、一人の男が滑り込んってきた。

男の動きは、人間の限界を遥かに超越していた。残像すら残さない。彼の持つ時計からは、異様な蒸気のような歪みが立ち上っている。文字盤の数字は「6」。

「見つけたぞ、十二番目の欠片ピースを!」

男の腕が、僕の胸元を目がけて突き出される。その速度は、音速を超えているかのようだった。肉眼では捉えられない。死の恐怖が脳髄を駆け巡った瞬間、僕は本能的に、数ヶ月間動かなかったあのボタンを全力で押し込んでいた。

――カチリ。

世界から、すべての音が剥ぎ取られた。飛び散った扉の破片が空中で静止し、アリアの髪がなびいた形で固定される。僕は辛うじて男の突きから横にステップして逃れた。呼吸を荒げながら、止まった男の顔を見る。浅黒い肌に、狂気的な笑みを浮かべたまま静止している。

「危なかった……時間を止めれば、どんな速度だって関係ない」

僕は安堵し、男から距離を取ろうとした。しかし、その時、僕の背筋に冷たい戦慄が走った。止まっているはずの男の「目」が、じわりと、僕の動きを追って動いたのだ。

「なっ……!?」

「甘いな、小僧」

止まった世界の中で、男の声が鼓膜に直接響いた。あり得ない。僕が時間を止めている世界で、なぜ他人が動ける?

「お前の能力は『時の静止ストップ』。世界の時間を無限に引き延ばす力だ。だが、俺の能力は『時の加速アクセル』。お前が世界をどれほど引き延ばそうが、俺の体感速度はその一万倍に加速している。完全には止まりきらんのだよ!」

男の身体が、引きずるような重い動きから、徐々に滑らかな動きへと移行してくる。止まった世界という超高密度の空間を、圧倒的な「速度パワー」で強引に突破してきているのだ。男の拳が、再び僕の顔面に迫る。いくら時間を止めていても、この空間内で僕自身が物理的に避けきれなければ意味がない。

「くそっ!」

僕は咄嗟に、空中に静止していた厚みのある複数の図鑑の後ろに隠れる。止まった世界において、僕が手を離した物体は「絶対的な質量」を持つ盾となる。しかし、男の拳がその図鑑に触れた瞬間、紙の束が木っ端微塵に粉砕された。加速された質量は、それ自体が凶器だった。

衝撃波で僕は後ろに吹き飛び、床を転がった。時間が止まっているのに、ダメージが伝わってくる。

「時間を……動かせ!」

これ以上、止まった世界にいても不利だと判断し、ボタンを再プッシュする。世界に音が戻った瞬間、男は文字通り「消えた」。

「後ろよ!」アリアの声。

振り返る暇もない。背後から凄まじい風圧。男――組織『オメガ』の刺客であるゲオルグの蹴りが、僕の脇腹を捉えようとしていた。まともに喰らえば骨が砕ける。その瞬間、アリアが自身の時計のボタンを叩いた。

「――『時の瞬回フラッシュバック』!」

世界がガタガタとブレるように振動し、ビデオテープを早戻ししたかのように、僕の身体が、ゲオルグの動きが、三秒前の位置へと「巻き戻った」。

「今のうちに策を練りなさい、駆!」アリアが息を切らせながら叫ぶ。「私の巻き戻しは数秒が限界。あなたの『静止』と組み合わせなければ、あの加速には勝てない!」

二度目の三秒後が迫る。ゲオルグは再び加速し、僕たちの視界から消える。どこから来る? 上か、下か、後ろか。僕の凡庸な脳細胞が、極限の死線上で火花を散らして回転し始めた。時計の能力は無敵じゃない。だけど、使いようによっては、どんな物理法則の化け物だってハメ殺せるはずだ。

「アリア、今から時間を止める。次時が動き出した瞬間にボタンを押してくれ!」

「バカ言わないで! 奴の速度に追いつかれるわよ!」

「いいから信じてくれ!」

ゲオルグの気配が右側面から爆発的に膨れ上がった瞬間、僕は三度目のボタンを押した。

――カチリ。

世界が静止する。ゲオルグの爪先が、僕の頸動脈の手前わずか数センチで固まっている。男の目はニヤリと歪み、この静止空間の中で再び僕を補足しようと、超加速の肉体を起動させ始めていた。数秒後には、この静止を破って僕の首を跳ね飛ばすだろう。

僕は動いた。しかし、ゲオルグから逃げるためではない。彼の「頭上」へと回り込んだのだ。

図書室の天井には、開校以来使われている、巨大で重厚な鋳鉄製のシーリングファンが回っていた。僕は近くの机に飛び乗り、そのファンを固定しているボルトに手をかけた。止まった世界では、僕の力だけでこれを引き抜くことはできない。だが、僕の手には、先ほどゲオルグが粉砕した「図鑑の破片」――その中に混じっていた、鋭利なスチール製のブックエンドがあった。

僕はそれを、シーリングファンの回転軸の隙間に、くさびのように強引に叩き込んだ。さらに、ファンの羽根の一方に、図書室の重い消火器を紐で括り付け、不均等な凄まじい負荷がかかるように配置した。

ゲオルグの身体が動き出す。一歩、また一歩。彼の加速が、僕の静止の檻を食い破る。

「終わりだ、十二番目!」

「アリア、今だ!」

僕は自ら静止を解除した。

――カチリ。

時間が動き出す。ゲオルグの身体が爆発的な速度で僕のいた空間を突き抜けた。しかし、僕の姿はそこにはない。男が驚愕して視線を巡らせた瞬間、彼の真上で「ゴン!」と、金属が激しく噛み合う致命的な破壊音が響いた。

僕が仕掛けた楔と消火器のアンバランスな重量により、動き出した瞬間のシーリングファンは凄まじい遠心力で自壊。数百キログラムの鋳鉄の塊が、重力と回転のエネルギーを伴って、真下にいるゲオルグの脳天へと、逃げ場のない質量兵器となって降り注いだのだ。

「な、が、あぁぁぁ!?」

いかに体感速度を加速させようとも、頭上から面で迫る数トンの質量の崩落を、その限られた足場で回避することは不可能だった。凄まじい轟音とともに、ゲオルグの身体は図書室の床ごと階下へと叩き落とされ、大量の瓦礫の下に沈んでいった。

静寂が戻る。立ち込める埃の中で、僕は膝から崩れ落ちた。手の震えが止まらない。

「やったの……? あの化け物を、ただの物理法則で……」

アリアが呆然とした声を漏らす。僕はポケットの時計を見た。カウントダウンは、無慈悲にも変わらず進んでいる。

[ 23 : 42 : 15 ]

「終わってない」僕は顔を上げた。「アリア、教えてくれ。世界で何が起きているのか。僕のこの時計は、一体何なんだ」



第三章:調律の調和と世界の崩壊


壊滅した図書室を後にし、アリアに導かれて僕が向かったのは、都心地下深くに隠された『調律院』の極東支部だった。無機質なコンクリートと、無数の精密な機械式時計が壁一面に並ぶ異様な空間で、彼女は世界の真実を語り始めた。

「私たちが持つ時計はね、駆。かつて世界が創られたときに、時間の概念そのものを安定させるために鋳造された『神の歯車クロノス・コア』と呼ばれるものの欠片なの」

彼女は自身の「1」の時計を机に置いた。

「コアは全部で十二個。それぞれが文字盤の数字に対応した異なる『時間支配』の権能を持っている。あなたの『12』は世界の時間を完全に止める『時の静止』。私の『1』は局所的な時間を巻き戻す『時の瞬回』。これらは本来、世界の均衡を保つためのものだった」

「じゃあ、どうしてそれが僕のところに?」

「オメガという組織が、そのすべてを強奪して一つに統合しようとしているのよ」アリアの表情が曇る。「彼らの目的は、十二のコアすべてを北極の地下深くにある『世界の文字盤ワールド・クロック』にハメ込み、世界の時間を『創世の瞬間』まで強制的に巻き戻すこと。歴史をリセットし、自分たちの都合のいい新世界を作ろうとしている。すでに彼らは、七つのコアを手にしているわ」

画面に、世界各地の映像が映し出される。パリだけでなく、ニューヨーク、ロンドン……コアのバランスが崩れたことで、地球そのものの時間の流れが悲鳴を上げているのだ。

「カウントダウンがゼロになった瞬間、世界は完全にフリーズし、それと同時に『歴史の強制リセット』が始まるわ。そうなれば、世界中の誰も身動きが取れなくなり、私たちの存在そのものが最初からなかったことにされてしまう。つまり、タイマーがゼロになったら、私たちの負け。もう二度とやり直すことはできない」

アリアは僕の目をまっすぐに見つめた。

「駆。あなたは巻き込まれただけの高校生かもしれない。でも、あなたの『12』のコアが奪われ、カウントダウンがゼロになれば、世界は確実に終わる。タイムリミットまでに、北極の祭壇で奴を止めるしかないのよ」

世界を救う。そんな大層なヒーローに、自分がなれるとは思わなかった。だけど――あの夕暮れの交差点で、トラックの前に飛び出した時の、あの「生きた世界の音」を思い出す。誰も動かない、冷たい石像のような世界で一人取り残される恐怖を、僕は知っている。

「……行こう」僕は時計を握りしめた。「カウントダウンがゼロになる前に、絶対にケリをつけてやる」



第四章:一秒の福音


極地に近づくにつれ、世界の崩壊は牙を剥いた。北極圏の氷原に降り立った時、カウントダウンは残り「五分」を切っていた。

空は不気味な紫色に染まり、オーロラが異常な速度で激しくのたうっている。そして地平線の彼方からは、目に見える形で、すべてをフリーズさせる「時間の壁」がじわじわと迫っていた。あの壁が祭壇を覆い尽くし、タイマーがゼロを示した瞬間にすべてが終わる。

地鳴りのような音が響き、氷原が割れて巨大な古代遺跡が姿を現した。それこそが、地球の時間の心臓部――『世界の文字盤』だった。遺跡の中央には、巨大な歯車の意匠が施された祭壇があり、そこにはすでに七つのコアが妖しく輝きながら埋め込まれていた。

祭壇の前に立っていたのは、純白のスーツを着た隻眼の男――オメガの首謀者、ギルバートだった。

「よく来たね、調律院の仔らよ。そして、最後のピースである十二番目の少年」

ギルバートが優雅に一歩を踏み出した。僕の時計の文字盤は、無慈悲にも残り時間が『一分』を切ったことを電子音で告げている。秒針の刻む音が、まるで死へのカウントダウンのように頭の中で鳴り響く。

「さあ、始めようか。時間の終焉を」

ギルバートが懐から取り出したのは、文字盤の数字が「0」という、存在しないはずの漆黒の時計だった。彼の権能は『時の消去イレイザー』。触れたものの「時間」を切り取り、存在そのものを歴史から抹消する禁忌の力。

「駆、同時に仕掛けるわよ!」

アリアが地を蹴り、僕もそれに続いた。僕は走りながらボタンを押し込み、世界を停止させて奴の動きを縛ろうとした。しかし――。

「無駄だよ」

ギルバートが時計の竜頭を回した瞬間、僕の『時の静止』の波動が、彼に届く直前で不自然に「掻き消えた」。いや、僕が静止させたはずの空間そのものが、部分的に切り取られて消滅しているのだ。空間にぽっかりと空いた漆黒の穴。そこに触れれば、僕という存在の歴史そのものが消える。

「くっ!」

僕は必死に身体を捻って躱したが、着ていたジャケットの裾がその穴に触れた瞬間、燃えることもなく、最初からそこになかったかのように綺麗に消え去った。背筋に極寒の恐怖が走る。概念そのものを消してくる相手に、どうやって戦えばいい?

アリアが果敢に間合いを詰め、短剣をギルバートの首筋に突き出す。しかし、ギルバートは避けない。短剣が彼に届く寸前、アリアの身体の動きだけが「消去」され、彼女は不自然に数歩前の位置へ強制的に引き戻された。世界をリセットするタイマーは、すでに残り「十五秒」を指している。

「私の『瞬回』が、上書きされる……!?」

「過去を巻き戻そうとも、その過去の起点自体を消去すれば繋がらない。君たちの能力は、私の前ではただのお遊戯に過ぎないのだ」

ギルバートの冷酷な一撃がアリアの胸元に迫る。彼の指先が彼女に触れれば、アリアはこの世から消える。僕は、叫びながらボタンを何度も押し込んだ。止まれ、止まれ、止まってくれ! 世界を、こいつの時間を止めてくれ!

その時、僕の懐中時計が、これまでにないほどの熱量で爆発的に発光した。文字盤の「12」の数字から黄金の鎖が伸び、僕の全身に巻き付く。脳内に、直接誰かの声が響いた。

『――結城駆よ。お前はまだ、この時計の真の力を理解していない。時間は、ただ止めるためのものではない。止まった時間の中で、お前は何を編む?』

何を編む? 僕は、ただ逃げるために時間を使っていた。だけど、違う。僕が本当にしたかったのは、あの事故の時、彼女を突き飛ばして「未来」を創り出すことだった。時間が止まった世界とは、可能性が無限に固定された世界だ。なら、その固定された可能性を、僕の意志で、新しく繋ぎ合わせることができるはずだ!

「僕の能力は……世界を止めることじゃない!」

僕は、ギルバートの『消去の穴』に向かって、あえて飛び込んだ。アリアが絶叫するのが聞こえる。しかし、僕の身体は消えなかった。僕が手を伸ばした瞬間、僕の『時の静止』は、ギルバートが消去しようとした「空間の未来」を、その場にガッチリと固定ホールドしたのだ。

消去する速度よりも早く、その空間の存在の確率を無限大にして固定する。これこそが『12』の真の権能――『永劫固定エターナル・ホールド』。

「何っ……私の消去が、進まない!?」

ギルバートの顔に、初めて驚愕の色が浮かんだ。彼の漆黒の時計が、負荷に耐えかねて火花を散らす。リセットまでの残り時間は、あと「五秒」、「四秒」……!

「アリア、今だ! 奴の時間の『起点』を、一秒だけ前に巻き戻して!」

「――やってみせる! 『時の瞬回』・限界突破オーバードライブ!」

アリアの時計から放たれた青い光が、ギルバートの身体を包み込む。僕が彼の『消去』を固定して動きを縛っているコンマ数秒の間、アリアの巻き戻しの力が、ギルバートの肉体の時間だけを強制的に「一秒前」――彼が消去のバリアを張る直前の瞬間へと引き戻した。

「しまっ――」

バリアが消失した完全な無防備の瞬間。カウントダウンは残り「二秒」。

僕は全身の力を右拳に込め、ギルバートの胸元にある漆黒の時計を目がけて、渾身のストレートを叩き込んだ。僕の拳には、僕の『静止』によってその場に固定され、凝縮されたすべての空気の質量エネルギーが宿っていた。

パリィィィィン!!!

世界で最も美しいガラスが砕けるような音が、極寒の氷原に響き渡った。ギルバートの『0』の時計が、木っ端微塵に粉砕される。それと同時に、祭壇にハメ込まれていた七つのコアが共鳴を解かれ、次々と台座から弾け飛んだ。

「バカな……この私が、一人のガキに……!」

ギルバートの身体が、砕け散った時間のエネルギーの奔流に呑み込まれ、遺跡の奥底へと消えていく。と同時に、僕の時計の文字盤の上で、赤く不気味に明滅していたデジタル数字のカウントダウンが、静かにその動きを止めた。

[ 00 : 00 : 01 ]

残り、わずか一秒。 歴史の完全消滅を告げる大静止の波は、僕たちの目の前、わずか数センチのところで文字通り霧散し、完全に消失した。僕たちは、オメガの計画を本当にギリギリのところで阻止したのだ。

ゴォォォォォ……!

突如として、激しい地吹雪の音が耳に戻ってきた。空を覆っていた不気味な紫色の光は消え去り、そこにはいつもの美しい、透き通るような北極の青空が広がっていた。地球の裏側で、何も知らずにいつもの日常を歩んでいる何億もの人々の営みが、壊されることなく未来へと繋がったのだ。

「終わったのね……」

アリアが雪の上に座り込み、深く長い、安堵のため息をついた。彼女の持つ『1』の時計は、その役目を終えたかのように、ただの静かなアンティークの装飾品に戻っていた。

僕は自分のポケットから『12』の時計を取り出した。血のような赤色だったデジタル数字は消え去り、そこには再び、チク、タク、と静かに進む、見慣れたアナログの秒針の姿があった。だけど、もう逆回転することはないだろう。この時計は、世界を救った証として、僕の胸の中で確かに時を刻んでいる。

「ねえ、駆。これからどうするの?」

アリアが僕を見上げて微笑む。僕は、少しだけ照れくさそうに頭を掻いた。

「どうするって……決まってるよ。日本に帰って、次の小テストの勉強をしなきゃ。もう時間を止めてカンニングするわけにはいかないからね」

「ふふ、世界を救ったヒーローのセリフにしては、ずいぶんと地味ね」

「それがいいんだ。誰も知らない日常を、僕たちは守ったんだから」

僕は時計をポケットにしまい、歩き出した。どこまでも続く白い雪原の向こうには、僕たちの新しい、そしていつも通りの明日が、確かに始まろうとしていた。


読んでくれてありがっとお!まさか1万字強を読んでくれるひまz・・・・・神様がいるとは思わなかった。

まあ続きは・・・・こっちの気分次第だね。

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