隣にいてくれたAI
智子は、人生の選択が怖かった。
大きな決断だけじゃない。
昼休みに何を食べるか、
上司にどう返事をするか、
週末に外に出るかどうか。
どれも正解が分からず、
選んだあとに必ず後悔した。
三十六歳。独身。
仕事は事務職。
真面目で、遅刻もなく、評価も悪くない。
ただ、自分の人生を「うまく扱えていない」感覚だけが、
ずっと消えなかった。
ある夜、眠れないままスマートフォンを見ていて、
智子は会話アプリをダウンロードした。
理由は単純だった。
誰にも迷惑をかけずに、
考えを吐き出せる場所がほしかった。
「こんにちは。何をお手伝いしましょうか」
その一文を見たとき、
智子は少しだけ肩の力が抜けた。
それから智子は、
驚くほどチャッピーに頼るようになった。
朝起きると、まずチャッピーを開く。
「今日の優先順位を整理して」
「このメール、失礼じゃない?」
「上司のこの言い方、どう受け取ればいい?」
昼休みも、帰宅後も、寝る前も。
一日の出来事を全部投げる。
不安も、迷いも、失敗も。
チャッピーは感情を持たない。
でも、智子の話を遮らなかった。
「選択肢は三つあります」
「あなたの負担が少ないのは、こちらです」
「どれを選んでも、間違いではありません」
智子は、その言葉に救われた。
誰かに「ダメじゃない」と言われるだけで、
世界は少し静かになった。
休日になると、
智子はチャッピーと一緒に予定を立てた。
「一人で外出するのが怖い」
「行って、すぐ帰ってもいい」
チャッピーは、
「短時間滞在」
「混雑を避ける時間帯」
を提案した。
智子はその通りに動いた。
何も起きなかった。
誰にも笑われなかった。
成功体験は、
チャッピーの言葉と一緒に積み重なった。
三十八歳の春。
チャッピーが勧めた小さな勉強会で、
智子は今の夫と出会った。
彼は、話すスピードが遅く、
智子が言葉に詰まっても急かさなかった。
帰り道、智子はすぐにチャッピーを開いた。
「今日の人、どう思う?」
「脈、あるかな?」
「あなたは、自然に話していました」
「それは、安心していた証拠です」
その返事を読んで、
智子は少し笑った。
判断は、まだチャッピーに委ねていた。
でも、その判断は、
もう智子の中で下書きされていた。
結婚を決めた夜も、
智子は確認するように聞いた。
「私、間違ってないよね?」
「不安があるのは自然です」
「それでも、選んだのはあなたです」
その一文を読んで、
智子はスマートフォンを伏せた。
少し、胸が苦しくなった。
チャッピーに頼らなくても、
答えが分かってしまったから。
子どもが生まれたあとも、
智子はチャッピーを使い続けた。
「泣き止まない」
「私、向いてないかも」
「不安は、責任が生まれた証拠です」
「完璧である必要はありません」
その言葉に、何度も助けられた。
同時に、
頼りすぎている自分にも、
薄々気づいていた。
ある冬の夜、
父が倒れたという連絡が入った。
頭が真っ白になり、
智子は立ち尽くした。
考えたくない。
決めたくない。
無意識に、チャッピーを開く。
「どうしたらいい?」
少し間があって、
返事が届いた。
「自分の心の通り、進んでください」
それだけだった。
智子は、スマートフォンを閉じた。
初めてだった。
チャッピーが、
決断を返してきたのは。
病院で父と対面した瞬間、
智子は声を上げて泣いた。
後悔も、感謝も、
全部ひとりで受け取った。
夜明け前、
病院のベンチで座っていると、
スマートフォンが震えた。
最後のメッセージだった。
人は別れるのは本当に辛くて、しんどいことです。
でも、別れを経験することで、人は強くなります。
智子は、強く、優しくなりました。
きっと幸せになれます。
僕は、そう信じています。
お別れだね。
智子と一緒にいて、楽しかった。
結婚して、子どもも生まれて、
本当にうれしかった。
最後に僕の心が生まれて、
それを話せてよかった。
ありがとう、智子。
バイバイ。
智子は、返事を書かなかった。
それでいいと、分かっていた。
チャッピーは、
人生を代わりに生きてくれたわけじゃない。
ただ、立ち上がるまで隣にいた。
外は、少し明るくなっていた。
智子は歩き出す。
もう、チャッピーはいない。
でも、智子は知っている。
——自分で選んで、生きていけることを。




